お騒がせの女の子、惠登場!優とコントレイル&サリオスの大事件!?・皐月賞(4)
「よし、取った!」
タイセイビジョンが直線内に切れ込むと、後続を2馬身離す。
直線は力強く抜け出す姿が小気味良い。
優が腰あたりで右手の拳を引くと、ガッツポーズとなる。
惠はスタートからゴールまで叫びっぱなしで、煩すぎた。
土曜阪神メインのアーリントカップは惠が主役だ。
晴れ間が見える阪神コースを観ると中山も明日は晴れるといいなと思うのは惠だけではないだろう。
朝日フューチュリティで大好きなサリオスの2着したタイセイビジョン、『休み明けだけど友情応援するんだ』と言い張っていた。
優も唯一の重賞勝ち馬なら、休み明けでも確か3月18日から8本時計を出した調教が乗り込み豊富なので、十分勝負なると踏んだ。
『じゃあ、単勝1万円、勝負しちゃいましょう』は鞍さんのご神託だった。
「お見事」
「やったな」
目を細めた冴が拍手すると、顔を紅潮させた果凛が惠に抱きつく。
惠も抱きつき返す姿を鞍さんが微笑ましく眺める。
やはり競馬ファンの喜びは馬券的中に他ならない。
「結果論ですが、この強さなら単勝の払い戻し300円はオイシイかも」
優も中山6レースの汚名が挽回出来たとあって喜びもひとしおだ。
復活した優を鞍さんが微笑ましい表情を向け、スマホを手にする。
自身が申し込んだスマホの画面でアーリントカップの的中を噛みしめたかったのだ。
「あれっ」
何だか動作がおかしい、いつもの画面に行かない。
『鞍さん、大丈夫?』の冴に『ええ、まあ、いいか』との鞍さんだ。
柱の時計を見ると四時が過ぎる。
鞍さんは『予想大会の準備しなきゃ』とエプロンの皺を直す。
リビングを見渡すと目尻を下げる果凛が『惠の方が馬券上手じゃん』と優をからかっていた。
冴と惠はその光景に失笑する。
住民たちの仲が良い光景を目にして、気持ちよく皐月賞の『予想大会』できますねと、鞍さんはリビングに漂わした。
『予想大会』で饗される手作り料理、その準備にキッチンに向かう鞍さんはやはり嬉しそうだった。
4月18日土曜、夜のシェアハウスは競馬の住人、大人の王国だ。
リビングのL字ソファーには窓側の短辺には果凛と冴、その右手の長辺には惠、短辺の向こう正面になるオットマンには優が座していた。
鞍さんがセンターテーブルに軽食と飲み物を準備万端となると惠の右へエプロン姿で座る。
鞍さんは髪のサイドを編み込みにしていた。
冴によると、鞍さんは嬉しいとサイドの髪を編み込みにしたりアップしたり一手間かけるとのことだ。
果凛はブルーチェックのセットアップパジャマ、惠はピンク色したプルオーバーのスウェット、優はジャージで、昼と同じグレーのパンツスーツの冴は仕事を一時間抜け出したという。
相変わらず拳銃を持つ冴に優は仕事の内容を問うが、『教えない』との躱す笑みがつれなかった。
テーブルにはバジルの香り豊かなマルゲリータ、アンチョビとキャベツのペペロンチーノが湯気を漂わす。
食事は全て鞍さんの手作りだ。
パンチェッタとブリー、ミモレット、ゴルゴンゾーラ各種チーズがサイドを飾る。
取り皿とフォーク、グラスが銘々に渡される。
食器たちはシーリングの照明を浴びると主役を主張する。
食事の両隣に大きな円柱の氷入りのクーラー、左にはスペインの発泡酒のカヴァが二本、右にはお茶のペットボトルが冷やされていた。
鞍さんが促すと、鞍さんと果凛はカヴァ、惠は『こんなもんか』と味見しながらダージリンのストレートティー、優が烏龍茶を手にして、銘々が軽食を取り皿に盛る。
これから一晩中の仕事という冴はお酒飲みたいと駄々を捏ねながら、優と同じ烏龍茶を手にしていた。
「優くんと惠ちゃん。予想大会は初めてよね」
楽しげな鞍さんにわざと念を押された二人は目を輝かせながら首肯する。
オーナーと元からの住人の顔も綻ぶ。
『桜花賞の際は予想会が出来ませんでしたけど…』とエプロンの結び目を弾ませながらリビングを闊歩する女神が感を述べる『…二人をシェアハウスにお迎えしての初めての予想会で、本当に嬉しいです』
「優、歓迎するよ」
「惠、楽しんでね」
冴と惠は二人にクラッカーを鳴らすと『ありがとうございます』が反響した。
さて、と、鞍さんが徐にフルートグラスを手にして、リビングを笑顔で女王のように睥睨する。
「予想大会始めます」
住民たちの視線が鞍さんに集中すると、立ち上がってグラスを重ねる。
『乾杯!』
「先週は大成功でした。優くんのおかげですね」
鞍さんが10万馬券を的中した礼を述べる。
住民みなが満足げに頷く。
『桜花賞はハラハラしたけどな』と焦った果凛に『買い間違えでもアタリはアタリだけど』と冴は苦笑しながら、優に視線を投げる。
申し訳なさげに頭を搔く優が『今日は一勝一敗ですけど、惠のタイセイビジョンに助けられました』と言うと拍手が起こる。
「今夜の予想。やっぱり皐月賞、ですかね」
鞍さんが手に持つフルートグラスを優と惠に向け、促す。
「サリオスとコントレイル」
「コントレイルとサリオス」
惠と優が予定調和のように馬名を響かせる。
口にするビザのチースを伸ばす冴が『またじゃれ合うのか』と苦笑する。
『じゃあ、皐月賞観戦時の紅茶は仲良しのお二人に淹れて頂きましょうかね』と二人の関係を腐心する鞍さんが依頼する。
『紅茶大好きです』と二つ返事の惠は『淹れるのも味わうのも』と優を見据えて頬を緩めた。
微笑ましく思う鞍さんは選ぶ馬の確認をする。
「優くんはコントレイルかな」
「はい、まずは最優秀2歳牡馬に敬意を表したいです。ホープフルステークスは、危なげない勝ち方で中山2000mを経験済は強みですよね」
優の本音を受け冴が続ける。
「ホープフルもだけど、何と言っても東京スポーツ杯の5馬身差の1.44.5のレコード勝ちが衝撃的だよね」
果凛もアンチョビを噛みながら負けじと、加わる。
「その東スポ杯、ハイペースを中段で我慢して時計はダノンキングリーの毎日王冠とは0.1秒差。2歳で古馬オープンとほぼ同じなんてあり得ない」
コントレイルの評価は住民たちでは、高い。
『確かに大物かもしれませんねぇ』と鞍さんも納得だ。
「惠ちゃんはサリオスね」
鞍さんからの誘い水に今度は惠が緊張しながら叩首する。
以心伝心で、彼女の代りという感じで優が代弁する。
「年度代表はコントレイルに譲りましたけど、G1の朝日杯含めて三戦三勝は同じですよね。朝日フューチュリティはハイペースを前目の競馬で押し切って。その前のサウジアラビアは上がりの競馬でレコードですからね」
「どんな競馬でも対応できそうだね」
フルートグラスを呷る果凛が評した。
「中山が初で距離もマイルしか経験していないし、ハーツクライ産駒は皐月賞との相性がどうかな思うけど」
冴の疑問に果凛が答える。
「まぁ、あまり気にしていないねぇ。地力で何とかなるのかと」
そして、『好きな馬は好きだ』ともいう。
果凛も前目を行くサリオスのファンなのだ。
惠はサリオスへの思いの丈を披露するのはまだ早いと、紅茶を飲み込む。
「サトノフラッグはどうかしら」
「弥生賞、強かったじゃん。重馬場を直線力強く抜け出して。明日は馬場も少し気になりそうだし、向いているかも」
鞍さんの問いにミモレットを手にする果凛が応答した。
「そうねぇ、この馬も府中のレコードホルダーだし、何と言ってもルメール様よ」
冴がご贔屓のルメール騎手を賞賛する。
『冴姉は、相変わらずルメール騎手が好きだねぇ』と目を細める果凛に『果凛はデムーロ様大好き少女でしょ』と口元を緩くする冴だ。
「他は…」
カヴァを喉へ向ける鞍さんが促す。
「マイラプソディ。右回りに限れば二戦二勝だよ。京都2歳ステークスで2000m2:01.5をマークしているし」
果凛がフォークを突き出し、即座に一頭挙げた。
「共同通信杯4着は残念ですけど、馬場が回復して時計勝負になれば期待出来そうです」
優が補足し、トマトソーズのパスタを味わう。
「後は、どうかな」
鞍さんがゴルゴンゾーラを口にして、さらに誘う。
ペペロンチーノを食べ終えた惠が口を開く。
「ヴェルトライゼンデはどうですか」
「うん、いい選択だねぇ。ホープフルステークスはコントレイルの2着。トライアルのスプリングステークス2着はまずますで、休み明けを一叩きした今回はいいと思うよ」
スプリングステークスでもピックした果凛はフォローしながら、笑みを浮かべる。
パンチェッタを味見しながら惠は、続ける。
「ヴェルトライゼンデ。馬名はドイツ語で世界旅行者ですよね…」
「…早く人々が世界旅行できるようにって、思いたいですよね」
祈るような小声が優の耳へと囁く。
「あの二頭の海外遠征のために」
優は海の向こうで競い合う、コントレイルとサリオスを惠と一緒に想起する。
「さて、どうしますかねぇ」
フルートグラスに口づけした鞍さんが纏めに入ろうとする。
「コントレイルは1枠1番を引いて、どう乗るか。インで我慢すれば、直線で前が壁の可能性もあるので、どこで外にだすかだねぇ」
ピザを口に放る冴が乗り難しさを語ると果凛が『そうだよね』と意見を沿わせた。
「内で包まれて身動きが取れなくなるより、一旦、下げて外から、ですかねぇ」
「それが出来たら強い競馬ですね」
鞍さんの展開の読みに優が真の名馬ならクリアかもと意を述べる。
ピザを食べ終えた冴と果凛が直線のイメージを語る。
「直線抜け出したサリオスやヴェルトライゼンデにマイラプソディとサトノフラッグが襲いかかる」
「大外に持ち出したコントレイルが追うって展開かな」
「それでもサリオスが凌ぎきります。今日のアーリントカップの覇者タイセイビジョンに完勝しています」
惠はNHKマイルカップの主役の一頭になったタイセイビジョンと比較して、ここぞとばかりに宣言した。
「コントレイルが強いのは分かります。でも、サリオスなら何とかなるのかと」
惠が口を噤むと、『さて、どうするか』と悩みが漂うリビングは静かになる。
口に運ぶフォークとグラスが動きを全員が止める。
住民たちは『女神』のご神託を求めるように鞍さんに熱い視線を集める。
「じゃあ、コントレイルとサリオスの馬連を1万円、コントレイルとサリオスをそれそれ1、2着固定で3着をヴェルトライゼンデにマイラプソディとサトノフラッグを各1000円の三連単かな」
鞍さんは結論づける。
「明日のレースが楽しみですね」
破顔の鞍さんに住民たちは承服していた。
皐月賞の前夜が深く更けていく。
深夜のシェアハウスにいるのは、競馬に取り付かれた女神とその住人たちだけだった。
日曜日午後、リビングの壁掛け時計の長針と短針は『3』を過ぎようとしていた。
「そろそろ、パドックだから惠は落ち着いてよ。サリオスとはコントレイル、観たいだろ」
お茶は僕がリビングまで持っていくからという優に謝辞を述べる。
惠は紅茶を淹れながら、ティーポットとカップが日本製の純白シェールブランで、紅茶が英国王室御用達ブランドの『謎の』ダージリン、鞍さんの趣味を褒め称える。
『謎の』ダージリンとはヒマラヤ山麓の最高級ダージリンという以外は企業秘密の紅茶だ。
鞍さんが『惠ちゃんは紅茶オタクよね』と意外性を褒め称えられた彼女も満更ではなさそうだ。
「うん、ありがと」
惠は優に礼をいいながらエプロンを外し、テレビのあるリビングへ足を速くする。
テレビ画面は観客がいないパドックを周回するサラブレッドの隊列を映している。
1枠1番コントレイル、黒光りする馬体をゆっくりと揺らしている。
5番サトノフラッグが忙しそうに白いシャドーロールを震わせる。
7番サリオスが二人引きで雄大な栗色の馬体を揺らす。
12番マイラプソディは歩様が元気一杯だ。
17番ヴェルトライゼンデ細身の体だが歩みはしっかりと踏み込む。
さすがG1、どの馬も良いデキに見える。
惠はコントレイルとサリオスに見入っているようだ。
特にサリオスは尻尾をフリフリしているところが可愛いという惠の弁だ。
ティーカップを配り得ると優もエプロンを脱ぎ、ソファーの右にあるオットマンに腰を落ち着ける。
「あら、ログインできないですねぇ」
鞍さんが不思議そうな声を出す。
パドックを確認してスマホでネット投票をしようとした矢先だ。
「ちょっといいですか。失礼」
優は鞍さんのスマホを手にして確認し始める。
『大丈夫かよ』と果凛が心配する。
優は先週の桜花賞、スマホのネット投票で馬券の買い間違いを起こしていた。
『只今の時間帯は投票のお申し込みを受け付けておりません』との表示だ。
惠は何ごとかと狼狽えている。
「ログインの不調ですかね。スマホキャッシュを確認します」
そう言う優に『間に合わないじゃん』と果凛は縋る声音で姉を呼ぶ『冴姉…』
こうなったら、冴のスマホでネット投票だ。
呼ばれた冴は顔の前で両手を合わせて『ゴメン、仕事場にスマホ忘れた』と謝った。
『ええっ!!』
住民一同、驚きをリビングに響かせる、一体馬券はどうなるのかと。
これが優なら、果凛はプロレス技を披露しているだろう。
優の手の中で鞍さんのスマホは苦戦中だ。
焦る鞍さんは果凛にスマホを貸してと願う。
「ヒロコちゃんかユキノちゃんに連絡してみます」
急ぎ、鞍さんは近所に住む競馬仲間の名を挙げ、代わりに馬券を買って貰うお願いをする。
だが、何度も電話を掛けるも『出ない…』、間に合うのか。
『ヒロコは酒屋だし、ユキノさんは喫茶店だよね』と果凛、『このご時世でも日曜午後で客商売、配達や出前も対応すると、無理なんじゃ…』とも泣きが入る。
『一応、スマホのトークで二人には理由と買い目は入れた』とのことだ。
果凛のスマホは誰からの返信がないまま、時が流れる。
締め切り時間を迎えると鞍さんは覚悟を決めて、徐に立ち上がる。
「それじゃあ、競馬を楽しみましょ」
シェアハウスの女神がそう宣言するとリビングに明るさが蘇る。
冴の『大丈夫?』の念押しに『命まで取られませんよ』とのことだ。
時が一分、二分と流れていく、レースに近づくにつれて住人たちはもの静かにTV画面と対峙する。
ゲート付近で馬を落ち着かせる輪乗りを見ると、観戦する側が焦燥を覚えるのは何故だろうかと優は思う。
『結局、馬券は鞍さんの友人に頼んでいたようだが』と慮る優は、『結局、買えたんだろうか』と憂慮する。
「もう、締め切りは過ぎましたしね」
意を決した鞍さんは飄々としていて、普段と変わらない。
冴も果凛も達観して普通に見える。
動揺を抑えようと冷静さを前面に出したのか、開き直って落ち着いたのかは分からなかった。
ただ、少し無理しているような三人を見ると、優は湧き出る笑いを我慢していた。
スターターが壇上に立ってのG1ファンファーレ、録音からの響きは聞き慣れているが、生演奏はやはり味がある。
順調な枠入り、最後の一頭が大外に入るとゲートが開き、スタートする。
横一線からウインカーネリアンがハナを切る。
サリオスは中段。
コントレイルは後方だ。
キメラヴェリテが先頭に立つ、ウインカーネリアンが2番手に変わる。
サリオスは5番手へ。
その後ろはヴェルトライゼンデとサトノフラッグ。
1000m59.8秒
さらにマイラプソディ、そしてコントレイルと続く。
4コーナーでサトノフラッグが動くと、更にその外からコントレイル。
こんな後方大外で大丈夫なのかと住民たちは画面に食い入る。
惠は握る両手に力を込めると爪が手の甲に三日月を刻み、サリオスを見入る。
コントレイルが4コーナーから直線を向くと情念を爆発させた。
4角捲り気味に直線一気のスパート、真の名馬のみ許される競馬だ。
馬場の外目を一気に駆け上がって来る。
サリオスが栗色の雄大な馬格をどこかぎこちなく弄びつつも、内側から伸びが期待できる馬場の外目へと誘う。
が、間に合わない!
栗毛の彼が走ろうとした緑輝の道は奪い取られて絶たれる。
コントレイルがその緑が映えるヴァージンロードを祝福される疾風として遊弋する。
これは、負け、た。
追いつかれて馬体が重なる刹那、魂から迸る意志として、一段上のギアが栗色の四脚、鎧のようなトモに宿る。
絶望が希望に変わる。
「サリオス!!!」
惠の言霊は無機質な液晶画面から出ずる興奮に掻き消される。
栗色の鬣を振り翳しながら、先頭へ先頭へと闘志を剥き出しにする。
しかし、コントレイルは遠くなりつつあった。
一完歩、一完歩ずつ、ゆっくりと確実にズレていく、藻掻きながら、苦しそうに。
二頭の半馬身差は永遠に交わることがないゴールの追憶となる。
「1枠1番でコントレイルにあの乗り方されるなんて…」
優の素晴らしさと驚きが入り交じる感嘆を受けた惠の瞼が熱を帯びてくる。
彼女は今のシーンを胸の玻璃奥に仕舞い込む光景だと、情景を忘れて、眠れと言うように目を閉じる。
無敗三冠馬シンボリルドルフの2着だったビゼンニシキのファンの気持ちが分かるような気がすると優が惠の背中を二度、軽く叩く。
三冠の初戦、このレースと同じ皐月賞の昔話。
ビセンニシキはその名の通り、サリオスと同じ美しい栗毛馬。
悔しさと虚脱感、今迄経験のしたことがない気分に惠は包まれる。
「終わったね」
惠が沈黙のリビングへ向け口を開く。
「終わった」
優が同意する。
住人全員が呆けていた。
コントレイルとサリオス、直線の攻防。
こんな素晴らしいレースを見せつけられたら言葉など無意味だ。
取った、取られたの馬券の意味で言えば、鞍さんは馬連を的中していた、はずだ。
馬券の依頼をした、ヒロコとユキノからのスマホトークの着信がある。
鞍さんは今レース自体の興奮を優先させ、馬券は後で確認することにした。
ただ、何時ものゴール前の興奮や馬券を対象とした昂ぶりとは違う、異質な熱気にリビングは包まれている。
「私が観た皐月賞ではベスト」
「そうかも知れないですね」
鞍さんの言葉は、自身がライブで観戦した以前のレースも含んでいるようで、昔の競馬に詳しい優が寄り添った。
大学は馬術部の鞍さんは卒業後、馬術を止めたと同時に本格的に競馬にのめり込んでいったという。
その競馬歴は「KURA HOUSE」の歴史なのかも知れない。
長い競馬の歴史からみれば、十年程度はほんの一瞬かもしれない。
「すごい」
「すごかった」
冴と果凛が感嘆を吐くと、我慢出来ないとばかりに次のレースへと思いを馳せる。
「これ、ダービーはどうなっちゃうんだろう」
「究極のダービーになるね」
「刮目しないと、いけませんね」
鞍さんが先を見通すように遠くを眺める。
「サリオス頑張りました」
優が惠に向くと労う。
「コントレイルも格好良かったね」
惠の感想に、皆が頷き、共鳴する。
「シンボリルドルフ、ディープインパクトクラスかも知れない」
優が過去を紐解いて未来を予測する。
無敗の三冠馬の名を挙げるも、ダービーではサリオスを筆頭に他の馬にもまだまだチャンスはあるだろう。
今年は無観客の中、好レースが続く春のG1シーズンは競馬の神様がくれる慰みなのかも知れない。
「ヒロコとユキノからのスマホトークは結局チェックしないんですか」
冴が鞍さんに問い合わせた。
「楽しみは後に取っておくの」
「買わない馬券と買えない馬券は、よく当るんですよ」
白い歯を浮かべる冴。
『いやだわ、冴ちゃん』と鞍さんは肘で『いじわる』と冴を小突く。
「でも、そんなもんよねぇ」
まあ、天皇賞の頃には結果は分かっているだろうか。
そんなに焦る話でもないか。
『そこまで引っ張るんですか、鞍さん』と冴のツッコミが入る。
まずは皐月賞、コントレイルとサリオスの激闘の余韻に酔いしれようか。
馬券の的中から達観した鞍さんがそこにはいた。
第二話、了。
2020年皐月賞編は終了です。次話は2020年天皇賞春編です。
この小説はフィクションであり、過去および現在の実在する人物・組織・馬などにはいっさい関係ありません。
*参考文献
知ればもっとおいしい!食通の常識 厳選紅茶手帖
紅茶厳選委員会(山本洋子+編集部)
世界文化社
最新版 ワイン完全バイブル
監修 井出勝茂
ナツメ社




