穏やかな日々、竜の夢
三百年――。
あの黒竜が倒れ、世界に再び平和が訪れてから、長い時が流れた。
セシルドとアザンの戦いは、人々の間で"竜葬の日"の伝説として語り継がれた。
傷ついた人々もやがて癒え、
世界はゆっくりと、穏やかな時を取り戻していた。
街や村から少し離れた広い草原の真ん中に、
小さな家が一軒。
その家には、兄弟が二人だけで暮らしていた。
「お兄ちゃん、これなかなか切れないよー!」
茶髪の短い髪に、空のように澄んだ青い瞳。
まだ幼さの残る少年――クラウダが困ったように薪を見つめている。
「情けないな、クラウダ。薪割りってのはな、思い切りが大事なんだぞ」
そう言って兄のライズが斧を振り下ろす。
スコーン! という軽快な音とともに、薪は綺麗に二つに割れた。
「すごーい! さっすがお兄ちゃんだね!」
「はは、すぐにクラウダもできるさ。焦るな」
ライズは優しく笑いながら、弟の頭を軽く撫でた。
その温かい仕草に、クラウダの顔もぱっと明るくなる。
「僕も早く、お兄ちゃんの役に立てるようになるよ!」
「頼もしいな。じゃあ、薪を運ぶぞ」
二人で薪を抱え、家の中へと戻っていく。
そこには穏やかな日常の空気があった。
両親を病で亡くしてから数年。
それでもこの兄弟は、互いに支え合い、笑顔を絶やさずに生きてきた。
苦しいことがあっても、二人一緒なら乗り越えられる。
――そう信じていた。
くるくると回る時計の針が、静かに一日を終える。
外はすっかり暗くなり、夜の帳が家を包みこんでいた。
「じゃあ僕、先に寝るね。お兄ちゃんは?」
「おやすみ、クラウダ。すぐ行くよ」
コクリと頷く弟を見送り、ライズは片付けに取りかかる。
しかし、皿を持った瞬間、突然の眩暈が彼を襲った。
「……なんだ、これ……?」
(……せ……ここ……か……ら……)
頭の奥で、かすかな声が響いた。
誰のものかも分からない、微かな囁き。
だが次の瞬間には消え、眩暈も収まる。
「……疲れてるだけ、だな。寝よう……」
ライズは小さく息をつき、寝室へ向かった。
そのとき――寝床の布団が、わずかに動いた。
「クラウダ? 起きてたのか?」
「うん……。僕、精一杯頑張るから。無理しないでね、お兄ちゃん」
「……ああ。ありがとう」
ライズは穏やかに微笑み、灯りを消した。
静寂の中、クラウダは天井を見つめながら、胸のざわめきを抑えられずにいた。
暗い。
暗い闇の中、僕は立っていた。
何も見えない。何も聞こえない。
ただ、不安だけが膨らんでいく――。
「ここは……どこ……?」
呟いた声は、すぐに闇に飲み込まれた。
寒い。
体を擦っても、まるで氷の中に閉じ込められたようだ。
(僕は……なんでここにいるんだろう)
その時、かすかな声が耳を掠めた。
「……俺を……ここから……」
低い、男の声。
聞こえた瞬間、背筋が凍りつく。
「誰……?」
答えはない。
代わりに、闇が揺らぎ――伸ばした手を、何かが掴んだ。
ヒヤリとした冷たい感触。
それは液体のように形を変え、やがて人の手になった。
「えっ……?」
もがく僕の体を、背後から強く抱き締めるように捕らえる。
「クク……捕まえた」
低く嗤う声。
見知らぬ男の腕に、僕は完全に囚われた。
「離せよ!!」
「誰が離すか。やっと自由になれるんだ……この時を、三百年も待ってたんでなぁ」
「自由……?」
言葉の意味が分からない。
でも、男の口調から滲む“邪悪”が、全身を震わせた。
「クラウダを離せっ!!」
振り返ると、ライズがこちらへ走ってきていた。
兄の手が男の体に触れた瞬間――ズブリ、と沈む。
まるで沼に手を突っ込んだように。
「なんだよ、これ……!」
「クク……無駄だよ」
男は楽しそうに笑い、クラウダを胸元に押し当てる。
その体が液化し、弟の半身が沈み込んでいった。
「や、やだ……!」
「止めろッ!! クラウダをどうするつもりだ!」
「喰うのさ」
短い一言。
それだけで、ライズの顔から血の気が引いた。
「やめてくれ……お願いだ……!」
男はニヤリと笑い、気を失ったクラウダを引きずり出す。
そして、ライズの目の前に立つ。
「弟を助けたいか? お兄ちゃんよ。……だったら、こいつの代わりに喰われるか?」
「クラウダを……助けてくれるんだな?」
「ああ。お前の方が“使えそう”だからな」
ライズは一瞬だけ弟を見つめ、頷いた。
「分かった……俺が代わりになる」
「クク……そうこなくっちゃなぁ」
黒い液体が足元から広がり、ライズの体を包み込む。
その瞬間、クラウダは薄れゆく意識の中で兄の声を聞いた。
(ごめんな……クラウダ……)
そして――闇に、飲み込まれた。




