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未定義感染  作者: 語り屋


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4話 国境

 五月も半ばを過ぎていた。キンバリーで最初の死者が出てから、三週間あまり。永田町の並木道は、初夏の日差しを受けて濃い緑を茂らせている。三浦のデスクの脇の世界地図には、今日もまだ何の印もついていない。だが、その地図が示す境界線そのものが、もはや現実に追いついていないことを、三浦はようやく認めざるを得なくなっていた。


 十八件だった事案は、三十九件になっていた。南アフリカ側では北ケープ州の内陸、フリーステート州境近くまで広がり、同時に東側では、ボツワナとの国境地帯でも同種とみられる事案が報告され始めている。ナミビア側の増加も止まっていない。死者は、確認されているだけで五名。三浦はその数字を経過概要の表で確認しながら、三週間前に十八件だった数字が、なぜここまで増えたのかを、あらためて考えた。答えは分かっていた。増える速度そのものが、増えていたからだ。九件が十八件になるまでに三週間かかった。十八件が三十九件になるまでにかかったのも、ほぼ同じ三週間だった。数字だけを見れば横ばいのようだが、増えた絶対数はほぼ倍増している。同じ「三週間」という単位が、内実として持つ重みが、確実に増していた。


 情報集約センターの当直職員のあいだでは、「アフリカの件」という呼び方も、もう聞かれなくなっていた。今では単に「あの件」と呼ばれている。固有名詞すら、もはや必要とされなくなるほど、それは日常の一部になっていた。三浦はその変化に、皮肉なものを感じていた。名前がなくなっていく方向には二種類ある。一つは、忘れられて消えていく方向。もう一つは、あまりに当たり前になりすぎて、わざわざ名指す必要がなくなる方向。「あの件」は、明らかに後者だった。


 佐伯が用意した最新の一覧表には、国別の内訳が加わっていた。ナミビア十五件、南アフリカ二十二件、ボツワナ二件。三浦はその三つの数字を並べて眺めながら、二件という数字の小ささに、かえって不安を覚えた。九件がそうだったように、二件もまた、いずれ大きな数字の起点として振り返られることになるのかもしれない。


【参考情報・経過概要】


作成:内閣情報集約センター 件名:南部アフリカにおける一連の暴力事案について(経過概要・更新)


一、事案は南アフリカ共和国北ケープ州及びナミビア共和国内で拡大を続け、現時点で確認されている件数は三十九件。うち五件で死者が確認されている。


二、新たに、ボツワナとの国境地帯(南アフリカ共和国側)でも同種とみられる事案が二件報告された。南部アフリカ開発共同体(SADC)加盟三カ国にまたがる事態となる可能性がある。


三、南アフリカ共和国政府は、これまでの州警察主導の対応から、国家警察庁(SAPS)本部主導の体制に切り替えると発表した。国防軍(SANDF)の治安出動については、州政府から要請があったものの、現時点で中央政府は決定を留保している。


四、外務省は、南アフリカ共和国北ケープ州全域及びフリーステート州西部について、危険情報レベルを「レベル2(不要不急の渡航は止めてください)」に統一した。ボツワナについては、現時点でレベル引き上げの予定はない。


五、在留邦人及び日系企業への直接的な影響は、依然として確認されていない。


以上


 経過概要には載っていないが、三浦はもう一つ、外務省の担当者から聞いた話を覚えていた。ボツワナ政府は、公式には危険情報も出さず、事案への言及もほとんどしていない。だが、南アフリカとの国境沿いの検問所では、この二週間で、明らかに検問の人員が増えている。理由を尋ねられた現地当局者は、「定例の警備強化」とだけ答えたという。何も起きていないと言いながら、何かに備えている。それもまた、三浦にとっては、聞き覚えのある態度だった。


――News24(南アフリカ大手ニュースサイト)5月18日付・日本語訳(内閣情報集約センターによる仮訳)――


「国防軍の治安出動をめぐる論争は、与党内でも意見が割れている。一部の議員は、アパルトヘイト時代に軍が国内治安維持に用いられた歴史を想起させるとして、強く反対している。一方、北ケープ州選出の議員からは、『これ以上、州警察だけで対応するのは限界だ』との声も上がっている。政府報道官は、『現時点では治安・薬物対策の枠内で対応可能と判断している』と述べるにとどまった」


 三浦はこの一節を読んで、遠い国の内政問題として片付けることが、もうできなくなっている自分に気づいた。国防軍を投入するかどうかという、その国の歴史そのものに関わる重い判断に、名前のない現象が、静かに影響を及ぼし始めていた。


 九時の定例で、樫村肇は経過概要を一通り読み終えると、しばらく無言だった。長身を折り曲げた姿勢のまま、指先で資料の端を、いつもより長く叩き続けていた。


「SANDFの治安出動要請、というのは初めて聞く話だな」


「州政府からの要請段階です。中央政府は、まだ決定していません」


「決定を留保している、というのは、決められない、ということか。それとも、決めたくない、ということか」


「両方だと思います。国防軍を国内の治安維持に投入するのは、南アフリカでも極めて例外的な措置です。過去に前例がないわけではありませんが、政治的なハードルは高い。国際社会からの見え方も含めて、政府としては慎重にならざるを得ないはずです」


 樫村は頷いた。


「三カ国にまたがる、という表現が、今回初めて出てきた。SADCの枠組みで捜査していたはずが、いつの間にか、SADCの枠組みでも収まらなくなってきている」


「所管が広がっている、ということだと思います。ただ、それでも、これは依然として治安・薬物関連の事案という整理です」


「その整理が、いつまで持つと思う」


 三浦は答えなかった。答えられなかった、というのが正確だった。


「もう一つ聞きたい。ボツワナは、なぜレベルを引き上げないんだ」


「二件だけでは、危険情報を動かす基準に達していません。外務省としても、隣国での事案を根拠に先回りして引き上げることには、慎重な立場を取っています」


「二件が、いずれ二十件になったとしたら」


「そのときは、当然、対応が変わります」


「そのときには、もう遅い。それは、この三週間の数字が証明している」


 樫村はそう言うと、経過概要を閉じた。


「三浦さん、正直に聞く。あんたなら、今、この事態にどんな名前をつける」


 三浦は即答できなかった。名前をつける、という行為そのものが、自分の仕事の範囲を超えている、という感覚があった。だが、その感覚こそが、樫村の言う「基準の前提」なのかもしれなかった。


「今の段階では、まだ、名前をつけるべきではないと思います。根拠がなさすぎます」


「根拠がない、というのは、事実がないという意味か。それとも、事実を集める仕組みがない、という意味か」


 三浦はその問いに、すぐには答えられなかった。樫村はそれ以上追及せず、次の議題には移らず、しばらく窓の外を見ていた。三浦も佐伯も、何も言わずに、その沈黙を共有していた。


 夕方、佐伯が三浦のデスクにやってきた。今回はタブレットだった。地図が表示されている。


「更新しました。三カ国分です」


 画面には、赤いピンが無数に散らばっていた。ナミビアと南アフリカの国境地帯を中心に、東はボツワナ国境まで、点は着実に、しかし不規則に広がっている。黄色いピンも増えていた。前回三つだった黄色いピンは、今では十一に増えている。


「黄色いピン、増えたんだな」


「はい。裏は取れてません。全部、SNSか、又聞きです。でも、数だけは増えています」


「十一件、全部が同じパターンか」


「怪我をした人間が、数日後に様子を変える、というパターンです。ただ、報告される『数日』の幅が、以前より広がっている気がします。二日後、という投稿もあれば、十日後、という投稿もありました」


 三浦はその「十日後」という数字に、かすかな不安を覚えた。もし本当にそういう現象があるのなら、幅が広いということは、それだけ見落としが増える、ということでもあった。潜伏期間が一定でないなら、隔離や経過観察の基準そのものが、成り立たなくなる。


「幅が広がっている、というのは、報告の精度が落ちているだけかもしれない。伝聞が重なるほど、日付の記憶は曖昧になる」


「それも考えました。でも、一件だけ、日付がはっきりしてるものがあります。地元の診療所の受付記録が、たまたま流出したらしくて。四月三十日に軽傷で受診した患者が、五月十日に、その診療所で職員を襲撃したという記録です」


「十日、というのは確定か」


「受付記録に基づく数字なので、これは伝聞じゃありません。もちろん、この二つの出来事が同一人物によるものかどうかは、記録だけでは断定できませんが」


 三浦はその数字を頭の中で反芻した。四月三十日から五月十日。十日間、その患者は普通に生活していたはずだった。あるいは、普通に見えるだけの何かを、演じていたのかもしれない。三浦はその考えを、すぐに打ち消した。演じる、という言葉を使うには、まだ根拠が足りなさすぎた。


「だとすると、報告の精度の問題では片付けられないな」


「はい。もしそうじゃなかったら——」


 佐伯はそこで言葉を止めた。三浦もまた、その先を促さなかった。


「これも、上げない」


「分かってます。でも三浦さん、これ、もうすぐ十一件じゃ済まなくなる気がします」


 佐伯の声には、これまでにない硬さがあった。三浦は何も言わず、ただ頷いた。佐伯が席に戻ったあと、三浦は自分のデスクの世界地図を、あらためて見た。三カ国にまたがる、という言葉の意味を、地図の縮尺で確かめるように。ナミビアと南アフリカとボツワナの国境が交わる一点は、地図の上では、指先で隠れてしまうほどの小さな場所だった。


 週末、桐生美咲から久しぶりに連絡が来た。今度はメッセージではなく、直接の電話だった。


「今、少し話せる?」


「大丈夫だ」


「うちの部で、南部アフリカの一連の事案について、まとまった特集を組む話が出てる。私が担当になりそうなの」


 三浦は受話器を握る手に、わずかに力がこもるのを感じた。


「どういう切り口で」


「まだ固まってない。ただ、デスクは『薬物』の線で書かせたがってる。麻薬密輸ルートの拡大、みたいな話。国境を越えて広がってる、っていう構図が、その筋書きにはちょうどいいから」


「でも、お前はその筋書きに納得してない」


「うん。私が特派員経由で集めてる情報は、それだけじゃ説明がつかないことばかりで」


「たとえば」


「怪我をした人間が、後になって様子がおかしくなる、みたいな話。恒一、前にも同じような顔をしたことあったよね。今も、同じ顔をしてる」


 三浦は何も言わなかった。電話の向こうで、美咲がため息をつくのが聞こえた。


「聞き出そうとしてるわけじゃない。ただ、もし私がこのまま『薬物』の線で記事を書いたら、それは多分、間違った記事になる。あなたが何か知ってるなら、間違った方向に読者を導く記事を書かせないでほしい、とは思う」


「俺の立場で言えることは、何もない」


「分かってる。それは分かった上で言ってる」


 しばらく沈黙が続いた。三浦が先に口を開いた。


「一つだけ言えることがあるとすれば、薬物という筋書きだけで書くのは、多分、正確じゃない。それ以上は言えない」


 電話の向こうで、美咲が短く息を呑む音がした。


「分かった。ありがとう、それだけでも」


「約束を破ったつもりはない」


「分かってる。私も、あなたを困らせるつもりはない。ただ、この件をちゃんと調べる。あなたが止めてくれなかった、という事実だけは、覚えておいて」


 電話が切れたあと、三浦はしばらくスマートフォンを見つめていた。美咲は一線を越えないと約束していた。だが今の言葉は、その一線に、これまでで一番近づいたものだった。そして、三浦自身も、今、その一線に指先で触れてしまったことを、自覚していた。


 参考情報を扱う人間として、報道機関に対し、公式説明の妥当性を否定するようなことを口にしたのは、これが初めてだった。具体的な事実は何一つ話していない。それでも、美咲はきっと、あの一言だけで、記事の方向を変えるだろう。三浦はそれを分かっていて、あの一言を口にした。樫村が個人的な伝手を使って情報を集めているように、自分もまた、公式の手続きの外側で、何かを動かしてしまった。その自覚が、三浦の胸に、これまでにない重さを残した。


 その週の半ば、三浦は一度、樫村の内線番号を押しかけた。佐伯の黄色いピンのことも、四月三十日と五月十日の受付記録のことも、美咲に漏らしてしまった一言のことも、洗いざらい話してしまおうかと思った。だが、呼び出し音が鳴る前に、三浦は受話器を置いた。


 話したところで、何が変わるわけでもない。樫村もまた、自分自身の非公式な情報を抱えている。二人でそれを持ち寄ったところで、「参考情報」という分類が変わるわけではない。分類を変えるには、もっと確かな何かが要る。三浦はそう自分に言い聞かせたが、それが本当の理由なのかどうか、自分でもよく分からなかった。もしかしたら、ただ怖いだけなのかもしれない。分類を変えた先に何があるのか、まだ誰も知らないことが。


 その夜、帰宅した三浦に、志乃は特に変わった様子はなかった。三浦もまた、いつも通りを装った。缶ビールを開け、二人で短いニュース番組を眺めた。国内の話題ばかりが流れ、南部アフリカの「な」の字も出てこなかった。ただ、缶ビールを開ける手が、いつもよりわずかに遅かったことに、三浦自身は気づいていなかった。


「今日、亜由美から連絡あったよ。模試の判定、少し上がったって」


「そうか。よかったな」


「今度、三人でご飯行こうって話してるんだけど、来月の頭でどう?」


 三浦はスケジュールを頭の中で確認した。来月の頭には、特に大きな予定は入っていない。少なくとも、今のところは。


「大丈夫だと思う」


「じゃあ、日程調整しておくね」


 志乃はそう言って、テレビの音量を少し上げた。三浦はその横顔を見ながら、来月の自分がどんな顔をしているだろうか、と考えた。考えてから、そんな先のことを気にしている自分に、少し驚いた。これまで、仕事のことで、私生活の予定を不安に思ったことなど、一度もなかった。


――読売新聞 2026年5月19日 朝刊(国際面)――


【南部アフリカの暴力事案、3カ国に拡大 南ア政府が対応強化】


 ナミビア共和国と南アフリカ共和国にまたがって発生している集団暴力事案が、新たにボツワナとの国境地帯にも拡大していることが分かった。関係者によると、これまでに確認された事案は39件、死者は5人に上る。南アフリカ政府は国家警察庁(SAPS)本部主導の体制に切り替え、対応を強化した。国防軍の治安出動については、現時点で決定していないとしている。〔共同〕


 三浦の机の上には、公式な数字と、公式にできない数字が、これまで以上にはっきりと分かれて積み上がっていた。三十九件、五名、三カ国。それが公式な数字だった。十一件の黄色いピンと、四月三十日から五月十日という十日間の記録と、幅の広がった「数日後」という言葉、そして美咲の「止めてくれなかった」という一言は、どこにも記録されない、三浦一人が抱える重さだった。


 国境という言葉が、この三週間で、急に軽くなった気がした。地図の上の線は変わっていない。ナミビアと南アフリカとボツワナを分ける、細く曲がりくねった線は、今日も昨日と同じ場所に引かれている。ただ、その線の向こう側とこちら側を、何かが平然と行き来し始めている。国境は、書類の上でだけ、まだ意味を持ち続けていた。


 三浦はまだ、それを止める方法どころか、それに名前をつける方法さえ、持っていなかった。ただ、樫村の「その整理が、いつまで持つと思う」という問いだけが、帰り道の間じゅう、頭の中で繰り返し鳴り続けていた。

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