源氏とキセキの物語・天皇賞春(1)
「あっ、トーセンカンビーナ出遅れた」
果凛はシェアハウスのリビングにある85インチの8K液晶テレビに向け、素っ頓狂な声を上げた。
3月22日は日曜午後、阪神大賞典のゲートが開く、全馬一斉のスタート!のはずだった。
「まあ、3000mだし、後から行く馬だからねぇ」
姉の冴は黒いロングヘアを耳の付近でかき分け、『そんなに気にしなくても』という。
トーセンカンビーナは『まだまし』かもしれない、まだ出遅れたという状況であろう。
ゲートからのっそり出てくる一頭、キセキだ。
ドレットノータスが先頭、出遅れたトーセンカンビーナまでで約10馬身。
更にトーセンカンビーナからキセキまでは5馬身差だ。
1頭だけ異次元での競馬か。
「ふざけんな!」
飛び上がって、大音響を天井にぶつけた果凛は自慢の金髪ツインテールを振り、ソファー目がけて一直線に尻を落とす。
シェアハウスオーナーの鞍さんは逃げ馬が好きな果凛に薦められ、キセキを買っていた。
差し馬が好きな冴が選んだユーキャンスマイルとの馬連一点、1万円だ。
果凛は仏頂面で腕と足を組むと、大画面に憤懣を集中させた。
栗色セミロングの毛先のカールが揺れるのを気にしない鞍さんが『果凛ちゃん』と心配そうに囁く。
最初の3コーナーでドレットノータスからトーセンカンビーナとレノヴァールまでの隊列が約14馬身。
ユーキャンスマイルはトーセンカンビーナの前を追走。
キセキがレノヴァール直後まで挽回する。
ホームストレッチに入ると、先頭のドレットノータスから隊列に加わったキセキまで10馬身に圧縮される。
最後方のキセキが動き始めた。
1000m62.6秒
キセキは中段まで位置を押し上げる。
だが、そこではキセキは収まらない。
1コーナーを過ぎると、内ドレッドノータス、中タイセイトレイル、外にキセキが先頭に並ぶ。
ユーキャンスマイルは後方から2番手、最後方はトーセンカンビーナが追走する。
果凛が渋面でツインテールを左右に振る。
その意味は『ありえない』とも『これはだめだ』とも取れる。
前を行く三頭雁行は順位を入れ変え追走し、キセキは3番手となる。
3コーナー、ユーキャンスマイルが後方から中段へ先行へと進出する。
4コーナーから直線、タイセイトレイル先頭、キセキは2番手、その後はユーキャンスマイルだ。
キセキが先頭に立とうとする。
何時もなら冴も果凛も大声を張り上げるタイミングだ。
だが、果凛は押し黙っている。
冴も声が出し辛いようだ。
鞍さんも困った表情だ。
ユーキャンスマイルがタイセイトレイルとキセキの間を割って、先頭へ躍り出る。
先頭に立つと後続を突き放す。
キセキが馬群に飲み込まれる。
ユーキャンスマイルが2馬身差のゴール、2着はトーセンカンビーナが突っ込んだ。
キセキは約4馬身差の6着。
果凛は大きな嘆息をテレビに向け、押し黙る。
『まあ、阪神大賞典のキセキなぁ』と冴。
『あれは『凄い』ですよね』と果凛。
仕方がないよと二人は耳元で残念を囁き合う。
一言囁いた果凛は視線をテレビに向けて沈黙する。
場の雰囲気を変えようと『スプリングステークスのお勧めは何ですか?』と鞍さんがわざとらしく訊いていた。
「へぇ、そんなことがあったんだ」
優は少し高い声音をあげる。
シェアハウスの入居前の阪神大賞典に関心を持つように。
『言わないでよね。果凛さんには』
惠は冴さんに聞いたという『阪神大賞典の話』したのを黙ってと、真顔で右手の人差し指で口を塞ぐような仕草で念を押す。
阪神大賞典のレースが実施された当時、惠は諸事情で新潟の実家に帰省中だった。
そして、四月に出会った初日に惠は優に風呂場で全裸を見られた『ご愛嬌』があるシェアハウスの同居人だ。
シェハウスに住み始めた四月は『春休み』で、五月の連休との境目が曖昧だった。
だらだらと時が流れる中、競馬の開催が一日一週の移ろいを詳らかにしている。
5月1日金曜午後、シェアハウス内リビングのソファーに惠と優が並んで座る。
今週末、5月3日の日曜は京都競馬場で春の天皇賞だ。
優と惠は今年度から同じ大学一年だが、その大学は閉まったままだ。
ずっと『鳥の籠』には変わりはない、そう思う優がノートパソコンを開いている。
「一般教養のレポート?」
惠は挑発するように深いスリットの入るスカートから足を交差させ、尋ねた。
「そうだよ、惠は課題出ていないの?」
優は『レポートを取り纏め中』という風に、タイピングを続ける。
4月27日からネットで授業始まったじゃん、と指摘する。
そうだった。
大学の情報ポータルをちゃんと見てる?と確認を促す。
「これから、これからだよ」
惠は言い訳がましく、現実から逃れようとする。
5月2日からのコミ○クマーケットが中止になり、出店予定のサークルが開催するエアコ○ケのチェックに忙しすぎたかと反省する。
だが、何か寂しい、リアルのイベントに思いを馳せる。
「本当は行きたかったんだよなぁ」
「そう、京都競馬場に行きたかったねぇ」
無観客の天皇賞を残念がるとタイプの音は止み、惠が呼応する。
「京都かぁ、せっかくなら宇治も行きたいわねぇ」
宇治は優と惠がファンであるアニメ化された小説の舞台の街だ。
「競馬場の最寄り駅、淀からだと京阪を中書島乗り換えで三十分くらいかな?」
経路を耳にした惠は一緒に宇治へ行きたいと思った、優を地図代わりとしてだが。
「京阪宇治駅、宇治橋、JR宇治駅、宇治橋通り」
惠が指を折りながら数えると、優もそれに習う。
「平等院表参道、あじろぎの道、喜撰橋、朝霧橋、観流橋」
「宇治神社、さわらびの道、宇治上神社」
『大吉山』
同時に山の名前を口にすると、惠が天井へと吹き出し、優が腹を抱えて床に大笑いして続ける。
「今年なら5月2日か4日に宇治で聖地巡礼、3日は淀で天皇賞観戦だね」
一日で両方は厳しいかもと優が日程を語り始める。
「コミ○クマーケットがちょうど2日から4日だよね。行く暇ないなぁ、実際は」
「実際ねぇ…」
優が天に向かって、吐息を吐く。
分かってはいるのだ。
競馬は無観客で何とか綱渡りで開催されてはいるが、都道府県を跨ぐ移動は出来ず、土日でのジョッキーの東西移動もままならない状況である。
京都競馬場での天皇賞観戦にしても、アニメの聖地巡礼にしても、東京ビックサイトでのコミ○クマーケットにしても、本来なら嬉しいスケジュールをいろいろと楽しく練るのだろう、普段の年ならば、だ。
「源氏物語ミュージアムも行きたかったなぁ」
光源氏や『宇治十帖』の世界など源氏物語の魅力を様々展示や映像で紹介している宇治市にある博物館だ。
優はそれならもう一日必要かもと想定する。
「優は『源氏』が好きなの?」
まあ、高校の古文の授業を受けて解説書を一度読んだだけだと前置きして、答える。
「まぁ、ハーレムは男子の理想じゃないかな」
「あっ、優ってそういう見方するんだ。以外だな」
「だって、そうじゃない。帝の息子で、父の愛する人に思いを遂げて子までなして…」
「…都を追われたこともあったけど、屋敷の六条院を完成させて妻の紫の上を含め四人の女性を住まわせて、准太上天皇になって、やりたい放題だよね」
「そりゃ、そうだけど、そうあからさまに言われるとねぇ」
その後、 側妻である女三宮の不義、妻の葵の上や自身の死への話、それこそ源氏なき後の宇治十帖もあるんだけど。
惠が残念を吐く。
「恋物語の王朝絵巻をイメージしてた?」
「それもあるけど、『もののあはれ』でしょう」
「光源氏は欲望に正直な好色家だよね」
優がノートパソコンを閉じながら、独自の男性目線を露わにする。
「あー、もう。信じられない」
そういう見方はしないでと、惠は優の右腕をパンチする。
「あっ、痛った。乱暴するなよ」
「知らない」と惠は膨れると反対を向く。
『何?また、痴話喧嘩かよ』と、果凛が呆れるような顔をげんなりとさせてリビングに登場した。
「いえ、別に」
「何もないですよ」
示し合わせたようにそっぽを向く。
惠と優は仲が良いのか悪いのか、奇妙な関係だ。
「コイツら見てると、冴姉が苛つく気持ちが分かるわ」
苦笑する果凛を見て、『どうしますかねぇ』と右手を顎に当てながら考える鞍さん。
「それじゃあ、今晩は『坊主めくり』します」
京の都など、雅の世界を堪能しましょう、とのことだ。
「坊主…」
「…めくり、ですか」
フレーズの前後を惠と優が繋げる。
「そうです『坊主めくり』です」
鞍さんが胸を張って主張すると冴が補足を述べる。
「このシェアハウスではイベントをすると関連した内容が不思議と馬券に関連するんだよなぁ」
「ですから、楽しみにしてくださいね」
鞍さんが優と惠に笑みを向けた。
イベントが馬券に関連するのか。
優と惠は「本当かよ」と訝しがった。
鞍さんが『いいですよね』と手を合わせて首を斜めにすると、二人は仕方なく首を縦にした。
その夜、鞍さんが自身の部屋で、左の優と惠、右の果凛と冴を睥睨する。
丸く座る真ん中には百人一首の絵札が裏返しに積み上げられている。
鞍さんの『こほん』という、小さな咳、説明が淡々と流れる。
冠や烏帽子のある『男性札』なら自分の持ち札になる。
頭が坊主の『坊主札』を引くと、持ち札を捨てなければならない。
王朝絵巻の長い髪と十二単の『姫の札』は捨て場の札を総取り出来る、ということだ。
勝負は五回戦、負けたら服を一枚脱ぐ『野球拳』で、トータルの勝敗で最下位は勝者にいうことを聞く『王様ゲーム』がシェアハウスのルールだという。
『何だそりゃ』と怪訝そうな優と惠に対して、『仕方がないね』というサバサバとした表情の冴と果凛だ。
さらに、『優くんは負けたら脱ぐんじゃなくて、女の子の服を着て貰いましょう』とのこと。
『さぁ、坊主めくりで仲良しになりましょう』を聞く優はこのルールだと逆効果な気がした。
だが、シェアハウスの女神である鞍さんのご意向に、背ける者など誰もいない。
『もう、いいです。何でもコイです』と惠が開き直ると、優もバカバカしいゲームに腹を括った。
この小説はフィクションであり、過去および現在の実在する人物・組織・馬などにはいっさい関係ありません。




