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未定義感染  作者: 語り屋


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26話 名もなき英雄

 この物語は、これまで、内閣官房の一室から見た景色を、中心に描いてきた。だが、対策室の壁の外では、この半年余りの間に積み上げられた数字の一つ一つが、名もない、しかし、確かな痛みとして、無数の現場に、刻み込まれていた。


 ここに記すのは、そうした現場の、いくつかの断片である。


 十二月上旬、東京都内某署の、若い警察官は、この日、無線から流れる指令の数を、途中で数えるのをやめた。朝の八時から、休みなく、通報が入り続けていた。


「発症者による傷害事案、至急向かってください」


 その言葉を、この日、何度、耳にしただろうか。警察官は、パトカーのハンドルを握りながら、助手席の先輩の顔が、青ざめていくのを見ていた。


「本部、応援要請。人手が足りません」


「現在、対応可能な部隊がありません。現着後、状況を報告してください」


 その返答に、先輩が、小さく舌打ちをした。応援は、もう、当てにできない。現場には、常に、彼ら二人だけで、向かわなければならなかった。


 現着した先で、彼らを待っていたのは、住宅の玄関先で、血を流して倒れている中年男性と、その傍らで、獣のような声を上げ続けている、もう一人の男の姿だった。取り押さえに、二人がかりでも、十分近くかかった。若い警察官は、男の腕を必死で押さえ込みながら、自分の警棒が、いつの間にか、床に落ちていることに気づいた。拾う余裕は、どこにもなかった。


 押さえ込んだあとも、男は、拘束具の中で、暴れ続けた。倒れていた被害者は、搬送された病院で、死亡が確認された。


 この男の身柄を、どこに移すか——それが、次の問題だった。指定医療機関は、すでにどこも満床だった。若い警察官は、無線で、留置管理課とのやり取りを聞いていた。


「収容先が確保できません。当面、拘置支所の空き房を、隔離目的で転用する方向で調整中です」


 警察官は、その言葉に、耳を疑った。犯罪者を収容するための場所に、病人を——いや、もはや、病人と呼んでいいのかどうかさえ分からない者たちを、押し込める。だが、代替案は、どこにもなかった。翌週には、都内の拘置支所の一角が、正式に、発症者の一時収容場所として、運用され始めることになる。鉄格子の向こうで、意味を成さない声を上げ続ける人影が、日に日に、増えていった。看守たちは、誰も、その光景に、まだ慣れることができずにいた。


 若い警察官は、その夜、署に戻ってから、初めて、自分の手が、まだ震えていることに気づいた。誰も、それを、責めなかった。同じ震えを、署の誰もが、抱えていた。休憩室の隅では、別の同僚が、誰にも聞こえないように、小さく嗚咽を漏らしていた。この一週間で、彼が現場に出た回数は、通常の月の、一か月分に相当していた。


 同じ週、都内のある消防署に所属する救急隊員は、この日、これまでの人生で、最も恐ろしい十数分間を、経験することになった。


 通報を受けて向かった先は、路上での転倒事故だった。搬送する患者は、争いに巻き込まれて腕に裂傷を負ったという、三十代の男性だった。意識は清明で、会話も、いつも通りにできていた。隊員たちは、いつも通りの手順で、男性を、救急車の中に収容した。


「病院まで、あと十分ほどです。楽にしていてください」


 隊員の一人が、そう声をかけた。男性は、力なく頷いた。だが、その五分後、状況は一変した。


 男性の体が、突然、大きく痙攣した。次の瞬間、男性の目から、光が消えた。そして、それまでとはまったく違う、獣じみた声を上げながら、隊員に向かって、飛びかかってきた。


 狭い車内で、逃げ場は、どこにもなかった。隊員は、とっさに身をかわそうとしたが、腕を強く掴まれ、床に引き倒された。男性の顔が、目の前に迫った。隊員は、無我夢中で、片手で相手の顔を押しのけながら、もう片方の手で、車内の緊急ブザーを、何度も、何度も叩いた。


「開けて! 開けてくれ!」


 運転席の隊員が、異変に気づき、車を路肩に停めて、後部の扉を開け放った。二人がかりで、ようやく、男を引き剥がすことができた。押さえ込むまでに、さらに数分を要した。


 現場に到着した警察官の応援を得て、事態は、ようやく収まった。だが、襲われた隊員は、その後、しばらくの間、誰とも、まともに口を利くことができなかった。同僚が、大丈夫かと声をかけても、ただ、震える手で、自分の腕を、握りしめ続けているだけだった。


 その夜、隊員は、報告書を書きながら、何度も、ペンを取り落とした。搬送前は、あんなにも普通に、会話ができていた。その事実が、何よりも、隊員の心を、深く、抉り続けていた。次に、また同じことが起きたら——その恐怖は、これから先、この隊員の中から、二度と消えることはないだろう。


 都内の、ある総合病院の救急外来では、この日、看護師の一人が、廊下に並べられた簡易ベッドの数を、頭の中で、数え直していた。正規の病床は、とうに埋まっていた。廊下にまで、患者が溢れていた。


「先生、次の患者さん、意識レベルの低下があります」


「分かった、すぐ行く」


 医師の声には、余裕がなかった。この病院は、症候群の指定医療機関ではなかった。だが、指定医療機関がどこも満床である以上、疑い例の初期対応は、この病院のような、一般の医療機関にも、なし崩し的に、回ってきていた。


 正規の身体拘束具は、とうに底をついていた。看護師たちは、病院にあるだけのシーツと、包帯を、幾重にも巻きつけて、即席の拘束具を作っていた。それが、どれほど心もとないものかは、作っている本人たちが、一番よく分かっていた。


「これで、本当に、持つと思う?」


 同僚の一人が、シーツを結びながら、誰にともなく呟いた。誰も、答えなかった。答えられなかった、というのが、正確だった。


 さらに深刻だったのは、スタッフ自身の中から、発症者が出始めていたことだった。この二週間で、この病院だけで、三人の看護師と、一人の医師が、疑い例として、隔離されていた。防護具の不足、慢性的な疲労、そして、あまりにも多い患者との接触機会——原因は、恐らく、その全てだった。人手は、日に日に、減り続けていた。


 その夜、事態は、起きた。


 深夜二時過ぎ、拘束していた患者の一人が、疲労で緩んだシーツの結び目をすり抜け、隔離病室を抜け出した。当直の人員は、通常の半分以下にまで、削られていた。異変に気づいた看護師が、悲鳴を上げたときには、すでに、遅かった。


 廊下に溢れていた、他の患者やその家族たちが、逃げ惑った。だが、逃げ場のない、狭い廊下だった。駆けつけた警備員と、当直の医師が、なんとか取り押さえるまでの、わずか数分の間に、三名が、命を落とした。うち一名は、この病院に、十年以上勤めてきた、ベテランの看護助手だった。


 翌朝、生き残った職員たちは、誰も、まともに言葉を発することができずにいた。師長は、その日のうちに、本部に対して、これ以上の疑い例の受け入れは不可能だという、悲痛な報告を上げた。だが、他に受け入れる場所は、どこにもなかった。断ることは、目の前で助けを求めている誰かを、見捨てることと、同じ意味を持っていた。


 これらの現場は、対策室の経過概要には、ただの数字として、記録される。一件、また一件。増加率、何パーセント。だが、その数字の一つ一つの裏側には、震える手で無線を握る警察官がいた。真っ暗な車内で、命がけで抗った救急隊員がいた。シーツを結びながら、それが持たないことを知っていた看護師がいた。


 彼らの誰一人として、これから先、この国がどうなるのかを、知らなかった。彼らが知っていたのは、ただ、今日という一日を、なんとか、乗り切ることだけだった。そして、その「なんとか」が、いつまで続けられるのか——それを、彼ら自身、誰よりも、恐れていた。


 ある救急隊員は、仮眠室で、わずか二時間の休息の間に、こう漏らした。「俺たちが倒れたら、次は誰が、あの人たちを運ぶんだろう」。誰も、その問いに、答えられなかった。答えを持っている人間は、この国のどこにも、まだ、存在していなかった。


 ある看護師は、更衣室の鏡に映る、自分の顔を見て、こう思った。半年前の自分は、こんな顔をしていなかった。目の下の隈も、頬のこけ具合も、まるで別人のようだった。それでも、彼女は、翌朝も、同じ制服に袖を通した。他に、選べる道が、見当たらなかったからだった。


――読売新聞 2026年12月8日 朝刊(社会面)――


【救急搬送、受け入れ先確保に平均47分 現場の疲弊深刻】


 症候群の感染拡大に伴い、都内の救急搬送における受け入れ先確保までの平均時間が、47分に達していることが、消防庁の調べで分かった。平時の約3倍の水準だという。警察、消防、医療機関の現場では、人員不足と過重負担が深刻化しており、関係者からは「限界が近い」との声も上がっている。〔共同〕


 名もなき現場の悲鳴は、この夜も、東京のあちこちで、静かに、しかし確実に、積み重なり続けていた。その一つ一つが、いつか、この国という大きな仕組みそのものを、内側から、蝕んでいくことになる。だが、その現場に立つ人々自身は、そのことに、思いを馳せる余裕すら、持ち合わせていなかった。ただ、目の前の、たった一人を、救うことだけで、精一杯だった。

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