はぐれもののうた。 2
泉の畔に住み着いてから、どれくらい経ったのか。
サーヌ自身も分からなくなった頃には、どの薔薇も満開に咲いていた。
「フェズはいいの? 行かなくて」
銀の如雨露を片手に、サーヌは隣に浮かぶ薄紅色の光に問いかけた。
花の精霊は気に入った風が来ると、それに乗って別の場所へと旅立つ。その先で新たな花の蕾を見つけて、その花が花開く時まで蕾の中で眠る。
サーヌはその事を知っているので、仲間達と違って同じ場所に留まっているフェズを気に掛けていた。
しかし、光は左右に揺れてみせる。
「いいのよ、私は。ここが好きだもの」
「そう……?」
「ええ、それに私がいなくなったら、サーヌはお腹を空かせちゃうでしょう?」
フェズの得意げな物言いに、サーヌは一度きょとんとしてから、直ぐに小さく笑い出す。
「そうだね、フェズがいなくなったら、僕は花の蜜も木の実も食べられないもんね」
サーヌがこの畔に住むようになってから、フェズは森を飛び回って花の蜜や木の実を集めてきた。サーヌも自力で集めたりはするが、自然に近しい精霊の彼女の方がずっと多くの量を集めることが出来た。
そのお陰で自分が今生きていられる事を分かっているサーヌは、周囲を緩やかに飛んでいるフェズに微笑みを向ける。
「フェズには本当に感謝してるんだ、ありがとう」
「……いいのよ。だって、サーヌは私が目覚める前からずっと、話しかけたり水をくれたりしたんだもの。虫だって追い払ってくれたわ。これくらいは当たり前よ」
どうやら照れているのか、素っ気ない声色と共に薄紅色が少し濃くなった。
好意を隠しきれていない彼女の反応が嬉しくて、サーヌは目元を柔らかく緩める。が、不意にその微笑みにふっと陰が落ちた。
「僕にはこれくらいしか出来ないから……」
「そういう言い方しないで、サーヌ」
強い声でフェズがぴしゃりと言う。
サーヌが頬を叩かれたかのような表情を浮かべれば、彼女は光を点滅させて高ぶる感情を表した。
「貴方はそれでいいのよ。サーヌであれば、それでいいのよ」
それは表情が見えずとも、眉をつり上げているのが想像出来る声色だった。
胸の奥が緩やかに締め付けられる。けれど、サーヌは心に届いた言葉を一人で理解するにはまだ少し幼かった。
(……よく分からないよ、フェズ)
もやもやとした気持ちが渦を巻く。
フェズの言葉の意味が噛み砕けないもどかしさに、サーヌが眉を下げたーーその時だった。
「グオオオッ!!」
「「!?」」
大地を揺るがす獰猛な咆哮が響き渡った。
森の中から小鳥達が一斉に飛び立ち、茂みからはウサギやリスが飛び出して一目散に逃げていく。
これは明らかな異常事態だった。
サーヌは強ばった表情で辺りを見回し、フェズは驚き戸惑うように宙を飛び回った。
「な、何々っ!?」
「分からない、けど……ここは危ないかも。落ち着くまで僕らもどこかにーー」
そこまで言ったサーヌの前に、巨大な影が茂みを越えて現れた。ずんぐりとした巨体は恐ろしく迫力があって、半開きの口からは荒い呼吸と涎が零れている。
目の前に現れたのは、魔物と化した熊だった。
光を失った瞳がサーヌとフェズを映す。濁った双眸を向けられた二人は息を飲んだ。
(に、逃げなきゃ、逃げないと……)
サーヌは必死に自分に言い聞かせる。
しかし、足が竦んで動けない。震える体は自分の物では無いようで、視線は目の前の恐怖から逸らせずにいた。
熊は様子を窺っているかのように動かない。が、サーヌ達が少しでも動けば襲いかかってくるということは、張り詰めた空気で感じ取れた。
(……でも、僕が死んだって)
ふと、サーヌの脳裏に記憶が蘇る。
冷たい父親の眼差し、声、背中。
実の家族に存在を見捨てられた自分は、果たしてこのまま生き続けたところで何になるというのか。
そう思った途端、サーヌの肩から力が抜けた。震えは止まり、落ち着きのなかった呼吸も落ち着いていく。
「……フェズ、僕が囮になっている間に、どこかに行って」
「え? ちょっと、何言ってるのよ!?」
フェズは思わず声を荒げた。
しかし、サーヌはそれが聞こえなかったかのように、足を前に一歩踏み出した。
「グアアッ!!」
それに呼応するかのように熊は一つ吠えて、両手を振り上げた。大きな手に鋭い爪が光っている。
巨木の分厚い皮でも容易く切り裂きそうな爪を見上げて、サーヌは歩きながら空虚な笑みを浮かべた。
一人と一匹の距離はあっという間に縮まる。
そして、サーヌに向かって凶悪な爪が勢い良く振り下ろされた。宙を裂く音がする。その音を耳にしながら、サーヌは静かに瞳を閉じた。
「グオッ!?」
「……え?」
驚いたような獣の低い鳴き声に思わず目を開けば、ふらついて後退りしている熊が見えた。
その周囲には、薄紅色の光の粒子が漂っている。
その光はまるで散った薔薇の花のようで、それを呆然と見ていたサーヌはふと気付いて辺りを見回した。
「フェズ……?」
傍を飛んでいた薄紅色の光が見当たらない。
心臓が乱暴に跳ね回る。引いていく血の気と一緒に、頭の中が真っ白になっていく。呼吸が乱れ始める。
熊の方を振り返れば、消えかけていた光の粒が最後に一瞬だけ強く光って、そして、静かに消えていった。
「ーーあ、ああ……」
それを見届けたサーヌは目を見開き、震える喉から言葉にならない声を漏らした。
「フェ、ズ」
消えてしまった大切な友達。名前を呼んでも優しい光は帰ってこない。もう花開くことは二度と無い。
自分が自棄になった所為で、自分が見捨てられた所為で、自分が出来損ないだった所為で、自分なんかを思ってくれていた彼女はーー。
「あ、ああ、あああああっ!!?」
軋む悲鳴を上げて、サーヌはその場に膝をついた。見開かれた青い瞳の焦点は合わず、頭を抱えた手は金髪をかき乱す。
支えだった光を失った。それも自分の所為で。
その事実はサーヌの皹入っていた心を最後に、無惨に、盛大に、粉々に打ち砕いた。見ないふりをして押し止めてきたものが一斉に溢れ出す。
「ああ、う、うああ……っ!」
呼吸が苦しいことにも気付かずに、サーヌは喉を震わせる。理性を失った呻き声と共に、喉の奥からこみ上げてきたその味は、生まれた時から大嫌いな味だった。
立ち上がるどころか動けなくなってしまったサーヌに、狂った熊の大きな影が覆い被さる。
しかし、サーヌはそれに気付くこともなく、傷だらけの声を上げ続けた。彼の世界は閉じようとしていた。
「ーー……お前、何してんだよ」
淡泊な声が聞こえて、次の瞬間には嫌な臭いが鼻をついた。鉄臭くて生臭い独特の臭い。嫌いだからこそ覚えた臭いのあまりの強さに、漸くサーヌは顔を上げる。
「……!?」
そして、目の前の光景に言葉を失った。




