第七話 : 雨の日の唄
この話も「幕間」にするか迷ったのですが、本編のお話とします。
数日後の放課後。
梅雨明け前の空は、気まぐれだった。
航と恵理は異界からでて、解散場所である商店街の入り口に向かっていた。
すると、重たい灰色の雲が急に空を覆いだし、大粒の雨がどちゃどちゃとア
スファルトを叩きはじめる。
「あ、降ってきちゃったね」
「新城。 とにかく、あの屋根の下まで走ろう!」
二人は鞄を頭に掲げ、商店街から一番近くの、団地の駐輪場へと駆け込ん
だ。
トタン屋根の下に入り込むと同時に、雨は視界を白く染めるほどの土砂降り
に変わっていった。
埃と雨の混ざった特有の匂いが立ち込める中、二人は肩で息をしながら並ん
で雨宿りをしていた。
古い自転車が身を寄せ合うように並ぶ薄暗い空間には、激しい雨音がトタン
屋根を叩く、暴力的な音だけが響いている。
まるで、ここだけが外の世界から切り離されたような、そんな風に思えてし
まう。
ふと、隣に立つ恵理の口から、小さなハミングが漏れた。
「雨粒みっつ、ブリキの屋根に……」
それに呼応するかのように、航の口が勝手に動いていた。
頭で考えるよりも早く、口がそのメロディを知っていた。
「隠れた猫は、どこへゆく……」
ばっ、と隣り合わせた二人の目が、お互いを正面から見つめる。
「……今の歌。新城は……知ってるのか?」
「……宮瀬くん。歌の続きを……どうして?」
誰も知らないであろう、奇妙で古い雨宿りの歌。
二人が口ずさんだメロディと歌詞は、不気味なほどに一致していた。
だが、その歌をいつ、どこで、誰から教えてもらったのか、二人とも全く思
い出せないでいる。
ジャングルジムの塗装。雨宿りの歌。
偶然で片付けるには、あまりにも重なる点があった。
自分たちの脳内に、身に覚えのない記憶が植え付けられているのではない
か。
そんな気味悪い想像が、航の背筋を這い上がってきた。
何か話そうとするのだが、上手く言葉にならない。
恵理はとみれば、航と同じように何を話していいか、わからないようだっ
た。
そうしているうちに雨が上がり、雲の隙間から西陽が差し込み、それが濡れ
たコンクリートを橙色に染めた。
だが、二人の間に落ちたる沈黙は、晴れなかった。
駐輪場の屋根から落ちる、ポタリポタリという雨の雫が、やけに大きく耳に
響く。
「……行こうか」
航が先にその静寂を破ると、恵理もほっとしたように小さく頷いた。
いつもは商店街を抜けて、解散場所まで歩いて行くだけの帰路。
しかし、さきほどの出来事に、航も恵理も、囚われてしまっていた。
(さっきの歌、どこで覚えたんだ?)
喉のすぐそこまで出かかった問いを、航はぐっと飲み込んだ。
もしそれを口から出してしまったら、自分たちがこれまで疑いもしなかった
「現実」や「過去」が、ガラガラと音を立てて崩れてしまう気がしたのだ。
ジャングルジムの剥げた赤ペンキ、自分しか知らないはずの雨宿りの歌。
偶然という言葉で片付けるには、あまりに重なりすぎている。
航は、隣を歩く恵理の様子を、視線の端で伺ってみる。
彼女もまた、制服の胸の部分を右手でぎゅっと握りしめたまま、うつむき加
減に歩いていた。
聞きたいことがあるのであろう、チラチラとこちらを見ては、航と目が合う
と慌てて視線を下に戻すのだ。口元がかすかに動くたび、何かを言おうとする
のだが言葉にならず、結局、小さくため息をついては飲み込んでしまう。
彼女も、同じなのだろう。
この不気味な一致について話し合いたい。胸の奥で渦巻く違和感を、確かめ
合いたい。
そんな焦燥感に苛まれながらも、その問いを投げかけることで、二人の関係
やこの世界の形が変わってしまうかもしれない恐怖に、足がすくんでいるの
だ。
解散場所である商店街のアーチが、少しずつ近づいてくる。
あそこへ着いてしまえば、いつも通り「じゃあ、また明日」と手を振り、別
れることとなる。
だが、この得体の知れないモヤモヤを抱えたまま、何事もなかったかのよう
に一人で家に帰ることなど、今の二人には到底できそうになかった。
答えが欲しい。けれど、それを言葉にする勇気が出ない。
互いに相手の出方を待つような重たい沈黙の中にいるうち、なぜか足がまっ
すぐに進まず、二人はなかば吸い寄せられるように、複雑に入り組んだ団地棟
と棟の間の小道へと、入り込んでいた。
濡れた道に反射する夕陽の光を踏みつけながら、二人は言葉少なに歩く。
濡れた木々や草花の匂いと、団地特有の湿ったコンクリートの匂いが、鼻を
つく。
「ねえ、宮瀬くん」
隣を歩いていた恵理が、ふと立ち止まった。
「あの歌はさ……」
恵理は自分の制服の胸の部分をぎゅっと握りしめ、何かを確かめるように空
を見上げた。
「私も今、思い出したわけじゃないの。ずっと前から、雨が降るたびに頭の中
で鳴ってたの。でも……一人で歌ってるんじゃなくて、誰かと交代で歌ってた
気がするの」
「誰かと? ……それは、俺とか?」
「ううん」
恵理は首を横に振った。
「違うの。二人じゃなくて……、たぶん三人」
「三人……?」
「『雨粒みっつ、ブリキの屋根に』と最初に私が歌って、『隠れた猫は、どこ
へゆく』って、続けて宮瀬くんが歌ったでしょ? でも、そのあとにもう一フ
レーズ、あった気がするの。その最後のフレーズを歌う『誰か』が、私たちと
一緒にいた気がするの」
ジャングルジム。雨宿りの歌。
確かに、二人だけで遊んでいた記憶としては、どこかに違和感があった。
ジャングルジムのある公園を通ったときも、このトタン屋根の下で雨宿りを
したときも、隣にもう一つ『余白』が空いていたのでは……。
「三人目、か」
航が呟く。
二人は団地の奥深く、使われなくなって久しい中央給水塔の広場へと足を踏
み入れていた。巨大なコンクリートの塔が、夕日を背に影を長く伸ばしてい
る。
「あ……」
恵理が小さな声を漏らす。
その給水塔の土台部分、ひび割れたコンクリートの陰に、何かが見えたの
だ。長年の雨風で半ば消えかけてはいるが、誰かの手によって書かれた落書き
が残っていた。
それは、稚拙な筆致で描かれた『三つの傘』の絵と、小さな文字が刻まれて
いた。
『あめがやんだら、またここで』
「これって……」
航は膝をつき、その消えかけた文字に目をこらす。
絵に描かれた三つの傘。そのうちの二つには、かすかに「わ」「え」の文字
が添えられていた。
そして、一番右側の傘の下の文字は判別できないほど削れ、ただの黒い傷と
なって残っていた。
「やっぱり……私たち、二人だけじゃなかったんだね」
恵理の声が震えていた。
「どうして忘れていたんだろう。……こんなに、大切なことなのに」
「新城、落ち着け。……ここに来た記憶って、あるか?」
恵理は青ざめた顔で首を振る。
「ない、と思う。……ないはずなのに、この落書きを見たとき、胸がぎゅっと
苦しくなった。ここで、誰かが待ってたような気がするの。私たちが来るの
を、ずっと……」
西陽が沈みかけ、団地の敷地の街灯が、ポツポツとオレンジ色の光を点灯さ
せ始めた。人工的な光が影を濃くし、見慣れた団地の風景はますます精巧にで
来たジオラマのように、その不気味さを増していくよう感じられた。
自分たちの記憶は、書き換えられたのだろうか。
それとも、何かの理由で忘れてしまったのだろうか?
あの三人目の存在と、一緒に。
二人はそれ以上言葉を交わすことができず、給水塔を後にして、ゆっくりと
商店街の出口へと戻っていく。
濡れたアスファルトを歩き、いつもの解散場所で足を止める。
「じゃあ、またな」
「うん。宮瀬くん、また明日」
お互いに軽く挨拶をして別れた後も、航の耳の奥ではあの奇妙な歌が、繰り
返し聞こえてくるようだった。
地球儀のジャングルジムで見つけた記憶の欠片。
駐輪場で重なった雨宿りの歌。
そして、給水塔の陰に残された三つの傘。
共有しているはずのない記憶が重なるたびに、胸の奥に広がるモヤモヤとし
た戸惑いは、ますますその輪郭を濃くしていく。
航は振り向き、夕闇に飲み込まれつつある団地群を見上げる。
その影のどこかで「三人目」はこちらを見つめ、二人の歌の「続き」を口ず
さんでいる。そして、俺たちの記憶から消えた今も、この団地のどこかで、俺
と新城が思い出すのをずっと待っている。
そんな幻覚に囚われてしまうようであった。




