3話
官邸において、事態が動かない最大の理由は、
**まだ困っていないこと**だ。
三浦はその感覚が会議室に満ちているのを肌で感じていた。
配布された資料には、国内対応事案二十三件と記されている。前月比で倍以上だが、その数字に強く反応する者はいない。
「では、国内の参考事案について」
副長官補が、いつも通りの調子で議題を進めた。
警察庁警備局の担当者が説明に入る。
「医療機関や留置施設で、暴力性の高い事案が散発しています。従来の薬物事案、精神疾患事案として対応可能な範囲です」
「増えてはいるんですね」
確認の声が上がるが、切迫感はない。
「増加傾向ではありますが、急激なものではありません」
その一言で、場の空気は落ち着いた。三浦だけが、資料の推移グラフから目を離せずにいる。
「厚労省としては」
副長官補が話を振る。
「医療現場からの照会はあります」
厚生労働省の課長補佐が答えた。
「主に救急外来での暴力行為への対応や、警察との役割分担についてです。現場が回らなくなっている、という話ではありません」
「医学的な整理は可能ですか」
三浦が静かに尋ねる。
「現行の診断や運用の枠組みで、説明できなくはありません」
即答ではなかった。
「“できなくはない”というのは」
三浦は、会議の流れを止めない程度に言葉を重ねる。
「原因が特定されている、という意味ではないですね」
課長補佐は、資料に視線を落としたまま、わずかに間を置いた。
「その整理であれば、現時点では問題ありません」
明確な肯定ではない。否定でもない。ただ、否定しない、というだけだ。
副長官補は、その言葉を拾わなかった。
拾う必要がない、と判断したのだ。
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「では、従来どおりで」
副長官補がまとめに入る。
「警察対応を基本に、医療面は厚労省が技術的に支援する形で整理します。新たな枠組みは不要です」
異論は出ない。議事録に残るのは、「変更なし」という結論だけだった。
三浦はペンを動かしながら、胸の奥に残る違和感を押し込めていた。
**従来どおりで説明できる範囲が、少しずつ歪んでいる。**
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会議後、副長官補が三浦に声をかける。
「気になる点でもあるか」
探るような調子ではない。ただの確認だ。
「現時点で、整理できない材料はありません」
三浦は、官邸の人間として正しい答えを返す。
「そうか」
それで話は終わった。続きを求める気配はない。
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夜、三浦は自席で資料を並べていた。国内の対応事案、海外の治安情報。どれも単体では、問題にならない。
だが、使われている言葉が、奇妙なほど似通っている。
興奮状態が持続。
刺激への反応が鈍い。
鎮静が効きにくい。
偶然にしては、揃いすぎている。
それを危機と呼ぶ言葉を、三浦はまだ持たない。
翌朝、外務省から共有が一件入った。
*アフリカ地域において、医療施設の機能低下が継続。治安対応のみでの沈静化に限界が見え始めているとの報告。*
三浦は、その文面を閉じずにしばらく眺めていた。
官邸は今日も通常運転だ。
危機は、まだ定義されていない。
だが三浦だけは、はっきりと感じていた。
**これは、整理の問題ではない。**




