第六話 : 残された足跡
連日のしとしと雨が、街全体を鉛色に濡らしていた。
放課後、濡れた傘をすぼめ、航と紗良はいつものようにあおぞら公園の「傘
のベンチ」の下へと滑り込む。
とぷん、と水の膜を突き破る感覚とともに雨音が消え去ると、いつもの灰色
の空と静けさが、二人を迎え入れてくれた。
しかしながら、異界の団地もまた、どこかしっとりと湿り気を帯びていた。
けれども、二人には雨の雫一つ降りかかってはこない。
水底に沈んだ街の底から、地上を見上げているような不思議な感覚に包まれ
ているかのようだった。
「……ねえ、宮瀬くん。あれ」
赤と青のタイルのサークルに入った恵理が、ぽつりと呟いて上空を指差す。
航は、その指先にあるものを見つけると、思わず息をのむ。
四十三号棟の、存在しないはずの六階と七階の外壁。
その地上十数メートルの高所の壁面いっぱいに、色鮮やかなインクで描かれ
た巨大なグラフィティアートが浮かび上がっていた。
それは、幾重にも重なる鋭い線と、毒々しくも美しい色彩で描かれた、羽を
広げた巨大な鳥をモチーフとしたものである。
読み取れない文字のアートも一緒に、夕闇の中でその生命力を主張するかの
ように鮮烈に輝いていた。
「すごいな……。どうやってあんなところに絵を描いたんだ?」
「誰かが描いたんじゃないと、思うよ」
恵理は、静かに首を横に振った。
「あれは、現実で『消された言葉』。……ううん、誰かの『切り捨てられた
夢』なんだと思う」
恵理の言葉に、航は頭の中ですぐにひとりの男子生徒の顔を浮かべた。
鈴村大介。
同じクラスに所属してはいるものの、航とは縁も関わりも少ない。
陸上部の短距離エースとしてインターハイ候補に名を連ね、同時に美術部で
も圧倒的な画力でコンクールを総なめにする、誰もが知る「輝かしい有名人」
だ。
だが、学校の大人たちは彼にこう迫っていた。「いつまでも二足のわらじは
許されない」「どちらか一つに絞れ」、と。
陸上をとるか、美術をとるか。
周囲の期待と重圧に板挟みになり、鈴村の表情はここ最近目に見えてすり減
っているように、少なくとも航にはそう、見えていた。
現実の学校では、波風を立てないように「良い生徒」を演じる。自分の本当
の情熱や叫びは、ゴミ箱に捨てて存在しなかったことにする。
けれど、その捨てられたはずの強い感情の影は消えてなくなるわけではな
い。こうして、誰も手が届かない異界の団地の高層階へと流れ着き、壁画とな
って、息づいているのだ。
「あんなに自由に飛びたいってこと、誰も知らないんだね」
恵理がぽつりと言った。
航はベンチに腰を下ろし、持っていた缶コーヒーのプルタブを開けた。
「鈴村、で間違いないよな」
「うん、きっとそうだね。自分の本当に進みたい道や表現したいものを、『甘
えだ』『一つにしろ』って大人は勝手に決めて、選ばせようとする。どちらか
を捨てなきゃいけないなんて、そんなの残酷すぎるよ」
恵理の言葉を聞きながら、航は缶コーヒーを一口飲み込む。
「……なぁ、新城」
「なに?」
「俺たちも、少し似てるのかもな」
「なにが?」
「あの絵だよ。学校での俺たちも、周りに合わせて笑ったり息を潜めたりして
すごしている。自分の本当の気持ちなんて、あそこでは出せないから。でも、
こうやって二人でここにいる時だけは、本当の自分として息ができている」
恵理は驚いたように目を丸くした後、柔らかく目を細めた。
「そうだね。私たちは、あの絵のように高所に隠れる必要はないけれど…
…ここではお互い、本当の言葉で話せているね」
航はもう一口缶コーヒーを飲むと、静かに高層階に描かれたその壁画を見上
げた。
現実の世界では押し殺され、切り捨てられてしまう感情たち。
けれどこの異界の団地では、それらは静かに優しく救い上げられている。
「……ねえ、宮瀬くん」
「ん?」
「いつかさ。この団地を出ても、自分の本当の気持ちをちゃんと現実に描ける
ようになれるかな」
「どうだろうな。でも、焦らなくていいんじゃないか? 二人でここにいられ
る間は、まだゆっくり探していられると思うから」
恵理は航の言葉に頷くと、そっと航の隣へ腰掛けた。
「ところで、前回の長谷川の時はお前が行ってくれたけど。今回は、俺が行く
べきなんだろうな」
航がぽつりとこぼすと、恵理はふわりと微笑んだ。
「うん、お願いしてもいいかな。男の子同士じゃないと言えない本音も、絶対
にあると思うし」
「でも、あんな有名人に、俺みたいな奴がどうやって近づくかだよな……」
「そこは私がサポートするね。実はね、」
恵理は少し得意げに声をひそめた。
「最近、委員長の長谷川さんが、ちょくちょく私に話しかけてくれるようにな
ったの。『今日もプリント重くなっちゃった』とか言って。だから、彼女にも
少し手伝ってもらって、鈴村くんが一人になるタイミングを作るよ」
「長谷川が? ……そっか、現実の教室でも、少しずつ変わってるんだな」
「うん。だから宮瀬くんも、現実のお友達、作ってみたら?」
からかうような恵理の言葉に、航は「面倒だな」と苦笑いして頭を掻いた。
翌日の放課後。
空はどんよりとした曇り空のままだったが、雨は上がっていた。
日直だった航は、教室のゴミ箱の袋をまとめるため、一人で校舎裏のゴミ捨
て場へと向かっていた。じめじめとした湿気が制服にまとわりつき、気分まで
重くなるような日だった。
ゴミ捨て場のフェンスに近づいた時、航は足を止める。
そこに先客がいたからだ。
それは、陸上部のウインドブレーカーを羽織った長身の背中。
鈴村大介だった。
彼は無言のまま、手に持っていた分厚いクロッキー帳と、絵の具のチューブ
が詰まった箱を、無造作に金属製の巨大な焼却炉の中へと放り投げている。
ドサリ、と重い音が航のいる場所にも届く。
乱暴に投げ捨てられたせいでクロッキー帳が開き、中からバラバラになった
数枚の紙が風に煽られ、航の足元へと舞い落ちてきた。
「……鈴村?」
思わず航が声をかけると、彼はビクッと肩を震わせ、振り返る。
爽やかな笑顔しか記憶にない彼の顔に、今は色濃い疲労と、どこか自暴自棄
な影が落ちているように思えた。
「確か、宮瀬だったか。……日直か?」
「ああ。ところで、これって」
航の視線が、地面に落ちた数枚の画用紙に吸い寄せられていた。
黒いペンで荒々しく描かれた「鳥」のデッサンが、そこには描かれている。
鋭い線と、力強い羽ばたき。
間違いない。昨日、異界の団地の壁面いっぱいに描かれていたあの巨大なグ
ラフィティアートの原型だ。
だが、そのデッサンの上には、自らを全否定するかのように、黒いペンでぐ
りぐりと乱暴な斜線が上書きされていた。
「もう、いらないんだよ。こんなの」
鈴村は自嘲気味に鼻で笑い、落ちた紙を握りつぶすかのように拾い集める。
「さっき、陸上部の顧問と美術部の顧問、両方に呼ばれてさ。そろそろ『遊
び』は終わりにして、身の振り方を決めろってよ。ようは、インターハイの強
化合宿に行くか、コンクールのためのアトリエ合宿に行くか。どっちか一つを
選べってさ」
「……」
「結局、二兎を追う者は一兎をも得ず、なんだよな。どっちも中途半端になる
くらいなら、まだ才能があるって言われてる陸上に絞るよ。絵なんて……所詮
はただの息抜きだったんだよ」
それは、自分自身に言い聞かせるような、ひどく虚ろな声だった。
普段の航なら、ここで「そうか、お前も大変だな」と適当な相槌を打って、
深く関わることは避けていただろう。他人の人生の選択に口を挟むほど、自分
は立派な人間ではないと、わかっているからだ。
だが、今の航の脳裏には、雨の異界で見たあの鮮烈な壁画が焼き付いてい
た。誰にも見られず、誰にも理解されないまま、切り捨てられようとしている
鈴村の本当の叫び。
あれを「ただの遊び」だなんて、絶対に嘘だ。
「……嘘つけよ」
航の口から、思わず低い声が漏れていた。
「え?」
「本当にただの遊びなら、どうしてあんなに力強い絵が描けるんだよ」
航は持っていたゴミ袋を地面に置き、自分の足元に落ちている鳥のデッサン
を拾い上げる。ぐちゃぐちゃに斜線が引かれていても、その鳥が持つ圧倒的な
生命力は隠しきれていない。
「二兎を追っちゃ駄目だなんて、誰が決めたんだ。大人が勝手に引いた線引き
に、お前が合わせる必要なんてないだろ」
「お前に何がわかるんだよ! 期待される側のプレッシャーなんて……!」
鈴村が声を荒らげる。
だが、航はひるむことなく、その目を見返した。
「俺にはわからないよ。俺は平凡で、誰からも期待なんてされてないからな」
「だったら……!」
「でも俺は、お前の描くこの鳥の絵が……すげえ好きだ」
航のまっすぐな言葉に、鈴村の言葉がピタリと止まった。
「昨日さ。夢を見たんだ」
航は、異界での出来事を形を変えて語る。
「誰もいない灰色の団地の高い壁いっぱいに、お前の描いたこの鳥が極彩色で
描かれていた。すごく綺麗で力強くて……でも、どこか窮屈そうだった。本当
はもっと高く、どこまでも飛んでいけるはずなのに、壁に縛り付けられて身動
きが取れないみたいな、そんな夢」
「俺の、絵が……」
「どちらかを捨てなきゃいけないなんて、そんなの残酷すぎる。両方抱えたま
ま、もがき苦しんだっていいじゃないか。そう、言いたかったんじゃないの
か?」
航は拾い上げたデッサンを、鈴村の胸に押し付けるように突き出す。
「お前の中のあの鳥、勝手に殺すなよ」
綺麗事ではない。解決策でもない。ただの身勝手な部外者の暴論だ。
けれど、静まり返った焼却炉の前で、鈴村はその言葉に撃たれたように立ち
尽くした。
結果を出すことを求められ、「効率よく成果を出すための選択」を強要され
てきた鈴村にとって、「泥まみれで両方抱えろ」という言葉は、誰からも与え
られなかった許しの言葉だった。
鈴村は、航を呆然と見つめていた。
学校カーストの底辺で息を潜めているはずのこの男が、なぜか全く自分に媚
びず、恐れず、どこか浮世離れした静かな瞳で自分を見据えている。その不思
議な空気が、鈴村の心から重しを外していた。
「……ふっ、あははっ!」
不意に、鈴村が笑い出した。
「なんだよそれ。無責任すぎるだろ、お前」
「悪かったな、凡人の戯言で」
「いや……最高だわ。そっか、両方泥まみれでやればいいのか。周りの大人は
発狂しそうだけどな」
鈴村は晴れやかな顔で笑うと歩み寄り、航の肩をバンと勢いよく叩いた。
「宮瀬、お前おもしろいな。よし、明日からお前、俺と一緒に昼飯食おうぜ」
「……は? いや、俺は一人で、」
「いいじゃないか! 今日から俺たち友達な!」
鈴村はそう言うと、ゴミ箱に捨てたクロッキー帳と絵の具の箱をさっさと拾
い集める。
「じゃあな」
鈴村は少しだけ照れくさそうに笑うと、汚れたクロッキー帳と道具箱を大事
そうに小脇に抱え、走り去っていく。
その背中は、さっきよりも軽くなったと、航には思えた。
「そんなおもしろいことがあったんだ?」
「おもしろいか? もらい事故みたいなものだぜ。おまけに恥ずかしいこと、
いっぱい言っちまったし……」
それに、と航は話を続ける。
「新城にサポートをお願いしたのに、無駄にしちゃったしなぁ」
「そこは気にしなくていいよ。宮瀬くんの頑張りで、鈴村くんの件はなんとか
なったんだし。長谷川さんにもそう話しておくね?」
航が鈴村と出会った後、いつものように団地の公園で恵理と合流し。
再び「傘のベンチ」をくぐって灰色の空が広がる異界の団地へ行った二人
は、揃って四十三号棟の壁面を見上げた。
「ああ……。あいつ、少しは息ができるようになったみたいだ。……おかげ
で、明日から面倒な奴に絡まれることになっちまったけどな」
「ふふっ、いいじゃない。宮瀬くんにできた、初めての賑やかなお友達」
げんなりした顔でため息をつく航を見て、恵理がたまらず声を上げて笑う。
「あ……」
恵理が小さく声を漏らす。
六階と七階の壁面いっぱいに描かれていた、あの毒々しくも痛切な鳥のグラ
フィティアート。それは、すっかり形と色を変えていた。
どぎついインクの色彩は穏やかで澄んだ青と白に変わり、壁に縛り付けられ
ていたような鋭い線は、今にも空へと羽ばたいていきそうな柔らかでしなやか
な翼へと変化していた。
そして、それらはやがて細かい光の粒子となって剥がれ落ち、灰色の空へと
溶けるように上っていくところだった。
壁面に捕らえられていた鳥は、灰色の空の下を、どこまでも高く跳ぼうとし
ている。
「……飛んでいったね」
恵理が、眩しいものを見るように目を細める。
「ああ。持ち主のところに戻ったんだよ。きっと」
誰かの切り捨てられた感情が漂着する、この異界の団地。
現実の歪みを少しだけ正すことで、この静かな箱庭は今日も優しい凪を保っ
ていられるのだろう。
航は隣で微笑む恵理の肩先の温もりを感じながら、鳥の絵が消え去った壁面
からゆっくりと視線を下ろした。
空に溶けていく光の粒子を見つめながら、恵理がふと思い出したように口を
開いた。
「そういえば昨日、長谷川さんが教えてくれたんだけど」
「ん?」
「鈴村くん、よく一人でこの武山団地の外周を走り込みしているんだって。息
が詰まりそうになったり、思い切り走りたい時は、いつも学校からここまで、
走りにきてたらしいよ」
航はそれを聞いて、大きく頷いた。
「ああ、なるほど……」
なぜ鈴村の絵が他の場所ではなく、この武山団地の壁に描かれたのか。
強い感情は、その人が思い入れのある場所、あるいは強い感情を抱いた場所
に留まる。現実の武山団地はただの古びた居住区かもしれないが、鈴村にとっ
ては、大人からの重圧に苦悩しながらも、必死にもがき、汗を流して走った場
所だったのだ。
だからこそ、彼の「切り捨てられかけた夢」は、この団地の異界に漂着した
のだろう。
切り捨てられかけた想いは、こうして再び本来の空へと羽ばたいていった。
異界の団地に沈む静けさは、行き場をなくした痛みを優しく包み込みなが
ら、現実を生きるためのささやかな勇気を、二人に与え続けていた。
本編・幕間と展開していきます。
それで、話数順にお読みいただければ幸いです。




