はぐれもののうた。 3
地面に倒れ伏せる熊と、周囲に飛び散った赤色。点々と転がる赤い塊は熊の体の一部のようだった。
初めて見る残虐な光景に吐き気がこみ上げる。口元を押さえて堪えれば、そんなサーヌの傍に一人の少年が近付いてきた。
黒色の髪に褐色の肌。自分も含めて金髪白肌が殆どの吸血鬼の中で育ったサーヌにとっては、その少年の色は珍しいものばかりだった。
暗灰色の鋭い瞳がサーヌを見つめる。じろじろと上から下まで観察するように見てから、少年は僅かに眉を寄せた。
「……お前は食えなさそうだな」
「え?」
「見逃してやる」
表情一つ変えずにそう言った少年は、サーヌに興味を無くしたらしく、踵を返して熊の死骸に近付いていく。
少年のあっさりとした態度や唐突過ぎる登場に、頭がついていかないサーヌは目を瞬かせていたが、少年が纏っているボロ布に赤い染みが大量に付いている事に気付いた。
その赤色が少年のものではなく、熊の返り血だと分かった途端、サーヌは驚愕の表情で改めて少年を見た。
同い年くらいに見える少年は、自分よりも数倍大きい熊を軽々とひっくり返した。太い首の付け根に深い傷があるのが見える。どうやらそれが致命傷のようだった。
(……彼が、やったんだよ、ね)
どうにも信じきれなかったが、少年の右手が鮮血に染まっているのを見て、サーヌの頭は漸く現実を受け入れる。
血の臭いが立ちこめる中、少年は転がっていた熊の肉片を手に取って、それを平然と口に運んだ。
美味そうにも不味そうにも見えない無愛想な顔で、生の肉をもぐもぐと頬張っている。時折拭う口周りは赤く汚れているが、少年がそれを気にする様子はなかった。
「……あの、君って」
「ん?」
「人間じゃない……よね?」
吐き気を飲み込み、目の前の光景を極力直視しないようにしながらサーヌがおずおずと尋ねれば、顔を上げた少年は頬張っていた肉を飲み込んだ。
「見りゃ分かるだろ」
「だ、だよね。……獣人?」
少年は呆れた様子で答える。
その反応に、無意味な質問をしてしまったと思ったサーヌは内心少し慌てて、次いで新しい質問を投げかける。
何処か排他的な少年の雰囲気からして、流されてしまうかと一瞬思ったが、意外にも少年は素直に頷いた、
「おう、一応な」
「一応……?」
引っかかった言葉にサーヌが首を傾げる。
少年は一つ頷くと、また新しい肉片を口に運んで咀嚼しながら言った。
「俺は一族から見捨てられたからな。だから一応は獣人、狼人族だ」
「ーー……っ!」
返ってきた答えに、青い瞳が見開かれた。
目の前にいるこの少年が、まさか自分と同じように一族から見放された身だったとは思わなかった。
愕然とする自分を余所に、血生臭い食事を淡々と続ける少年を、サーヌはぼんやりと見つめながら考える。
(いや、同じじゃない、僕とは違う……)
少年は自分よりも大きな相手を、ほんの一瞬で倒してみせた。
それに比べて自分はどうだ。一人で勝手に怯えて諦めて、挙げ句に友達を犠牲にして惨めに生き残った。
同じような境遇の筈なのに、少年は自分よりも遙かに強い。自分には無い力を持っている。
サーヌがそう思った時には、もう既に口が勝手に言葉を発していた。
「どうしたら、君みたいに」
「は?」
「っ、どうしたら僕は、君みたいに強くなれるんだ!? お願いだ、教えて! どうか、お願いだから……っ!」
「うおっ……!?」
転がるように前に駆け出したサーヌは、言葉の勢いのままに少年へと掴みかかる。
突然詰め寄られた少年は目を瞬かせた後、すがるように胸ぐらを掴んでくる手を躊躇いなく振り払った。
「うわ、っ」
軽い動作とは裏腹に強い力だった。簡単に胸ぐらから手は離れて、非力なサーヌは血溜まりの中に転がった。
大嫌いな血に濡れて、再び吐き気がこみ上げる。
そして、吸血鬼ならば抱く筈の無いその不快感は、自分が如何に出来損ないかを浮き彫りにした。
「っ、う、うう……」
サーヌは血溜まりの中でへたり込んだまま、渦巻く感情に肩を震わせる。
「どうして、僕は……僕には、何も無いんだ……。力が無い所為で、僕は……っ」
途切れ途切れに零れたのは、非力な自分への苛立ち。
それを聞いた少年の表情が一瞬だけ変わったことに、肩を震わせて俯くサーヌは気付かない。
そうして少しの間があって、血溜まりの中で動けなくなっているサーヌに向かって少年が口を開いた。
「……お前、何でそんなに力が欲しいんだ?」
投げかけられたその声が、今までの声色と違う気がして、サーヌは思わずゆっくりと顔を上げる。
しかし、視線を向けた先の少年は何も変わらず、鋭く重い灰色の瞳で此方を静かに見つめているだけだった。
「……それ、はーー」
全てを切り裂く刃のような視線に、胸の内を切り開かれたサーヌは少しずつ零していく。
出来損ないとして生まれたこと、見放されたこと、そして自分の弱さが原因で友達を失ったことも、まるで懺悔するかのように語った。
そして、全てを話し終えたサーヌは口を閉ざす。
二人の間に静寂が訪れる。
風が吹いて泉の水面が揺れた時、無言で耳を傾けていた少年が小さく溜め息をついた。
「……で、自分に力があったら、ってわけか」
「……うん」
「でもよ、その友達、お前が出来損ないだっての、責めたりしたのか?」
その言葉にサーヌは驚き、強く首を振った。
「そんな! フェズはそんなこと一度だって!」
「じゃあ、お前に力なんて今更いらねえだろ」
よく通る静かな声が、サーヌの勢いを押し止めた。
灰色の瞳が真っ直ぐに向けられる。その瞳の奥に秘められた思いは、伏せられた睫毛の影になって誰にも覗けない。
「そのままのお前を受け入れてくれた奴が、確かに居たんだから」
それは、気の所為だったのか。
今まで表情の無かった少年が一瞬だけ、夕焼けに落ちる影のように、寂しそうにそっと笑った気がした。
しかし、サーヌが一つ瞬いた時には、少年は何事も無かったかのような表情をしていた。
小首を傾げたサーヌの心に、少年が静かに紡いだ言葉がゆっくりと染みていく。そっと胸に手を当ててみれば、薄い皮膚の下で心臓が息づいている。
(ーーフェズ)
出来損ないだと見捨てられて、生きる価値を見いだせずに自棄になった自分を最後まで受け入れてくれた。
じわりと視界が滲む。唇を震わせるサーヌの耳にふと届いたのは、きっといつまでも忘れない薄紅色の声。
《貴方はそれでいいのよ。サーヌであれば、それでいいのよ》
気が付けば、暖かな涙が頬を濡らしていた。涙が溢れるほどに、粉々になっていた心が抱き締められていく。
ーーあの時、分からなくてごめんね。
「……ありがとう、フェズ」
少し遅くなった感謝の言葉が零れる。
その言葉を静かに浚った風は、傍らで咲いていた薔薇を優しく撫でてから、何処か遠くへと溶けていった。
***
空はいつの間にか藍色になり、半分に欠けた月が穏やかに笑っている。泉は星屑の海に変わっていた。
目元を薄く泣き腫らしたサーヌは、熊の肉や毛皮を手際よく袋に詰め込んでいる少年に声を掛ける。
「あの、お願いがあるんだ」
「あ?」
少年は手を止めて、怪訝そうにサーヌを見る。
全てを喰らう獣の牙に似た眼差しの鋭さに、まだ慣れていないサーヌの体は少し強ばった。
「君について行きたいんだけど、……駄目かな?」
緊張で汗ばむ手を握れば、僅かに声が上擦った。
しかし、少年はそれを気にすることなく、眉を顰めた険しい表情のままでサーヌを見つめている。
「……どうしてだ?」
少年の問いかけにサーヌは曖昧な笑みを浮かべる。
何故なら、そう思ったのかは自分でもよく分からなかったのだった。
まだ強さに未練があるのか、気付かせてくれた少年に恩を感じているのか。単に一人で生きることを恐れているのかもしれない。
どれが正解なのか、若しくはどれも不正解か。
けれど、この少年について行きたいという気持ちだけは明確なものだった。
少年はそれを感じ取ったのか、それとも断るのが面倒だったのか。小さな溜め息をつくと、戦利品で膨らんだ袋を肩に背負って立ち上がった。
「勝手にしろよ。何も面倒見ねえけど」
「……!」
拒否されることを覚悟していたサーヌは、見開いた瞳を輝かせる。
そして、嬉しそうに微笑みを浮かべながら頷いて、先に歩き出した少年の傍へと駆け寄った。
「うん、ありがとう、えっと……」
「……ケルトー、俺の名前はケルトーだ」
「僕はサルドワーヌ。サーヌでいいよ」
「ん、分かった」
夜風が抜ける森の中を小さな二つの影が歩いていく。
その後ろ姿を、泉の畔に咲いた薔薇が淡い月明かりを受けて、まるで微笑むように見送っていた。
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