第4章 弱き王【4】
気が付くと、黒い空間に佇んでいた。何も見えない。なんの音も聞こえない。だが、無性に不安になる空間であった。
『どうしてそんなこともできないんだ』
不快な音声が耳の奥を貫く。辺りを見回しても、なんの気配も感じない。
『どうしてお前はそんなに不出来なんだ』
――ごめんなさい。
それは、なんの考えもなく出てきた言葉だった。そう口にするのが当然のように。
『お前は邪魔だ。もう少しで上手くいくはずなんだ』
『お姉ちゃんを見習いなさい!』
――ごめんなさい。
耳を塞ぐことも許されず。ただ蹲る。そうすることでしか耐えられない。
『役立たず。弱いお前に何ができる』
『こんなこともできないなんて。本当に恥ずかしいわ!』
様々な声が重なり、不協和音となって耳の奥で響く。呼吸すら許されない。
『お前に王は務まらない。いつかキングも愛想を尽かす』
信じたくない。それなのに、まるでそれが正解のように胸中を占める。
『お前がいなければすべて終わるんだ』
――もうやめて。
『愛されているだなんて、よくそんな幻想を懐けたものだ』
ゆらりと影が揺れる。目を逸らすことは許されなかった。
『さっさと私の前から消えてくれ』
『さっさとこの世界から消えてくれ』
声が重なる。どちらが本当の言葉なのか。きっと、どちらも本当の言葉なのだろう。
ここに居ることが、きっと罪なのだ。
* * *
ようやく呼吸を取り戻すように目を覚ます。激しい心拍を落ち着けようと、荒く呼吸を繰り返す。窓の外に覗く月はまだ高く、寝室の外はしんと静まり返っている。時計を見ると、まだ真夜中だった。
(……またこの夢……)
ベッドの上で体を起こし、荒く深呼吸する。圧迫された肺に押し出されるように涙が溢れた。
(これが、キングの本心だとしたら……)
そう考えると、心臓を悪魔に鷲掴みにされているような気分だった。ただの夢だ。そう思ってみても、あの不快な声が耳から消えない。
乱暴に目元を拭い、ベッドから降りる。呼び鈴を鳴らそうかと手を伸ばしたが、いまなら部屋の外に誰かいるはずだ。スリッパを履き、ドアを薄く開く。ランプの薄明かりの下で、フィリベルトが本を読んでいた。リベルに気付いたフィリベルトは、明るい笑みを浮かべる。
「目が覚めてしまったんスか?」
「うん……なんだか夢見が悪くて」
フィリベルトは腰を屈めてリベルと視線を合わせる。その途端、リベルの胸中には安堵感が広がった。
「疲れてるんスよ。毎日、忙しいっスから」
「うん……。僕は役に立てているかな」
「それはもう。何より、レクスがいるだけで場が和みますから」
リベルの周りにいる人々は雰囲気が柔らかい。おそらく、右も左もわからず王になった彼に気を遣っているのだろう。フィリベルトはきっとどこにいても快活なのだろうが。
「レクスが名に相応しい王になろうと努めているのはよくわかるっス。レクスは良い王になります。レクスに仕えることができて、自分は光栄っスよ」
「……僕はそんなすごい人じゃないよ。なんの役にも立ってない」
いまでさえ、執務机に山を作る書類を一枚一枚、片付けることに必死だ。自分がこの先、この国を守っていけるとは思えなかった。あの不快な声は、その証拠のようにさえ思えた。
「結果を焦る必要はないっスよ。レクスはこの先、何年も王として務めていくんスから」
「うーん……」
「レクスはまだお若いっスから。これから強い王になりますよ」
現在のリベルでも、すでに前世より長く生きている。それだけ知恵が身に付き、知識も多いはずだが、それでもリベルは自信を持つことができなかった。あの日の誰かに、足を引っ張られているような、そんな気分だった。
「それはどうかな……。僕はポケットラットだし……」
「ポケットラットがどうして最弱と言われているかご存知っスか?」
明るい笑みでフィリベルトが言うので、リベルは首を傾げる。
「えっと……知らないかな」
「ポケットラットは、他の魔獣にとって捕食対象なんス」
あまりにあっけらかんと言うフィリベルトに、ひえ、とリベルは小さく呟いた。それでもそれは当然だと考えられる。
「捕まれば食われてしまうんスよ。大抵、ポケットラットは捕まっちゃいます。速いと言っても、体は小さいっスから」
ポケットラットにとっての数歩は、他の魔獣にとって一歩の場合もある。いくら素早い動きでかく乱しようとも、その歩数の差を埋めることはできない。追われるポケットラットに、逃げるための手立てはないのだ。
「だから、ポケットラットはほとんど進化しないんス。それでも、捕まらずにいられる個体もいます」
「運が良かったとしか言えない気がするけど……」
「まあ、それは否めないっスけど。でも、そもそも人型になれるだけで、ポケットラットの中でもかなり進化した個体っスよ」
「……そう……」
そうは言っても、とリベルは考える。いくら進化しようと、ポケットラットが魔族の中で最弱であることに変わりはない。自分がこの先、強き王となることはリベルには想像できなかった。
「捕食対象か……。じゃあ、キングが僕を食べる可能性もあるかな」
「それはないっスねー」
フィリベルトの確信は、キングがリベルに向ける愛とは別の理由があるようだった。
「魔王族は他の魔獣を捕食しないんスよ」
「そうなんだ」
「はい。魔王族の主食は人間っスから」
またもや明るく笑ってフィリベルトが言うので、ひえ、とリベルは息を呑む。前世の自分であれば、二度とキングには近付かないところだ。
「それも昔の話っスけどねー。いまの魔王族は人間を食わないっスよ」
「そう……」
「何より、キングはレクスを愛していらっしゃいますからね。愛する人を食おうなんて思わないっスよ」
それはきっとその通りなのだろうが、キングの愛には、リベルはいまだに確信を持てずにいた。小さきものを愛でたくなるのは、どの生物でも同じだという。まさにそういうことなのではないか、と。
「フィリベルトは不満ではないの?」
「何がっスか?」
「ポケットラットに仕えるなんて……」
「不満なんてあるわけないっスよ~。レクスが何族であろうと関係ないっス。王として認められたんスから」
フィリベルトの表情に嘘や偽りはない。何より、実直な彼が心にもないことを言えるとも思えない。だが、それでもリベルの不安は消えなかった。
「みんな、そう言うけど……僕は王に相応しくないよ」
「レクスは努力してます。その姿は偽りじゃないはずっスよ」
「…………」
「自分たちが付いてるっス。レクスに仇為す存在は、誰であろうと指一本、触れさせないっスよ」
「……うん。ありがとう。心強い人たちに囲まれて、僕は幸運だね」
いまでも、ふとしたときに前世を思い出すことがある。あのときの自分には、こんなにたくさんの人に囲まれていることを想像すらできなかった。姉を失ってから、ただ遺されたのは孤独だった。この手が幸福に届くことはないと、達観にも似た確信があった。だから、不安になってしまう。また独りになってしまうのではないか、と。あの夢がその証明であるのなら、また失望することになるのだろう。ただ、それだけが恐ろしかった。




