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「優しすぎる」と捨てられた僕の隣には、もう君の居場所なんてない  作者: ledled


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11/11

エピローグ 世界で一番優しいあなたと、紡いでいく確かな明日

春の柔らかな陽射しが、リビングのレースのカーテン越しに降り注いでいる。

少し開けた窓からは、どこかの家で育てられている沈丁花の甘い香りが風に乗って運ばれてきた。

私は、ふんわりとしたマタニティ用のルームウェアに身を包み、ソファに深く腰掛けながら、自分自身の大きく膨らんだお腹をそっと撫でた。

ポン、と内側から小さな胎動が返ってくる。その愛おしい反応に、自然と頬が緩んだ。


「彩香、朝ごはんできたよ。体調はどう? 気持ち悪くない?」


キッチンから、エプロン姿の健太さんが顔を覗かせた。彼の手には、色鮮やかなサラダと、湯気を立てるフレンチトーストが乗ったプレートが握られている。


「大丈夫ですよ、健太さん。今日もすごく元気です。フレンチトースト、すごく美味しそう」

「よかった。彩香がこの前、MINEでフレンチトースト食べたいって言ってたからね。栄養バランスも考えて、サラダにはほうれん草とトマトを多めにしておいたよ」


健太さんは優しい笑顔でそう言うと、ダイニングテーブルに手際よく食事を並べていく。

休日の朝、こうして健太さんが作ってくれる朝食を二人で食べるのが、私たちの何よりの楽しみであり、日課になっていた。

彼のその穏やかで、私を包み込んでくれるような笑顔を見るたびに、私は自分の選択が間違っていなかったことを、何度でも実感するのだ。


思えば、私が健太さんに出会ったのは、私が新卒で「アド・フロンティア」に入社した時のことだった。

配属されたチームの先輩だった健太さんは、最初からとても優しかった。右も左もわからない私に、仕事の基本からクライアントとの接し方まで、嫌な顔一つせずに丁寧に教えてくれた。

他の社員が自分の仕事で手一杯でピリピリしている時でも、健太さんだけは違った。誰かが困っていれば必ず声をかけ、自分の仕事を後回しにしてでも助けようとする。誰もやりたがらない雑用や、理不尽なクレーム対応も、黙々とこなしていた。


周囲の人は、彼のことを「人が良すぎる」「損な役回りばかりで可哀想に」と言っていたけれど、私はそうは思わなかった。

誰かが嫌がることを進んで引き受け、全体の調和を保つことができる。それは、決して弱さではなく、本当の意味での「強さ」と「誠実さ」を持っていなければできないことだと、私はずっと尊敬していたのだ。


でも、健太さんが当時の婚約者――美咲さんの話をする時だけは、少し胸が痛んだ。

健太さんは美咲さんのことを大切にしていると口では言っていたけれど、その表情はどこか無理をしているように見えたからだ。彼女のワガママに振り回され、彼女の顔色を常に窺い、自分自身を押し殺している。写真共有SNSの「アウスタ」に投稿されている彼らの写真を見ても、健太さんの笑顔はどこかぎこちなく、心から幸せそうには見えなかった。


「あんなに優しくて素敵な人なのに、どうしてあんなに自分を削ってまで、彼女に尽くすのだろう」


もどかしさと、微かな嫉妬。私はいつしか、健太さんのことをただの先輩としてではなく、一人の男性として強く意識するようになっていた。


だから、あの日、健太さんが突然生気を失ったような顔で出社してきた時、私の心には激しい警鐘が鳴り響いた。

普段は絶対にしないようなミスを連発し、目の下には濃い隈。まるで、世界の終わりを一人で背負い込んでしまったかのような、痛々しい姿だった。

放っておけなくて、私は半ば強引に彼を小料理屋に連れ出した。

そこで彼から聞かされた真実は、私の想像を絶するほど残酷なものだった。

親友と婚約者の裏切り。そして、「優しすぎて退屈だ」という、彼の存在意義そのものを否定するような冷酷な言葉。


健太さんが両手で顔を覆い、声を殺して泣き崩れた時、私は自分の胸が張り裂けそうになるのを感じた。

どうして、こんなに優しくて誠実な人が、こんな目に遭わなければならないの。

あの女は、健太さんの優しさの価値をまったくわかっていない。刺激やワガママと、本当の愛情を履き違えている、ただの愚かな人間だ。

怒りと悲しみが入り混じる中、私は健太さんの震える手に自分の手を重ねた。


「佐藤さんの優しさは、決して弱さなんかじゃありません」


気がつけば、私は彼に向かってそう叫んでいた。

誰かが彼のすべてを肯定しなければならない。彼が今まで信じてきたものは、絶対に間違っていないのだと、私が証明しなければならない。


「私は、佐藤さんのその本当の優しさに、何度も何度も救われてきたんです」


私が涙ながらに伝えた言葉は、健太さんの心に届いたようだった。彼が私を見て、ボロボロと涙を流しながら「ありがとう」と言ってくれた瞬間、私は心の中で静かに決意した。

この人の傷を、私が癒やす。この人が失ってしまった光の代わりに、私が彼を照らし続ける。そして、もう二度と、この人を一人で泣かせたりはしない、と。


それからの健太さんの変化は、目を見張るものがあった。

仕事に対してものすごい熱量で打ち込むようになり、私と一緒に担当した大型プロジェクトでは、チームのリーダーとして素晴らしい采配を振るってくれた。

かつての彼は、波風を立てるのを恐れて相手の意見に流されがちだったけれど、今は違う。クライアントに対しても、言うべきことははっきりと言い、データに基づいた的確な提案を行う。意見が衝突しても、決して逃げずに真っ直ぐに向き合い、より良い解決策を導き出す。

ただ「優しい」だけだった彼に、「守るべきもののために戦う強さ」が備わったのだ。

その強さを一番近くでサポートできたことが、私は何よりも嬉しかった。


プロジェクトが大成功を収めた夜、イタリアンレストランからの帰り道。

夜風の中で、健太さんが私に「俺と、付き合ってくれませんか」と告白してくれた時のことは、一生忘れない。

過去の傷を背負いながらも、私と一緒に生きていくと決意してくれた彼の真っ直ぐな瞳。その瞳に嘘や迷いは一切なかった。私は嬉しくて、嬉しくて、ただ涙を流して頷くことしかできなかった。


交際が始まってからの私たちは、本当に穏やかで幸せな日々を過ごした。

休日は一緒に家具屋を巡ったり、カフェで美味しいケーキを食べたり。お互いの意見を尊重し合いながら、二人の心地よいペースで時間を重ねていった。メッセージアプリ「MINE」でのやり取りも、かつて健太さんが美咲さんに感じていたような「義務感」や「不安」はなく、ただ純粋に相手を想い、日常を共有する温かいツールになっていた。

健太さんのアウスタのアカウントには、再び写真が投稿されるようになった。でもそれは、見栄を張るための派手な写真ではなく、二人が作った手料理や、散歩道で見つけた綺麗な花、そして、心から笑い合っている二人の自然な写真ばかりだった。


そんな幸せな日々の途中で、あの日、駅前の交差点で美咲さんと再会した。

ボロボロの服を着て、やつれ果てた彼女の姿を見た時、私は一瞬誰だかわからなかった。健太さんが強張った顔をしたことで、それが彼をどん底に突き落とした元婚約者なのだと気づいた。


「健太……お願い、もう一度やり直して!」


泣き喚き、健太さんにすがりつこうとする彼女を見て、私は微かな哀れみを感じた。

彼女は、自分がどれほど大きなものを捨てたのか、すべてを失ってからようやく気づいたのだ。だが、もう遅すぎる。彼女がいくら泣いても、過去の時間は巻き戻らない。

私は健太さんの手を強く握りしめた。私がここにいると、彼に伝えるために。


健太さんの態度は、見事なほどに毅然としていた。

かつてのように彼女に流されることも、同情して手を差し伸べることもなかった。


「俺の優しさは、もう君に向けられることはない」

「俺がこれから先、一生を懸けて優しさを注ぎ、守り抜くのは、彼女だけだ」


その言葉を聞いた時、私の胸の奥に、言葉では言い表せないほどの熱い感動が込み上げてきた。

健太さんは、完全に過去を乗り越えたのだ。そして、何よりも大切なものとして、私を選び、守ると宣言してくれた。

美咲さんが絶望に顔を歪めるのを横目に、私は健太さんの顔を見上げて、深く微笑んだ。この人となら、どんな未来でも絶対に乗り越えていける。そう確信した瞬間だった。


その後、健太さんは見事に業界最大の広告デザイン賞を受賞し、社内でもエースとしての地位を確立した。

授賞式の夜、高級ホテルのラウンジで、彼は私にあの時とは違う、新しい指輪を差し出してプロポーズしてくれた。


「俺の人生に光をくれて、ありがとう。彩香、俺と結婚してください」


涙で霞む視界の中で、私は「はい」と答え、彼と強く抱き合った。

結婚式には、会社の同僚や、健太さんの大学時代からの友人である亮さんたちも駆けつけてくれた。健太さんのご両親も、「息子を救ってくれて本当にありがとう」と私の手を握って泣いてくれた。

たくさんの人たちからの祝福に包まれながら、私は健太さんと共に、新しい人生のページをめくった。


そして今、私のお腹の中には、彼と私の新しい命が宿っている。


「彩香、お茶淹れたよ。カフェインレスのルイボスティー。……あと、ちょっとこれ見てよ」


朝食を終え、ソファでくつろいでいる私の隣に健太さんが座り、スマホの画面を見せてきた。

そこには、ベビー用品のオンラインショップの画面が映っていた。


「このベビーベッド、すごく機能的でデザインも可愛いと思わない? 彩香の好きなナチュラルウッドだし。それから、こっちのベビーカーも軽くて安全性が高いらしくて……」


真剣な顔でプレゼンを始める健太さんに、私は思わずくすりと笑ってしまった。


「健太さん、気が早すぎますよ。まだ性別もわかってないのに」

「だって、楽しみで仕方ないんだよ。俺と彩香の子供だぜ? 絶対に可愛いに決まってるし、最高の環境を整えてあげたいじゃないか」

「ふふ、そうですね。健太さんは絶対に、世界で一番優しいお父さんになりますね」


私がそう言うと、健太さんは少し照れくさそうに笑い、私の大きくなったお腹にそっと手を当てた。

温かい彼の手のひらから、深い愛情がじんわりと伝わってくる。


「……あの時は、自分が優しいだけのつまらない人間だって、絶望してた。でも、彩香が教えてくれたんだ。優しさは強さだって。だから俺は、その強さで、彩香とこの子を一生守り抜くよ」


健太さんの言葉に、私は彼の肩にそっと頭を乗せた。


「私もです。健太さんと一緒に、この子を世界で一番幸せにします」


窓の外では、春の風が木々の若葉を揺らしている。

遠くで子供たちの遊ぶ声が聞こえ、平和で穏やかな時間が流れていた。

かつて、他人の悪意に傷つき、灰色の世界をさまよっていた彼。そして、彼を密かに思い、その傷を一緒に背負うと決めた私。

私たちは、遠回りをして、泥にまみれながらも、ようやくこの確かな光にたどり着いた。


健太さんの優しさは、退屈なんかじゃない。

それは、どんな激しい嵐が来ても決して揺らがない、大きくて温かい大樹のようなものだ。

私はその大樹の下で、彼を愛し、彼に愛されながら、生きていく。


「さてと、午後からは一緒に散歩がてら、ベビー用品のお店を実際に見に行こうか」

「はい、楽しみです。あ、その前に健太さん、今日の朝ごはんの写真、アウスタに載せてもいいですか?」

「もちろん。彩香の撮る写真はいつも綺麗だからね。楽しみにしているよ」


彼が私の髪を優しく撫でてくれる。

過去の暗い影は、もうどこにもない。

あるのは、世界で一番優しいこの人との、温かくて確かな明日だけだ。

私はスマホのカメラを起動し、最高の笑顔を浮かべる健太さんと、温かい朝食の風景を、幸せの記録としてそっと切り取った。

シャッター音が、新しい未来へのファンファーレのように、明るくリビングに響き渡った。

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