第三話 : 漂流する影
お話が、少しずつ動き始めます。
異界の団地で放課後を過ごすことは、二人にとって日常となっていた。
公園にある「傘のベンチ」。
そこに現れる青黒い穴を二人してくぐり抜けると、瞬間、水底のような静寂
に包まれる。そして、安全地帯である赤と青の幾何学模様のタイルでできたサ
ークル内へ入ると、耳障りな蝉の鳴き声や、教室でまとわりついていた息苦し
い現実が、ゆっくりと剥がれ落ちていくようだった。
灰色の空を見上げ一息つくと、航と恵理は、顔を見合わせて表情を緩めた。
狂気を見せつけてきた異界は、二人が揃っている限り、どこまでも凪いだ優
しい箱庭であり続けてくれているようだ。
その安心感が背中を押したのか、二人は少しずつ、この不可思議な空間のル
ールを検証し始めた。
最初は、ほんの些細な疑問からだった。
「本当に、時間は止まってるのかな?」
ある日、恵理が現実の公園で「傘のベンチ」の前に立ち止まり、自分の腕時
計と、そこから見える団地の商店街の大時計とを見比べた。
さらに商店街の向こうにある、交差点の信号機に目を向ける。
その信号が赤から青に変わる寸前、恵理は航の腕を取るとベンチの穴をくぐ
り抜けた。
そして青と赤のタイルの上にたどり着くとすぐ、恵理は腕時計を見る。
はたして、その秒針はピタリと止まっていた。
そのままそこで体感時間で十分ほど過ごし、再び扉をくぐって現実へ戻る
と、交差点の信号機はちょうど赤から青へと変わったところだった。
団地の大時計はと見れば、恵理の腕時計と同じ時間を指していた。
「やっぱり。ここにいる間、現実の時間は一秒も進んでいないんだね」
「まさに、現実から切り離された異界だな」
航の言葉に、恵理は真剣な表情で頷いた。
どれだけここに長居しても、現実の時間が進まないのなら、誰にも怪しまれ
ることはない。
検証は、異界の団地にも及んでいった。
二人は、互いの視野から決して外れないように気をつけながら異界の公園を
出る。お互いの距離がある程度離れてしまうと途端に空気を冷たく感じるよう
になり、あの這いずるような影の気配が団地の奥から滲み出してくる。
「離れちゃダメなんだ。やっぱり俺たちが二人でいることが、この空間を安定
させる条件なんだ」
「それって、どのくらいまでなら離れても大丈夫なのかな?」
恵理が航の袖を軽く引いて互いの距離を詰めると、歪みかけた空間はすぐに
元の静けさを取り戻す。
その後も、何回か離れたり近づいたりして、歪みが発生する間隔を繰り返し
検証した。その結果、二人が手を伸ばせば触れ合える程度であれば問題ないと
いうことがわかった。
「意外に離れられないんだな」
「うん。お互いの腰に、その長さの紐でも結びつけておこうか?」
ひとつひとつルールが検証されるたび、恵理の表情に柔らかな笑顔が見られ
るようになってきていた。
しかし、その探索が商店街の入っている建物の階段へと向かった時、二人の
足は途端に重くなる。
現実の武山団地は、どの棟も四階建てかせいぜい五階建てだ。だが、階段を
上っていくと、本来存在するはずのないその上の階へと続く踊り場が見えてき
たのだ。
階段の途中で、航は踏み出す足を止めた。
上から降りてくる空気は、一階や広場よりも明らかに冷たく、重い。
「新城。ここから上は、やめておいた方がいいかもしれない」
「うん……。現実の団地には、六階なんてないものね」
恵理も航の隣で、不安そうに階段の上を見上げていた。
二人でいれば空間が安定することは確かめられた。けれど、もしこの「あり
得ない階層」で空間が大きく歪んだらどうなるのか?
逃げ場のない狭い階段の途中で、あの黒い影に退路を塞がれたら?
そう考えると、背筋に冷たいものが走るのを抑えられなかった。
「引き返そう。無理して未知の場所に行く必要はないよ」
航がそう提案すると、恵理は小さく唇を噛み締め、階段の手すりに添えた手
にぎゅっと力を込めた。
「でも、……この異界の団地がどういう場所なのか、もっと知っておかないと
いけないと思う。もし何か危険な変化が起きた時、逃げることができなくなっ
ちゃうかもしれない」
恐怖はある。
けれど、ただ怯えて目を背けるのではなく、この箱庭の真実を確かめたいと
いう思いも、二人には共通していた。
「……じゃあ、絶対に無理はしないこと。少しでもヤバいと思ったら、すぐに
一階まで駆け下りること。いいね?」
「うん。約束する」
航は息を整えると、そっと恵理に手を差し伸べた。手を伸ばせば届く距離
を、確実に保つためだ。
恵理も嫌がることなく、その手をしっかりと握り返してきた。
二人は、互いの体温を感じ合いながら、一歩一歩、慎重に薄暗い階段を上っ
ていく。
そうして足を踏み入れた六階の外廊下は、異様な世界だった。
錆びついた廊下の柵の外側には、先ほどまで眼下に見えていた団地の並びの
一切が消え、見渡す限り灰色の雲海が、ただただ広がっている。
静けさは保たれていたが、一階とは根本的に異なり、張り詰めた緊張感が漂
っていた。
「……今のところは、大丈夫そうだな」
「うん。でも、空気の重さが全然違う……」
何か話していないと、気持ちが落ち付かない。
静かに息を吐きながら廊下を進むと、ふとに恵理が足を止めた。
「宮瀬くん、あれ……」
彼女が指差した先。
ある部屋のドアの前に、見覚えのある古びた学校の机がポツンと置かれてい
る。この灰色の世界の中で、それだけがひどく浮いて見えた。
机の上には、歪に膨れ上がったスクールバッグが乗せられており、その周囲
の空気が、泥のように重く沈み込んでいた。
微かにだが、教室で聞くような、粘り気のある低い雑音がそこから漏れ出し
ている。
「これは、うちの学校のスクバか……」
航は息を呑み、バッグの取っ手で揺れる、塗装の剥げたキャラクターのキー
ホルダーを見つめた。
少し昔に流行っていたドラマで、ヒロインがことあるごとにそれに話しかけ
て彼女の夢を叶えていったため、開運効果を求めて一時期はどこに行っても買
えなかった代物だ。
「たぶん、同じクラスの、委員長の長谷川のスクバだ」
誰かが面倒な仕事を押し付けても、彼女はいつも「いいよ、やっておくね」
と愛想よく笑って引き受けている姿を思い出す。
だが、最近の彼女は、ふとした瞬間にひどく寂しげな目を窓の外へ向けるこ
とがあった。
「長谷川さんの叫び、なのかも」
「叫び?」
航の言葉に頷きながら、恵理が痛ましいものを見るように目を伏せた。
「いい子でいなきゃいけない。誰の期待も裏切れない。全部投げ出してしまい
たい。知ってる?最近の長谷川さん、たまに寂しい目をして窓の外を見ること
があるんだよ。もちろん、私の思い込みかもしれないのだけど。……現実で誰
にも言えずに押し殺されたそんな強い痛みが、行き場を探しているうちに、こ
こに漂着しちゃったのかな」
これをこのまま放置すれば、あの恐ろしい黒い影たちを呼び寄せるかもしれ
ない。
この優しい姿の箱庭を守るためには、原因を取り除くしかなかった。
「現実に戻ろう、新城」
航は振り返った。
「長谷川の痛みを、少しでも軽くした方がいいと思う」
「うん、それはそう思うけど……。でも、どうすればいいいのかな?」
「ここではなんとも。だから、学校に戻ってみないか?」
慎重に階段を下りて公園へ戻ると、傘のベンチへ飛び込む。
境界の扉を抜け、蝉時雨と夏間近の熱気が漂う現実の「あおぞら公園」に戻
ってきた。
「長谷川さん、まだ学校にいるのかな?」
「まだ教室でなにか、仕事しているかもしれない。あいつなら先生の覚えがい
いから、たぶん下校時間を過ぎてもいる可能性はある」
航の言葉に恵理も頷き、二人は早足で公園の出口へと向かった。
しかし、公園を抜け、「蛇の道」へ入ったところで、航は足を止める。
「……あれ」
学校へ向かおうとしていた二人の視線の先。道の脇にある、今では枯れてし
まった紫陽花の植え込みに半分隠れるような古びたベンチに、見慣れた制服姿
があった。
下校時刻を過ぎてしまったことで、学校を追い出されたのであろう長谷川
は、道端のベンチに座り込んでいたようだった。
彼女は膝の上に乗せた厚みのあるプリント用紙を、眼鏡越しにじっと見つめ
ている。
その目は、六階の廊下で見たあの重たい空気と同じ色をしているように思え
た。
(そうか。長谷川が今、この団地のすぐそばで強い感情を漏らしていたから…
…異界のあの場所に、あいつの荷物が現れたのか)
「よし、行くぞ」
航が歩き出そうとしたその時、不意に恵理が彼の袖を引っ張った。
「待って。……二人で行くのは、やめた方がいいと思う」
「えっ、どうして?」
「長谷川さん、クラスメイトの男女が、こんな放課後の公園に一緒にいるのを
見たら……変に勘ぐるというか、気を遣わせちゃうかもしれない」
言われてみればその通りだった。
普段、関わりのない航と恵理が揃って声をかければ、彼女は確実に「委員長
としての仮面」を被り直すだろう。
そしてなにより、下手な噂になるのは避けたい。
「わたしが、一人で行くよ」
恵理の決意を秘めた瞳に、航は小さく頷いた。
「分かった。俺はこの隣のベンチにいるよ。でも何かあったら呼んでくれ。す
ぐに出ていくから」
航は自販機で買っていた冷たいお茶のペットボトルを恵理に渡し、そのまま
ゆっくりと後ずさるように、長谷川から完全に見えなくなる位置へと、その身
を隠していく。
航が隠れたことを確認すると、恵理は小さく深呼吸をしてから、長谷川のベ
ンチへと歩み寄っていく。
「長谷川さん」
急に声をかけられ、長谷川はビクッと肩を跳ね上がらせた。
膝の上にあった山積みのプリントの束を慌てて隠そうとして、紙にしわを作
ってしまう。指先が、紙の端で白くこわばる。
声の主を探して見上げると、そこにはいつもの控えめな佇まいの新城恵理が
立っていた。
長谷川の瞳に一瞬だけ焦りの色が走るが、次の瞬間には見慣れた「愛想のい
い委員長」の笑顔が、顔に張り付いていた。
「えっ? あ、新城さん……。 どうしてこんなところに?」
「お疲れ様。これどうぞ。少し休んだら?」
恵理は手にしていた冷たいお茶のペットボトルを、長谷川の目の前へそっと
差し出した。表面についた水滴が、夕暮れの陽射しを反射して輝いている。
「あ、ありがとう……。でも大丈夫よ、学校の仕事の整理をしてただけだか
ら。すぐ終わるの」
長谷川は断ろうとしたが、恵理はそれ以上強く勧めるでもなく、隣にそっと
腰を下ろした。二人分のベンチの端と端、踏み込みすぎない絶妙な距離感を保
ちながら。
「誰も見てないんだから、委員長のお仕事、今はサボってもいいんじゃな
い?」
風に揺れる木々の葉擦れの音に、恵理の声が静かに重なる。
誰からも「頼りになるね」「いつも助かるよ」としか言われてこなかった長
谷川にとって、その肯定的な「サボればいい」という言葉は、不意打ちのよう
に胸の奥へと響いた。
彼女の手から、力が抜けたように恵理は思えた。
長谷川は、膝の上の校外学習の班編成や行動計画をまとめた紙の束を一瞥す
ると、それを自分の脇に置いていたスクバの中にしまう。
「プリント、重そうだね」
「うん。……ちょっとだけ、ね」
視線を落とした長谷川の口から、ぽつりと小さな本音が漏れた。
彼女は恵理からペットボトルを受け取ると、そのひんやりとした冷たさを確
かめるように、両手で包み込む。
「なんだかさ、このプリントの重さが、そのまま全部自分にのしかかってる気
がしちゃって。……本当は、持ち歩きたくないなぁって、思っちゃったの」
声にならない悲鳴だった。弱音を吐いたら「委員長」でいられなくなってし
まう。
そんな怯えを抱えた長谷川に、恵理はただ小さく笑いかけた。説教をするで
も、安易なアドバイスをするでもない、同じ目線に立つ、柔らかな微笑みだっ
た。
「逃げ出したくなる時って、あるよね。……ねえ、ここだけの秘密なんだけ
ど」
「秘密……?」
「宮瀬くん、っているでしょ。同じクラスの、ちょっとぼーっとしてる男子」
物陰で息を潜めていた航は、自分の名前が出た瞬間に思わず「えっ」と声を
漏らしそうになり、慌てて両手で口を塞いだ。
「宮瀬くん? うん、知ってるけど……」
「彼ね、たまに放課後、この公園に来て一人でブランコに乗ってるんだよ。じ
ーっと空を見上げながら、ぼーっと漕いでるの」
(嘘つけ! 俺は乗りたいと思って眺めたことはあっても、乗って漕いだこと
は一回もないぞ!)
植え込みの影で、航は顔を真っ赤にして静かに憤っていた。
「高校生になっても、みんな逃げ込む場所が必要なんだよ」
恵理は、長谷川の顔を覗き込む。
「だから、長谷川さんがここでプリントを見ながらぼんやりしてても、誰もお
かしいなんて思わない。頼りになる委員長だって、たまには立ち止まっていい
んだよ。少なくとも、私はそう思うな」
口を開くこともなく、長谷川は恵理の顔を見つめる。
そして。
「ふふっ……そっか。宮瀬くんが、ブランコに……」
長谷川の唇から、小さな笑いがこぼれた。
張り詰めていた糸が切れ、肩の力が抜けていく。完璧な「委員長の仮面」が
剥がれ、ただの等身大の高校生に戻っていく。
(私に、大それた解決なんてできない)
恵理は心の中で息を吐く。
進路の悩みも、引き受けすぎた仕事の山も、代わりに消してあげることはで
きない。けれど、「逃げたい」「休みたい」という感情を否定せず受け止めて
くれる存在がいるだけで、心は少しだけ軽くなる。それを知っている。
だから長谷川が眼鏡を外し、顔をハンカチで拭いてたときも、恵理は何も言
わず、ただ長谷川の隣に座っていた。
それから三十分ほど、二人は夕暮れの風を感じながら、クラスの男子のくだ
らない話や、最近食べたおいしいアイスの話など、他愛のないおしゃべりを交
わした。
その頃になると、長谷川の目からは、あの六階の廊下にあった泥のような重
さは消えていた。
「私、そろそろ帰るね。……ありがとう、新城さん。お茶、ごちそうさま」
長谷川は立ち上がり、軽くスカートの皺を払う。
「あ、宮瀬くんのブランコのことは、内緒にしておくからね」
悪戯っぽく笑った長谷川の背中を見送り、彼女の姿が小さくなった頃、植え
込みの影からのそりと航が姿を現した。
「……新城、よくもまああんな適当な嘘を吐いてくれたな」
「嘘じゃないでしょ?」
恵理はベンチに座ったまま、悪びれもせずに航を見上げて微笑んだ。
「宮瀬くん、本当はあの『雲のブランコ』に座ってみたいんでしょ? 顔に書
いてあるよ」
「う……」
痛いところを突かれて言葉に詰まる航に、恵理は柔らかく微笑んだ。
「でも、あんな風に笑えるくらいには、長谷川さんの胸のつかえ、取れたみた
いだね」
「……まあ、そうだな」
夕方の風が、二人の間を通り抜けていった。
◆
翌日の放課後。
再び傘のベンチをくぐり、異界の団地の六階を訪れた二人は安堵の息を漏ら
した。
部屋のドアの前にあったはずの机とバッグが、跡形もなく消え去っている。
そして、まとわりつくような雑音もなくなり、いつものひんやりとした静け
さだけが、そこにはあった。
「良かったな」
廊下の柵の向こうの雲海を見つめながら、航はぽつりとこぼした。
「俺たちの日常を守るためには、現実の誰かの叫びにも、少しだけ向き合わな
きゃいけないみたいだな。……俺がブランコ好きだっていう風評被害と引き換
えに」
恵理がたまらず声を上げて笑う。
現実の小さな痛みを少しだけ救うことが、この異界の優しい箱庭を守ること
に繋がる。
灰色の空の下、二人の放課後の秘密は、ただ逃げ込むだけの場所から変わり
始めていた。
次回は、10/19の月曜日の予定でしたが、最終話に至る道筋ができましたので、少し投稿を早めることにします。
そのため、次回は10/17(土)に投稿します。
最終話まで投稿ペースを保てるかはわかりませんが、火木土の投稿に変更致します。




