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少し前にも1話投稿してます。
「皇雅さん」
「誠くん!」
茜と同時に呼んだ名前は別々の人で。
驚きに目を丸くして茜を見ると、茜が立ち上がってマコさんに駆け寄っていく。
マコさんの左手を両手で握った茜は、聞いたこともないほど甘やかな声を出した。
「誠くんももしかしてお姉ちゃんに何か言われてここに来たの? あのね、違うんだよ。お姉ちゃんっていつも茜のこと悪く言うの、だから――」
「突然お邪魔して申し訳ありません。此方の方は山前院皇雅様、私は藍崎誠と申します。どうもお時間が掛かっているようなので、私共が助けになれればと思い伺いました」
あんな声で話しかけられたのに、マコさんは一度も茜を見ずに、先生達に綺麗にお辞儀をした。
その様子に一瞬迷ったように校長先生を見た田所先生が、マコさんに話しかける。
「あの、藍崎さん。澤木さんのお知り合いのようですが、今は少し込み入った話をしていまして。部外者は外して欲しいのですが」
「存じ上げております。ですがこのままですと無駄な時間だけが過ぎてしまいそうですので、私に少し時間を頂けますか?」
「は?」
口を開けて困惑している田所先生に微笑むと、マコさんは自分を見つめる茜に視線を向けた。
たったそれだけで、茜の頬が赤く染まる。
「茜さん、以前僕が話した事を覚えていますか?」
「勿論っ。茜、誠くんと話したことなら全部覚えてるよ!」
「それは良かった。なら僕の好きなタイプを教えた時の事も?」
「うふふっ、忘れてないよ~。あれでしょ。ちょっとバカな子!」
二人の会話に、室内にいる人達が顔を見合わせる。突然入ってきて、まったく関係ない話を始められたらだいたいこんな空気になるだろう。
私も何がなんだか分からずに皇雅さんに視線を向けると、彼は真っ直ぐ私を見ていた。
険しい目に引き結んだ口元。不機嫌なんだろうかと思えるその表情は、私を心配してくれているからだと知っている。
今すぐ全部ほっぽいて、皇雅さんの腕の中に飛び込みたい。
私がそんな衝動と闘っていると、室内にマコさんの冷たい声が響いた。
「ええ、僕はバカな子はどうしようもないほど愛しいのですが、愚か者はこの世で一番嫌いなんです。特に貴女のような女という性を最大に使い、自らを過大評価している人の皮を被った獣がね」
「え? 誠く……」
背筋が凍るほど綺麗な微笑みを浮かべたマコさんが、「いい加減離してもらえますか。気分が悪いので」という言葉とは裏腹に、とても丁寧に茜の手を自分から離した。
「誠くん? 嘘だよね? だっていつも優しくしてくれた! 会いに来てくれて嬉しいって笑ってくれたじゃない! いつも、いつも私の話を聞いてくれてっ」
「貴女が愚かな勘違いで僕に会いに来ているうちは、皇雅さんが煩わされる事はないと思っていましたからね。手をうつ前に雪菜ちゃんに誤解を与えてしまって……雪菜ちゃん、対応が遅れてすみませんでした」
「あ……え……ご、ごめんなさい。今ちょっと頭が追い付かなくて」
「ふふ、なら後でゆっくり説明しますね」
私に向かってニッコリ微笑むのはいつものマコさんなのに、なんで背筋がざわざわするんだろう。
「そっか。誠くん、ちょっと怒ってるだけなんだよね?」
無理やり笑顔を浮かべた茜が、もう一度マコさんに触れようと伸ばした手は、マコさんにじっと見られたことで空中で止まる。
「あの、ごめんね。少し、少しやり過ぎちゃったかも。ちょっとお姉ちゃんとケンカしてふざけただけなの」
「子供の悪戯ですむことではないと、それすら言われないと分かりませんか? だから愚かだというのです」
「誠くん……やだ、やだよ。なんでそんな目で私を見るの……?」
表情を消したマコさんに見つめられ、茜は愕然とした様子で立ち尽くす。二人の様子に戸惑い、誰も動けずにいるなか、ふらりと立ち上がった母が、ゆっくりとマコさんのもとに歩いていった。
「なんの話をしているの? どういうことです? 貴方、まさかそれと手を組んで、茜ちゃんをたぶらかしたのですか?」
「これはまた失礼なことを仰るご婦人ですね。勝手にウザったいほど僕の近くを彷徨いていたのはそこの人ですよ。こちらは迷惑を被ったほうなんですが?」
「……」
「なんて酷いことをっ!」
「酷い? 酷いことをしてきたのはそこの人では? 姉のものを盗るためなら、安い涙と体を大安売りしてきたのでしょう?」
「っ!」
目を見開いてマコさんを見つめる茜の頬に、一滴の涙が伝う。それは……今日初めての、茜の本物の涙だと感じた。
その姿に、胸がズキッと痛む。
「マコさん……」
「そんな糞ガキ共の手垢まみれの体の何が自慢なのかは知りませんが、いつまでも周りが自分をチヤホヤしてくれるとは思わないことです」
「マコさんもうっ」
「何ですかあなた! 急にやって来て失礼なことばかり! 大丈夫よ、澤木さん。私はあなたの味方だから」
私がマコさんを止めようと立ち上がると、それまで目を丸くして立っていた佐藤先生が、茜に駆け寄り、そのまま茜の肩を抱いてマコさんを睨んだ。
それを見て、少し呆然と固まっていた母も茜に寄り添う。
「愚かな子供の次は愚かな母と教師ですか……。本当にいい加減にしてほしいですね。宇宙一温厚な僕でも我慢の限界というものはあるんですよ?」
「またふざけたことを!」
「それでは先生。あなたは何を根拠に、澤木茜を間違いの無い善と見たのですか?」
「何って」
「そうですねぇ……。大学を出て教師になったのはいいが、生徒に嫌われたくなくて叱ることも注意することも出来ずに、いい顔ばかりしていた結果、生徒に舐められて馬鹿にされる日々。何とかしたいが今更どう接したらいいのかわからない。そんな中自分を慕い悩みを打ち明けてくれる生徒が現れた。そして次第に彼女から『先生』と頼られることに快感と執着を覚えた……まさかそんな陳腐な理由からではないですよね?」
「……」
マコさんの言葉に、佐藤先生は顔色を悪くして俯く。すると佐藤先生への興味をなくしたのか、マコさんが母に視線を移した。
「多少は貴女に同情もしますが、弱すぎる母親は子供にとって害でしかありません」
「何を……?」
眉を寄せる母からも視線を外し、今だマコさんを見つめている茜に向き直る。
「君は可哀想な自分を嘆いていましたが、この世の中に一度も辛いことが無い人間などいるわけないでしょう? 誰よりも自分が可哀想だと思っているうちは、君が本当に欲しかったものを手にすることはないでしょうね」
「いい加減にしてください! 茜ちゃんが何をしたというのっ。本当にあれと関わるとろくなことがない。 もういいでしょう、先生。私は伝えることは伝えました。それの処分はお好きにどうぞ。私達は失礼します」
そう言うなり茜の背を押す母に、それまでずっと黙っていた皇雅さんが声をかけた。
「ああ、帰る前に一ついいだろうか」
「貴方は? この方と同じように訳の解らないことを仰りたいの?」
「いや。ただ、貴女に感謝を」
「え?」
「雪菜を産んでくれたことに心からの感謝を。おかげで私は彼女と出逢い、彼女を愛することが出来たのだから」
皇雅さんの言葉に、呆然としていた茜がはっと彼に視線を向ける。驚愕に見開かれた瞳で皇雅さんを見る茜は、何かを呟いていた。
隣にいる母は、眉を寄せ不愉快そうに皇雅さんを見返す。
「何を言うのかと思えば……、それを産んだ事を感謝したいのなら、それは私の妹にでも仰ればよろしいわ」
「いや、貴女で間違いない」
「ですから私は……わたし……っ、茜ちゃん、帰りましょう」
もともと肌が白い人だからだろうか。真っ青になったその顔色は、今にも倒れてしまいそうだ。それでも母は茜に微笑みかけ、田所先生が止める声を無視して部屋を出ていった。
シンと静まり返る部屋の中、校長先生がわざとらしい咳払いをする。
「詳しい話は聞けなかったが、取り敢えず澤木さん、今日は帰っていいですよ。彼女の口振りでは、煙草の件は君は被害者のようだし。ただ一年の澤木さんにもう一度話を聞いてから、また君にも聞くことがあるかもしれないから、その時はまた来てください」
「はい……」
疲れたように溜め息をついている校長先生と、まだ俯いたままの佐藤先生を残して、私達は校長室をあとにした。
マコさんの車に戻った私達は、来たときと同じようにお兄ちゃんが助手席、私と皇雅さんが後部座席に座る。
重苦しい空気に耐えられずに、意識して明るい声で皇雅さんに聞いた。
「皇雅さん、どうして急に母にあんなこと言ったんですが? 嬉しいですけど、照れちゃいますよ」
「私としては、さっさと切り捨ててしまえばいいと思っていたが……君の中で、彼女はどうしても母なのだとわかったからな」
「え?」
「焦がれていると、君の視線が必死に訴えていたから」
「えぇ、何いってるんですか~。私もう高校生ですよ、そんな年じゃないですって」
両手を振って笑う私を、その手を引いて皇雅さんが腕の中に抱き込む。
そのまま温かい手のひらで頭を撫でられた私は、ズルズルと滑り、皇雅さんの太股に顔を伏せた。
彼のスーツを濡らしてしまう。それが分かっていても、私は今……顔をあげることが出来なかった。
一度も、あの人は今日、一度も私を見なかった。
今更こんなことでまだ私は泣けるのか。
……泣いてしまうのか。
包み込むような皇雅さんの腕の中、私はせめて、お兄ちゃん達に声が聞こえないようにと願った。
この時の私はまだ知らない。
お祖母さんとの約束の日、同席していた叔父さんに緊急の報せが届くことを。
母が自殺を図ったという、その内容を――
余談であるが……後日、マコさんは、もしかしたらとても怖い人なのかもしれないと呟く私に、ある人はこう言った。
『ええぇぇえー! 今更!? 今更気付いたの!? あの人はね、昔からそれはもう体の半分は罠で出来てますな人なんだよ! 人の嫌がる事が大好きで、人の泣き叫ぶ顔でそれはもう嬉しそうに笑う人なんだから! だいたい本当に良い人なら、幼馴染みに『ポチ』なんてアダ名つけないでしょうが。……え? じゃあ怒ってみたらって、そんな簡単に言わないでよ。そんなことしたら、超いい笑顔で罠をはる誠さんの行動しか想像できない! つまり俺がまた泣くはめになるんだよ! ……へ? あはははっ、俺が誠さんを嫌うわけないじゃん。だってあの人の半分は、優しさで出来ているんだから。それにあの人が苛めるのは、俺に構って欲しいサインなんだよ。ほ~んといつまで経っても子供で参っちゃうよな~って、あれ? 雪菜ちゃん、なんでそんなとこに。後ろ? 後ろって……す、スイマセンデシ、ぎゃ~~!!』