25話 カウントダウン
十二月上旬。満員電車と国際便での発症事案から、三日が経っていた。対策室には、これまでとは違う種類の緊張が、常駐するようになっていた。誰もが、次に何が起きるかを、恐れながら、待ち構えていた。街を歩く人々の顔にも、これまでとは違う警戒の色が浮かぶようになっていた。マスクの着用率は、ほぼ百パーセントに近づき、電車の中では、誰もが、無言で、周囲の乗客との距離を、少しでも取ろうとしていた。
水曜の朝、佐伯が、統括庁の統計チームと共同でまとめた、一枚の資料を、対策室の全員に配布した。
「今後の感染予測を、まとめました」
【対策室・感染予測資料】
作成:内閣感染症危機管理統括庁/対策室分析班
一、現在の増加率(直近十日間で約三・五倍)が継続すると仮定した場合、国内の累計症例数は、以下のように推移すると予測される。
十二月中旬:約千三百件 十二月末:約四千五百件 一月末:約一万六千件 二月末:約五万六千件
二、感染拡大は、今後、人口密集地——特に東京圏、大阪圏、名古屋圏、福岡圏——において、加速度的に進行すると予測される。満員電車、大規模商業施設、集合住宅など、人と人との接触密度が高い環境が、感染拡大の主要な媒介になるとみられる。
三、これらの予測は、現行の要請ベースの行動制限が、十分な効果を発揮しないという前提に基づく。より強い措置が導入された場合、増加率は緩和される可能性がある。
以上
対策室に、重い沈黙が落ちた。三浦は、その数字を、何度も、目で追った。二月末、五万六千件。半年前、三浦が扱っていた最初の一件から、想像もできない数字だった。
「人口密集地、というのは、具体的には、東京が最も危険、ということですか」
三浦が尋ねると、佐伯が頷いた。
「人口密度と、感染経路の性質を掛け合わせると、そうなります。特に、都心部の主要駅を中心とした、半径十キロ圏内が、最も感染拡大のリスクが高いと試算されています」
「つまり、この対策室がある場所そのものが、最も危険な場所になる、ということか」
樫村が、皮肉めいた口調で言った。誰も、それを笑わなかった。
「この予測、外れる可能性は」
三浦が、藁にもすがるような思いで尋ねた。佐伯は、静かに首を振った。
「あり得ます。ただ、これまでの半年間、私たちの予測は、常に、楽観的な方に外れてきました。悪い方向にしか、外れなかった」
三浦は、その指摘に、何も言い返せなかった。
樫村が、その日の午後、三浦と佐伯だけを、小会議室に呼んだ。ドアには、鍵がかけられた。
「もう一つ、試算した数字がある。これは、対策室の外には、まだ出していない」
樫村は、一枚の紙を、机に置いた。そこには、簡潔な、しかし、これまでのどの数字よりも重い言葉が、書かれていた。
「国家機能維持の限界点、試算」
「これは」
三浦が、震える声で尋ねた。
「行政、医療、治安、インフラ——この国を、国として機能させている、あらゆる基盤について、従事者の感染率が、一定の閾値を超えたときに、何が起きるかを、試算したものだ」
「閾値、というのは」
「各機関の従事者のうち、およそ二割が、感染、または、感染への恐怖による欠勤で、機能を失った場合。今の増加率で計算すると——」
樫村は、一度、言葉を切った。
「早ければ、来年の三月から四月頃には、その閾値に達する可能性がある」
三浦は、その言葉の意味を、正確に理解するのに、しばらく時間がかかった。三月、四月。それは、今からわずか、三、四か月後だった。
「その先には、何が」
「分からない。ただ、行政サービスの停止、治安の悪化、医療崩壊——それらが、同時多発的に進行する可能性がある。俺たちは今、その意味で、この国が『国』であり続けられる、残された時間を、初めて、数字として、突きつけられている」
対策室の外では、まだ、誰も知らない数字だった。だが、三浦の中では、その数字が、これまでのどんな報告よりも、重く、深く、刻み込まれていた。
金曜、総理による、二度目の国民向け説明が、テレビで生中継された。三浦は、対策室のモニターで、その様子を見守った。
――内閣総理大臣、国民向け説明(抜粋) 2026年12月5日――
○黒田総理 国民の皆様。この数日間、通勤電車や航空機内において、大変痛ましい事案が相次いで発生いたしました。犠牲になられた方々、そのご家族に、心よりお悔やみを申し上げます。
本日は、皆様に、現時点で分かっている事実を、可能な限り、率直にお伝えいたします。この現象の原因については、現時点で、科学的に確定した結論には至っておりません。ただし、専門家会議の分析により、以下の傾向が確認されています。発症は、多くの場合、突然の意識障害と、他者への攻撃行動として現れます。発症後の回復例は、これまでのところ、確認されておりません。感染は、主に、傷口を介した体液の接触によって生じるとみられています。
政府としては、国民の皆様に、次のことをお願いいたします。不要不急の外出、特に、混雑した場所への外出を、極力お控えください。体調に異変を感じた方、あるいは、周囲にそのような方がいらっしゃる場合は、決して自己判断で対応せず、速やかに専用相談窓口にご連絡ください。
政府は、皆様の安全を守るため、全力を尽くしてまいります。どうか、冷静な行動を、お願いいたします。
三浦は、その会見を、複雑な思いで見つめていた。総理は、最後まで、「感染症」という言葉を、一度も使わなかった。だが、語られた内容は、事実上、感染症としての説明そのものだった。名前を避けながら、実質を伝える——それは、この半年間、三浦たち自身が、繰り返し行ってきた技術と、まったく同じものだった。
「自粛の要請だけで、効果はあるでしょうか」
三浦が尋ねると、樫村は、静かに答えた。
「劇的な効果は期待できない。だが、何もしないよりは、はるかにいい。そして——」
樫村は、一度、言葉を切った。
「この会見には、もう一つの意味がある。次の、もっと重い発表をするための、地ならしだ」
その夜、樫村は、三浦だけを、再び、鍵のかかる小会議室に呼んだ。佐伯は、この場には、まだ、呼ばれていなかった。
「三浦さん、これから話すことは、対策室の中でも、ごく一部の人間しか知らない。他言は無用だ」
「はい」
「政治機能移転計画、というものが、極秘裏に立案されている」
三浦は、その言葉に、息を呑んだ。
「首都圏の機能が、万が一、維持できなくなった場合に備えて、政府の中枢機能と、一部の専門家、研究者を、地方の安全な地域に、あらかじめ疎開させる計画だ。行政の継続性と、いずれこの国が立て直しに入るときのための、いわば、種を守る計画になる」
「候補地は、決まっているんですか」
「まだ検討段階だが、内陸部の、人口密度が比較的低く、かつ、一定の行政・研究インフラが整っている地域が、複数、候補に挙がっている。詳細は、俺にも、まだ全ては知らされていない」
「対象になるのは」
「限られた人数だ。政府中枢、危機管理の中核メンバー、そして、この症候群の研究にあたっている専門家たち」
三浦は、その言葉の意味を、ゆっくりと飲み込んだ。
「俺も、対象に」
「候補に入っている。ただし、これは、まだ計画段階だ。実行されるとは、限らない。実行されないことを、俺たちは、誰よりも強く、願っている」
三浦は、しばらく、何も言えなかった。もし、その計画が実行される日が来たら、志乃は、どうなるのか。志乃の病院は、指定医療機関として、間違いなく、最後まで、現場に残ることを求められるだろう。三浦だけが、安全な場所に移される——その光景を想像した瞬間、三浦の胸に、耐えがたい痛みが走った。
「もし、その日が来たら、家族は」
「まだ、そこまでの制度設計はできていない。正直に言えば、その問題こそが、この計画の、最も難しい部分だ」
樫村の声には、これまでにない、深い苦悩が滲んでいた。
「危機管理監自身は、対象に」
「俺も、候補には入っている。だが、俺は、行かないと決めている」
「なぜですか」
「この対策室を、最後まで、動かし続ける人間が、どこかに必要だからだ。誰かが、現場に残らなければならない。それが、俺の役目だと思っている」
三浦は、その言葉に、胸を打たれた。樫村の覚悟の重さが、これまでのどんな言葉よりも、はっきりと伝わってきた。
「三浦さん、これは、最悪の場合の話だ。この計画が、実行される日が来ないように、俺たちは、今、できる限りのことをしている。それを、忘れないでくれ」
三浦は、頷いた。だが、頷きながらも、三浦の心には、これまでのどんな報告よりも、深く、冷たい恐怖が、根を下ろしていた。
――読売新聞 2026年12月6日 朝刊(一面)――
【総理、国民に自粛要請 症状・危険性を詳細説明 「感染症」の明言は避ける】
黒田総理は5日、国民向けの説明を行い、症候群の症状と危険性について、これまでで最も詳細な情報を公表した。感染症であるとの明言は避けたものの、傷口を介した体液接触による感染の可能性や、発症後の回復例がないことなど、専門家会議の分析結果を踏まえた説明を行った。総理は、不要不急の外出自粛を、国民に強く呼びかけた。〔共同〕
三浦は、その夜、家路につきながら、樫村から聞いた言葉を、何度も、頭の中で反芻していた。国家の余命。政治機能移転計画。それらの言葉は、これまでの半年間、三浦が向き合ってきた、あらゆる数字や報告よりも、はるかに重く、はるかに現実的な、終わりの気配を帯びていた。
三浦は、電車の窓に映る、自分の顔を見つめた。この国が、この国であり続けられる時間には、限りがある。その事実を、今、三浦は、誰よりも早く、知ってしまっていた。知ってしまったことの重さを、三浦は、これから、どうやって、背負っていけばいいのか——まだ、答えは、どこにも見つからなかった。




