源氏とキセキの物語・天皇賞春(3)
「明日の天皇賞を踏まえて、見たいレースがあるのですが…」
お茶を一口含んだ優が住民たちを見回す。
何の?どんなレース?と果凛と冴、咀嚼がスローになる。
「…イングランディーレ、です」
『イングランディーレ?』
女性四人は『どんな馬のレースなの』と顔を見合わすと、グラスと取り皿の動きが止まる。
『十六年前の天皇賞です、まずは観てください』と優は85インチ8Kテレビを操作する。
1番人気は平成の盾男であるレジェンド騎手の乗るリンカーン、2番人気はネオユニヴァース、3番人気はザッツザプレンティだ。
因みにイングランディーレは18頭立10番人気だった。
そういうと画面にゲートインの風景が浮かぶ。
2004年5月2日、十六年前は今日と同じ日付での春の天皇賞だ。
そのゲートインは、スタンドからバラバラとした拍手が続いていた。
イングランディーレはスタートすると、押しながら先頭。
ザッツザプレンティが次を伺うが、ヴィータローザが2番手となる。
リンカーンは中段。
ネオユニヴァースはその後ろ、最後方から5頭目で待機だ。
最初の4コーナー、イングランディーレが2番手を5馬身離して先頭をキープ。
アマノブレイブリーが2番手進出、3番手にヴィータローザ、シルクフェイマス4番手、
5番手にゼンノロブロイ、ザッツザプレンティは6番手。
その後にリンカーン、さらに追走はネオユニヴァース。
ホームストレッチで各馬は歓声と拍手を受ける。
淡々とした流れで1コーナーを迎える。
2コーナーでイングランディーレは8馬身差を2番手のアマノブレイブリーにつけ、その離れた5馬身後にシルクフェイマス、そこから3馬身差ヴィータローザ、さらに3馬身差ゼンノロブロイとなる。
向こう正面、イングランディーレは2番手を10馬身以上引き離す。
遙か遠くを通り過ぎる馬の隊列にスタンドからは嘶きが沸く。
住民全員が同じ場所で同じこと、この令和の時代、競馬場で馬の応援がしたかったと口を結んで悔しがる。
競馬ファンとして普通の楽しみ。
『秋のG1こそは生観戦』と胸にその想いを抱く。
縦長の展開で、当然のようにイングランディーレが先頭。
全体の隊列を映すカメラが引き気味で馬が豆粒のように小さい。
もう、イングランディーレと後方集団という競馬だ。
ざわめきはひたすら続いている。
テレビに映る17頭の後方集団、イングランディーレはいない、カメラの先を走っているのだ。
イングランディーレのみが坂を下る、金縛りに掛かる後方集団とは、遂に20馬身差!
ざわめきがヒートアップする、『これは本物かも知れない』と気づき始めたように。
直線を向く、イングランディーレは先頭、まだ、10馬身差だ。
ざわめきと歓声がない交ぜになる。
相変わらず引き気味のカメラ。
ゼンノロブロイが2番手から追い詰めるが、5馬身差。
ジョッキーのムチに応えるイングランディーレの脚色は衰えない、逆に突き放しにかかる。
イングランディーレが悠々とゴールラインを切る、7馬身差。
ジョッキーのムチを掲げてのガッツポーズが競馬の怖さを示していた。
単勝7,100円、三連複は10番人気、4番人気、5番人気で211,160円。
三連単はまだ無い時分で、あれば恐ろしい数字のはずだ。
「いや、何とも言えないですね」
「こんなことってあるんですね」
鞍さんと惠が驚きを表す。
「まあ、展開は怖いっていうことだな」
グラスに着いた露を払う冴がそう言う脇では果凛がツインテールを振動させている。
「すげー、この馬、究極の逃げ馬じゃん」
逃げ馬好きの果凛が金髪を振り回してのトランス状態だ。
『いや、凄いのはこの後でさ…』の優に『まだあるの、何?』と住民たち。
モッツァレラで頬を膨らませた果凛は早く言えとばかりに優に鼻先を付けるように迫る。
シャウルスで頬を膨らませた惠が離れさせようと、手で優の頭を後ろに反らす。
ロイヤルアスコット、イギリス本国では王室主催レースの意味でロイヤルミーティングって呼ばれているみたいだけど。
優が説明を始める。
テニスのウインブルドン、ゴルフの全英オープンに並ぶ夏の有名なスポーツイベントだ。
ロイヤルアスコットでは女王陛下ご臨席を賜り、五日間も競馬が開催される華やかな祭典でもある。
去年はG1が合計八レース施行され、ロイヤルアスコット開催のアンバサダーに日本の騎手の第一人者が就任したのも話題の一つだ。
そのアスコット競馬場での芝の長距離G1、『ゴールドカップ』にイングランディーレは、天皇賞を勝った約一ヶ月半後に出走したのだ。
『長距離って?』惠は問うと『今は19ハロン210ヤード』に果凛の軽い蹴りで『メーターで言え』が入ると『約3990m』とのことだ。
淀の天皇賞より約800mも長く、『うぇ』と住民たちはギブアップを表明する。
「結局、イングランディーレはどうなったの?」
「確か、13頭立9着かな、勝ち時計は4:20:9のはず…」
「…天皇賞を大逃げで勝った直後、長距離のG1へイギリス遠征ですよね。慣れない環境の中、よく頑張ったと想いますよ」
王侯貴族たちの華麗な雰囲気のロイヤルアスコットでの競馬。
負けはしたけど、イングランディーレの挑戦は賞賛に値する。
住民たちは絢爛華麗な競馬に想像を馳せ、憧憬を抱いていた。
さて、今度は明日の天皇賞の予想大会が始まる。
「優くん、キセキね」
「はい、大逃走を狙ってみたいです」
鞍さんは優の意図を口にすると、狙いに胸を叩く。
逃げて、あのアーモンドアイに食い下がってレコード決着となったジャパンカップの競馬を再現なら、という。
『それよ。その通り』と果凛がフォークを振りながら立ち上がる。
冴もピザがのる取り皿片手に立ち上がって、平気なのかと問い始める。
阪神大賞典で大きく出遅れ、道中無理をして先団にとりつくも、最後は息切れしてしまったキセキ。
『まともに走っていたら楽勝まであったのでは?』と思わせる内容だったのは分かる。
鞍上がスタートのうまいレジェンド騎手なら期待も膨らむよね。
『平成の盾男』が、令和初の春の天皇賞も勝ってしまえば、実に絵になる話だしね。
「だけど…大丈夫かなぁ…」
そういう冴が優に心配そうな目線を一瞥する。
「そうね、冴さんの懸念は分かるわねぇ」
パルジャミーノを味わう鞍さんの冴への同意が意外だと、優が息を飲み、顔を強張らせる。
ピザを口にした果凛は今にでも姉に噛み付きそうだ。
「優くんがイングランディーレから紐解く競馬が『記憶のスポーツ』なら、2012年のオルフェーヴルはどうなるのかしら」
鞍さんがロゼワインを飲み干すと、優に新たな過去を呈しつつ、続ける。
オルフェーヴルの阪神大賞典、3コーナー手前で謎の失速についてだという。
『すわ故障発生か?』と場内をどよめかせたが、馬群の大外から突然加速して。
結果2着まで押し上げ、『オルフェーヴル、負けて強し』と印象付けた件だ。
その後は本番である春の天皇賞では、後方のまま11着と惨敗した。
競馬実況で、14番人気ビートブラックが1着でゴール番を駆け抜けたあと『これが競馬だ!』と絶叫したのが耳に残って、まさに、あれが競馬だと。
キセキとオルフェーヴル、天皇賞へ出走する雰囲気が似ているという。
「オルフェーヴルは、阪神大賞典の後、天皇賞までの調整過程が難しかったらしいですね」
そう言う鞍さんの過去の振り返りを耳にした冴が懸念を述べる。
「キセキも、ゲート再審査を受けるなど、調整過程がイレギュラーになっているんじゃないのかなぁ」
鞍さんが顎に手を当てて悩む。
「歴史はどちらの繰り返しになるのでしょうかねぇ」
「私はどうかなぁと思うけど。キセキ…」
『…リスクがあるよね』と冴が怖い顔して疑問を投じ、続ける。
「仮に、キセキを応援するなら、逃げるんじゃなくて2、3番手に控えての競馬の方がいいかな」
鞍さんの希望的な展開予測に『それはあるかも』の住民たちだ。
「春の天皇賞は、リピーターが活躍するレースだよね」
ワイングラスを呷る果凛が口を切ると、優も確かにと同意する。
2013年・2014年はフェノーメノ、2016年・2017年はキタサンブラックが連覇、
カレンミロティックは2015年3着・2016年2着、シュヴァルグランは2017年・2018年ともに2着だと、彼女は披歴した。
「京都芝3200mで施行されるレースが年一回の天皇賞のみよね。コース・距離適性が極端に問われるんですかねぇ」
鞍さんも同じ意を述べる。
冴は常連ならばと、馬名を切り出す。
「フィエールマンじゃないの?昨年の覇者だしさ」
優は3歳時には京都3000mの菊花賞も勝っているし、京都3000m以上のレースは2戦2勝と実績を披瀝する。
「有馬記念以来というローテーションは気になるけど、この馬は休養明けを苦にしない馬だよね」
冴が菊花賞を休み明けで勝ったと一押しだ。
『外枠はどうなんでしょうか』と惠がグラスをテーブルに置くと、恐る恐る訊く。
「昨年は13頭立ての10番から1着、14頭立ての14番でも,偶数枠なら気にせず応援する」
そう答える冴が『長距離だから影響ないんじゃない』と澄まし顔だ。
「ルメール騎手が上手にエスコートしてくれるのかな」
再びグラスを手にする惠の期待にルメール好きの冴が『その通り』と見立てを同じにする。
「他はユーキャンスマイルですかね」
ワイングラスを揺する鞍さんが阪神大賞典の勝ち馬を挙げる。
ベテラン騎手が続けて乗るなら本命だったかもとのことだ。
「先週の落馬事故での乗り替わるは痛いよね」
ロゼワインを喉に滑らせる果凛の嘆きに鞍さんも過去を振り返る。
2018年の春の天皇賞で、レインボーラインを御して制したベテラン騎手渾身のイン強襲は鮮やかだったのを想い起こす。
「乗り難しいユーキャンスマイルを巧みに操ることができれば、フィエールマンを逆転できるかも」
期待する果凛に鞍さんも応える。
「フィエールマンの後ろにつけて、直線ではフィエールマンの内に潜り込めれば、勝機があるかもですね」
「後は、阪神大賞典2,3着のトーセンカンビーナ、メイショウテンゲン、日経賞2着のモズベッロくらいかな」
優が三頭の名を挙げ、パルジャミーノを囓る優がメイショウテンゲンに、今年好調の松山騎手が続けて乗るなら面白かったのではと残念がる。
「トーセンカンビーナは、こちらは道中後方に構えて、一発カマスつもりで追い込みだったら面白いかも」
初の58㎏をクリアして欲しいと、冴が穴として推奨する。
「モズベッロは、頑張って欲しいけどちょっと様子を見かな」
鞍さんは惜しい気持ちを表した。
「京都の相性が良さげで,前残りの可能性もある去勢明けのダンビュライトの一発は」
そう言いながらパスタを啜る果凛に冴がピザを噛みながら、応答する
「去勢明けは厳しいよ。ただ、配当もおいしそうだし,3着なら期待かな」
「鞍さん、どうするのですか?」
惠が『結構難しいです』と救いを求めた。
鞍さんに目線が集まる。
「フィエールマンとキセキで行きますか」
まずは馬連で1万円という。
後はフィエールマンとキセキそれぞれを1・2着固定で、3着をユーキャンスマイル、トーセンカンビーナ、ダンビュライトで、各1,000円とのことだ。
さて、キセキのゲート、スタートの結果を含めてレースはどうなるのか。
長距離戦で、さまざまな展開を想像する住民たちは期待と不安を交わしていた。
この小説はフィクションであり、過去および現在の実在する人物・組織・馬などにはいっさい関係ありません。




