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第八話 : 声なき悪意

今回は、少しばかり文章が長くなってしまいました。

自分でも覚えがあるこのお話を書くことは、それなりに難産でした。

説明し足りないと思える部分につきましては、「幕間」で補足することになります。

 放課後の喧騒が満ちる廊下を、恵理は昇降口に向けて歩いていた。

 その後ろを航がゆっくりと、それでいて、恵理と歩調を僅かにあわせないよ

うにと歩く。

 それは、同じクラスに所属する二人が、いつもの「異界の団地」へ向かうた

めの静かなルーティンのようなものでもあった。


「おーい、宮瀬!」


 背後から響いた場違いなほど明るい声に、航は思わず肩をすくめた。

 振り返るより早く、陸上部のウインドブレーカーを着た長身が、航の首にぐ

いっと腕を回してくる。

 鈴村大介だ。


「お前、今日も帰んの早いのな! たまには付き合えよ。購買で新しいパンが

出たらしいから奢ってやる!」

「悪い、俺はこれから用事があるんだ。鈴村は早くグラウンドに行かないと、

顧問にまた雷落とされるぞ」

「平気平気! 今日から『インターハイで入賞しつつ、コンクールでも金賞を

獲る鈴村大介』の伝説が始まる予定だからな。いやー、それにしても宮瀬って

すげえよな。周りの目とか大人の声とかに全然流されない。ある意味、お前こ

そ天才だよ」


 鈴村はにかっと笑うと、「じゃあな、新城も!」と前を歩いている恵理に爽

やかに手を振り、嵐のように廊下の奥へと走り去っていった。

 その背中には、以前のような自暴自棄な影は微塵もない。

 二つの重圧を自ら背負い込んだことで、以前よりもずっと生き生きと輝いて

いるように見えた。

 航は小さくため息をつき、乱れた襟元を直す。


「……天才ね。あんなバケモノみたいなバイタリティを持ってる奴に言われた

くないよ。俺なんて、ただ波風立てるのが面倒なだけの、凡人だっての」


 自嘲気味に笑う航の横顔を、恵理は静かに見つめていた。


 凡人。

 航は自分のことをそう称して、枠の中に収まろうとする。

 けれど、恵理から見ればそれは少し違う。

 もし航が本当にただの凡人なら、あの異界に迷い込んだ雨の日、真っ先に恐

怖して逃げ出していたはずだ。

 誰もいない灰色の団地。常識が通じない世界。

 そんな異常な空間にあって、航は決して目を逸らさなかった。

 他人の痛みが形となって現れるあの場所で、決して慌てず、こうして今日も

当たり前のように一緒の場所を目指してくれる。

 それは、目立つ才能とは違うかもしれない。

 けれど、決して誰にでも持てるものではない静かで確かな「強さ」だと、恵

理は思っていた。

 その想いが、普通の高校生が思う「恋」と呼べるものかはまだわからない。

 ただ、その揺るぎない彼の在り方が、恵理にとってはひどく心地よいものだ

った。


 学校を離れ、団地へと至る道を歩く頃には、航は恵理と並んで歩いていた。


「鈴村くんのお誘いは良かったの? 少しくらい遅くなっても、あっちでは時

間は進まないから大丈夫だよ?」

「無理強いはされないから、問題ない」


 恵理は、航の横顔を肩越しに見上げる。

 

「……宮瀬くんは、凡人なんかじゃないよ」

「え?」

「ううん、なんでもない。行こっか」


 恵理は小さく微笑み、少し足を早める。


 あおぞら公園の「傘のベンチ」を抜け、二人は再び異界の団地へと足を踏み

入れた。

 いつものように、水底のような静けさと灰色の空が、二人を包み込む。

 しかし、今日の団地はどこか様子が違った。


ざざざざざ……。


 静かなはずの世界では、微細な音が耳につく。

 それは、テレビの砂嵐を極限まで小さくしたような、耳障りでまとわりつく

ような音。

 二人が音のする二十六号棟の入り口へ向かうと、そこには異様な光景が広が

っていた。


「なんだよ、これ……」


 航が思わず息を呑む。

 一階の薄暗い通路。

 その奥にある鉄の扉に向かって、無数の「黒い文字」が蠢いていた。

 インクが空中に浮かび上がったような、形の崩れた文字の群れ。

 それらは意思を持っているかのように壁を這い、扉の隙間にみっちりとへば

りつき、黒いヘドロのような塊となってその部屋を外から完全に封鎖しようと

している。

 文字の破片から感じるのは、悪意そのものだった。


『キモい』『調子乗ってる』『裏切り者』『早く消えればいいのに』。


 宙を這うように蠢く無数の文字を見上げながら、航は顔をしかめた。


「もしかして……SNSか何かの書き込みか? こう、直接殴る蹴るとかじゃ

なくって、離れたところから石を投げつけてるみたいな」

「……たぶん。悪意の塊が、こうやって現れているみたい、だね」


 恵理は痛ましそうに目を細め、その蠢く黒い塊を見つめた。


「こういうのって、殴られた痣が残るわけじゃないから、大人に相談しても、

『スマホを見なければいい』とか『気にしなきゃいい』で片付けられちゃうも

のだよね……」

「気にしなきゃいいって……。これを気にしないなんて、無理だろ?」

「うん、無理だと思う。当事者にすれば、自分のいる世界そのものが真っ黒に

塗りつぶされるのと同じだから。やっとの思いでSOSを出しても、誰にも相

手にしてもらえない。その行き場をなくした痛みが、この団地に流れ着いて

今、こんな状態になっているのだと思う」


 恵理の言葉に、航は黙り込む。

 物理的な暴力なら、大人は動く。

 だが、SNSの陰湿な暴力は「電源を切れば終わるもの」として小さく見ら

れがちだ。しかし当事者にとって、一度浴びせられた悪い言葉は、スマホの画

面を閉じても脳裏にこびりついて離れない。

 否定され、放置され、誰にも理解されない孤独と絶望が、この異界の団地

で、特定の部屋を物理的に塞ぐほどの呪いとなって現れているのだ。


ドスン!

 

 黒い文字に覆われた鉄の扉の向こうから、鈍い音が響く。

 部屋の中に誰かがいる。この痛みの持ち主が、あの悪意の中に閉じ込められ

て、うずくまっているのだろう。


 航は静かに一歩を踏み出し、蠢く文字の塊を見据えた。


「……新城。明日、こいつの持ち主を探そう。学校中探して、この悪意をぶつ

けられてる奴を見つける」

「宮瀬くん。見つけて、どうするの?」

「どうするって……大人が『たかがネット』って言って見過ごすなら、俺たち

がなんとかするしかないだろ」


 航の不器用でまっすぐな言葉に、恵理はふっと柔らかく微笑んだ。

 やっぱりこの人は凡人なんかじゃない。誰もいない暗闇で泣いている誰かの

ために、迷わず泥の中に手をつっこめる人だ。


「……うん。でも一人じゃないよ。一緒に探そう?」


 恵理が隣に並び、まっすぐに前を向く。


「でもなぁ、この悪意をぶつけられてる奴を探すって言っても……。全校生徒

をしらみつぶしに観察するなんて無理な話だし」

「うん……。でも、この『異界』の形にはちゃんと意味があるはずだよ。この

状況が、ただ無作為にこの部屋を選んでいるとは思えないから」


 恵理の言葉に、航はハッとして目の前の扉を見た。


「現実世界でも、この『二十六号棟の一階の奥の部屋』になんらかの繋がりが

あるってことか?」

「確かめてみる価値は、あると思うよ」


 二人は「傘のベンチ」をくぐり、灰色の空から夕焼けが差し込む現実の世界

へと戻る。

 あらためて見上げる現実の武山団地は、異界のそれとは違い、生活感と老朽

化がないまぜになった姿をしていた。

 二人は足早に、現実の二十六号棟へと向かう。


 しかし建物の前まで来て、二人は足を止めた。

 一階の入り口はトラ柄のガードフェンスで覆われ、その前に無機質な看板が

立て掛けられていたのだ。


『一部区画・解体工事予定につき立入禁止』


「……解体?」


 航が小さく呟く。

 老朽化が進んで転居が始まっているとはいえ、具体的な取り壊しの計画が出

ていることまでは知らなかったのだ。

 

「この棟全体が立入禁止になってるってことは、一階の奥の部屋はもう誰も住

んでいないんだね」

「ああ。だが、誰かがこっそり出入りしている形跡があるぞ」


 航は、ガードフェンスを指さした。

 積もった砂埃の上に、まだ新しいローファーの足跡が、奥の通路へと続いて

いるのが見て取れる。

 横並びにされているフェンスのひとつが、よく見るときちんと針金で縛られ

ていないのだ。簡単に取れるよう、軽く引っかけてあるだけになっている。

 二人は顔を見合わせたあと、どちらからともなく頷き合う。

 そして、フェンスの針金を外して中へと滑り込むと、暗い一階の通路に踏み

込んでいった。


 目的の部屋へと近づき、冷たいコンクリートの床を踏みしめた瞬間だった。


「……っ」


 恵理が不意に頭を抱え、その場にしゃがみ込んだ。


「新城? どうした」

「わか、らない……急に、耳鳴りが……っ」


 航が恵理を支えようと手を伸ばした瞬間、航自身の視界も大きくぐらりと揺

れる。

 

ザザザッ。

 

 頭の奥で、テレビの砂嵐のような音が響く。

 夕焼けのオレンジ色に染まっていたはずの廊下の景色が一瞬、あの水底のよ

うな「コンクリートの灰色」に変わる。

 現実と異界の景色がチカチカと色彩を変え、重なり合う。

 同時に、足元のコンクリートが微かに振動し、どこか遠くから「子どもの泣

き声」が聞こえた気がした。


「……なんだ、今の」


 航は無意識に、恵理の手を強く握りしめていた。

 数秒のめまいの後、視界は再び現実の夕焼け色へと戻っていたが、二人の胸

は早鐘を打っていた。


「宮瀬くん……私たち、今……」

「ああ。現実の団地とあっちの団地が、一瞬混ざったみたいだったな」


 航は、全身に冷や汗をかいているのを自覚していた。

 もしかして、自分たち二人が「現実の団地の深部」に足を踏み入れたこと

が、あの異界に何らかの影響を与えてしまったのだろうか。

 何かを置き忘れてきたような、ひどく息苦しい感覚が、航の胸の奥をざわつ

かせていた。


 それでも、嫌な気持ちを振り払うように、航は現実の「一階の奥の部屋」の

前に立つ。

 錆びついた鉄の扉。異界で黒いヘドロに覆われていたその場所の足元には、

破り捨てられたであろう数枚の紙の切れ端が落ちていた。

 航はそれを拾い上げ、皺を伸ばす。


「これ、原稿用紙か……?」


 恵理も、航の肩越しにそれを覗き込む。

 そこに並んでいたのは、マス目を埋める几帳面な文字で綴られた小説の文章

のようだった。しかしその内容は、ところどころ抜け落ちていて、はっきりと

は読み取れなかった。


「文章を書いた本人が破り捨てたか、それとも破かれたか……」


 航が顔をしかめていると、恵理が痛ましいものを見るように原稿用紙を見つ

め、短く息を呑んだ。


「私、この字に心当たりがある」

「知ってるのか?」

「うん。図書委員の、新田さんだと思う」


 図書室の常連である恵理の言葉に、確信めいた響きがあった。


「新田さん、最近文芸コンクールで大きな賞を取ったの。でも、それから少し

様子がおかしくて……。きっと、賞を取ったことで誰かに妬まれて、ネットか

何かでひどい言葉をぶつけられてるんだと思う」


 匿名の悪意。言葉を紡ぐ人間に対して、言葉の暴力を浴びせる。

 それが彼女自身を、自分の紡いだ文章を黒く塗り潰してしまうまで、追い詰

めているのではないか。


「でも、なんで新田さんがこの団地の空き部屋に?」

「それはまだ、わからないけど」

 

 異界で扉を塞いでいた黒い文字の塊。

 現実の空き部屋に捨てられた、黒く塗り潰された原稿用紙。

 そして、先ほど感じた、現実と異界の境界線が崩れるような不気味な揺ら

ぎ。

 ばらばらだったピースが繋がったように思える。

 航は、紙切れをポケットにねじ込んだ。


「明日、昼休みに図書室へ行こう。その新田さん?の様子を確かめないとだ

な」


◆

 

 翌日の昼休み。

 航と恵理は、図書室の入り口から、一人の女子生徒に視線を送っていた。

 図書委員の新田葵(にったあおい)。

 普段から口数が少なく、教室の隅で文庫本を読んでいるような大人しい生徒

だ。だが、今日の彼女は本を開くこともなく、ひたすらスマートフォンを見つ

め、爪を噛むようにして青ざめている。

 二人は意を決して、図書室へと入っていく。

 

「……新田さん」


 恵理が静かに声をかけると、新田は弾かれたように跳ね起き、あわててスマ

ートフォンを胸に抱え込む。

 青ざめた顔に、充血した目。

 呼吸は浅く、指先は小刻みに震えている。


「あ……新城、さん。み、宮瀬くん、も……何……ですか?」

「新田、お前、最近まともに飯食ってないのじゃないか? 顔色がひどいぞ」


 航がそう言いながら一歩踏み出すと、新田は悲鳴に近い声を上げて後ずさっ

た。


「来ないで! お願いだから、私に関わらないで……!」

「新田さん、私たちは」

「放っておいてください!」


 図書室の静寂を切り裂くような新田の叫び声に、周囲の棚から数人の生徒が

不審そうに視線を向けてくる。それでも新田は顔を歪め、涙で視界を濡らしな

がら叫び続ける。


「私に関わったら、新城さんも巻き込まれる……! 『賞を取った気取った

女』って、裏掲示板に私の写真も上がってるの! 盗作だとか、先生に媚び売

ったとか、嘘ばかり書かれて……! 警察も先生も『見なきゃいい』で終わり

だった! 騒ぎになったら、もっとひどいこと書かれるんだよ……お願いだか

ら、あっちに行って……。ひとりにして……」


 血の気の引いた顔で懇願するように叫ぶと、新田は抱え込んだスマホを落と

しそうになりながら、渡り廊下の奥へと走り去ろうとした。

 航はその場に立ち尽くす。

 他人が安易に首を突っ込んで解決するほど、この悪意は甘くない。

 言葉を紡ぐことを愛していた少女が、その言葉によって存在を否定され、呼

吸の仕方さえ忘れてしまっている。


 しかし、走り去ろうとする新田の前に、突如、大きな影が立ちはだかった。


「おっと、どこ行くんだよ、新田」


 鈴村だった。

 長身の体を壁のようにして、逃げ道をふわりと塞ぐ。


「す、鈴村くん……? なんで……どいてよ!」

「まあ落ち着けって。そんなに怯えなくても、誰も減らず口叩くネットのバカ

どもの味方なんかしてねえよ」

「……あなたたち、やっぱり何か厄介事に首を突っ込もうとしていたのね」


 鈴村の後ろから、腕を組んだ長谷川が静かな足取りで現れた。

 眼鏡の奥の瞳が、冷静に新田を見つめている。


「長谷川……鈴村まで、なんでここに」

「たまたま通りかかったわけじゃないわよ、宮瀬くん」


 長谷川は探るような、それでいてどこか面白がるような目を航と恵理に向け

た。


「宮瀬くんと新城さんって、時々、私たちには見えない『別の世界』を見てる

みたいな顔をするわよね」


 その言葉に、航と恵理は、大きく息を呑んだ。


 鈴村も、長谷川の言葉に大きく頷く。


「わかる。なんていうかさ、お前ら二人だけの秘密基地があるっていうか。俺

も前、宮瀬にすげえ変な言い当てられ方したし。俺たちには見えない何かが見

えてるだろ、お前ら」

「……気のせいだよ」


 航が目を逸らしてごまかそうとするが、長谷川はふふっと笑って一歩距離を

詰めてきた。


「いいわ。無理に聞き出そうとは思わない。誰にでも一つや二つ、大切な秘密

はあるものだから。……でも、あなたたちが見ているそれが、新田さんの抱え

てる問題なら私も手を貸すわよ。委員長としてね」


 長谷川の言葉に、航と恵理は顔を見合わせた。

 彼らには「異界の団地」という決定的な秘密を明かすことはできない。だ

が、現実の世界で新田を助け出すには、自分たちだけの力では足りないかもし

れない。

 

 長谷川は新田に向き直ると、淡々とした口調で告げた。


「新田さん。あなたが文芸コンクールで新人賞を取った先月から、校内の裏掲

示板と匿名のSNSアカウントで、あなたに対する特定の誹謗中傷が急増して

いたわ。私、クラス委員長としてネットのログを追っていたの」

「え……?」

「大人が『見なきゃいい』で済ませようとするのは、対処の手順を知らない怠

慢よ。言葉の暴力を放置して、被害者に我慢を強いるなんて論外だわ」


 長谷川は手提げかばんから、ずっしりと重みのある一冊の透明クリアファイ

ルを取り出した。


「この数日間で、あなたに対して投稿された悪質な書き込み、タイムスタン

プ、該当URL、そしてIPアドレスの推移ログを全てスクショして整理して

おいたわ」

「え……あ、れ……?」


 新田は呆然とファイルを見つめた。

 そこには、彼女を追い詰めていた悪意の言葉たちが、徹底的に分析され、分

類され、ただの「証拠資料」として無機質に並べられていた。


「これを持って、放課後、私と鈴村くんとで副校長と生活指導の水原先生のと

ころへ行くわ。学校の法務弁護士を通じたプロバイダへの発信者情報開示請

求、および警察への被害届提出を即時に行わせる。もし拒否するなら、教育委

員会とPTA本部に直接持ち込むと伝えるわ」


 長谷川の不敵で圧倒的な言葉に、新田は言葉を失った。

 そこへ、鈴村がにかっと笑って新田の頭をポンと叩いた。


「俺さ、新田が賞取ったあの小説、図書室で読んだぞ。陸上ばっかやってる俺

には難しいことはわかんねえけど……なんか胸が熱くなって、すげえカッコい

いなって思ったんだよ。だからさ、顔も隠して陰口叩いてるようなコソコソ野

郎に、お前が負けて折れるの、めちゃくちゃ腹立つんだよな」

「鈴村、くん……」

「お前は、一人で抱え込む必要なんて、ねえんだよ」


 新田の指先から、ポロポロと涙がこぼれ落ちる。

 航は静かに歩み寄ると、新田が血の滲むほど強く握りしめていたスマートフ

ォンの上に、自分の手を重ねた。


「新田。電源を切れ」

「え……?」

「見ないと怖いのはわかる。でもお前は今、わざわざ自分から毒を飲みに行っ

てるのと同じだ。画面を閉じろ。その文字は、お前の世界じゃない」


 航はそう言って、新田のスマホの電源ボタンを長押しする。

 画面に映り込んでいた文字が消え、スマホが鈍い電子音を立てた後、沈黙し

た。

 そして、恵理が新田の隣に立ち、その背中をそっと優しく撫でた。


「二十六号棟の空き部屋で、破られた原稿用紙を見たよ。……痛かったよね、

辛かったよね? 自分が大好きで書いてきた言葉を、自分で切り刻むくらいだ

もの」

「新城、さん……なんで、あの部屋を……覚えて?」

「新田さんの書く言葉は、誰かを傷つけるためのものじゃないよ。だから、も

う逃げなくていいんだよ? 痛いときは『痛い』って、助けてほしいときは

『助けて』って、言ってくれていいんだよ」


 新田の中で、ずっと一人で耐え続けていた孤独と恐怖が、崩壊していく。


「う……うわああぁぁん……っ! 怖かった……っ! 怖かったよぉ……っ!」


 黒い画面のスマホを抱きしめ、恵理にすがりつくように、新田は子どものよ

うに声を上げて泣きじゃくった。

 長谷川はフンと鼻を鳴らして眼鏡の枠を押し上げ、鈴村はよしよしと優しく

新田の背中を叩いた。


 航は静かに息を吐き、自分の手のひらを見つめた。

 自分には特別な才能も、長谷川のような鮮やかな解決策もない。

 けれど、泥臭く手を伸ばし、仲間の背中を押すことだけはできたのだと。


◆

 

 翌日の放課後。


 航と恵理は、あおぞら公園の「傘のベンチ」をくぐり、再び異界の武山団地

へと足を踏み入れた。

 いつものような水底のような静けさと、灰色の空がそこにはある。


 二十六号棟の一階。

 奥にある鉄の扉をみっちりと塞ぎ、呪いのように蠢いていたあの「黒い文

字」は、まるで水分を失ったかのようにボロボロと乾燥し、灰となって崩れ落

ちていた。

 やがて最後の塊が風に吹かれて消滅すると、固く閉ざされていた錆びついた

鉄の扉が、ギィ……と微かな音を立てて静かに開く。


「開いたな」


航の言葉に、恵理は静かに頷いた。


「うん。これで、彼女も息ができるようになるね」


 開け放たれた薄暗い玄関口から漂う、古いコンクリートと微かな埃の匂い。

 恵理は航を横目に見ると、少しだけためらいを見せ、やがて思い切ったよう

に口を開いた。


「あのね、宮瀬くん。私、図書室で新田さん本人から聞いたことがあるんだけ

ど……彼女、昔この団地に住んでいたんだって」

「……この、二十六号棟の奥の部屋にか」

「うん」


 航がわずかに驚いたように目を向ける中、恵理は視線を再び錆びついた扉へ

と戻す。昼間でも薄暗く、ひっそりとしたこの場所が、かつての彼女の日常だ

ったのだ。


「小説の展開に詰まったりひどく悩んだりした時は、今でもこの部屋に来るこ

とがあるんだって」


 恵理のぽつりとした声が、異界の団地の廊下に、静かに吸い込まれていく。


「ここの管理人のおじいさんとも昔なじみでね。だから、彼女がここの鍵を持

っていることは、こっそり黙認してもらってるって……」


 静まり返った薄暗い室内。

 決して華やかでも、特別美しいわけでもない空間。

 けれど、押しつぶされそうな重圧から逃れ、ふっと息を吐き出せる場所が、

彼女に取ってはここだったのだろう。

 かつての自分がいた、心安らぐ、居るべき場所。

 だからこそあの「黒い文字」は、現実の彼女が一番安心できるはずのこの逃

げ道を、徹底的に塞ごうとしていたのだろう。


「そうか。……なら、もうしばらくはここで、自分の言葉を書けるはずだ」


 そのあとのことは、彼女自身が決めることであろう。

 航は扉の向こうの暗がりの中を、孤独に言葉を紡ぎ続けていたであろう背中

があった場所を見つめる。

 そして、崩れ落ちた灰の残骸を見下ろす。

 自分たちはヒーローではない。

 長谷川の冷徹な知恵と、鈴村の真っ直ぐな勢いがなければ、新田の現状を変

えることはできなかった。

 それでも、この異界の団地で他人の痛みに触れることができる限り、自分た

ちは見て見ぬふりはしない。


 航が小さく息を吐き出すと、恵理も柔らかく微笑んで頷いた。


「長谷川さんも鈴村くんも、私たちのこと、すっかり怪しんでたね」


 恵理がくすくすと笑いながら言うと、航も苦笑した。


「あいつら、鋭いからな。いつか、この団地の話をしなきゃいけない日が来る

かもしれない」

「……うん。だけど」


 恵理は少しだけ首を横に振り、航の隣にその身を寄せる。


「この場所のことは、もう少しだけ、二人だけの秘密にしておきたい。……だ

めかな?」


 上目遣いに見上げてくる恵理の瞳に、航は少しだけドギマギしながら、わざ

とらしく咳払いをした。


「……ああ。そうだな。まだしばらくは、俺たちだけの秘密でいいさ」


 見えない悲鳴を救い上げた異界の団地には、今日も穏やかな灰色の時間が流

れていた。


次回は「幕間」です。

他の人は、どう見ていたか?

長谷川亜美の視点です。

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