第二話 : ふたりの箱庭
お話全体として、二十話前後でまとまりそうです。
その話数の中に、幕間も含みます。
はじめて書いたお話ですので、本筋の話の中にどうやって入れたらいいのか悩む視点の話がありまして。
そのようなお話を幕間として数話、入れさせてもらいます。
そのうちに出て来ますので、よろしくお願いします。
武山団地は、規則正しく配置されているようでいて、どこか迷宮めいた不揃
いな構造をしていた。
敷地の南北を大きく貫く一本の並木道がある。
うねうねと緩やかに蛇行しながら伸びるその道は、住人たちからいつしか
「蛇の道」と呼ばれていた。歩行者と自転車だけが行き交うよう、路面には交
差点となる場所ごとに車止めとなる無骨な金属の柱が打ち立てられ、車の進入
を阻んでいる。
その「蛇の道」を断ち切るように、大きな車が余裕ですれ違えるほどの太い
道路が東西に二本、走っていた。車道と交差するたびに、「蛇の道」は横断歩
道で細切れに分断される。かといって南北に車の抜け道がないわけではなく、
あみだくじの線をなぞるように複雑に折れ曲がった車道が何本か通っており、
それらの道によって団地全体は「島」と呼ばれるいくつかの住居ブロックへと
切り分けられていた。
それぞれの「島」の隙間には、合わせて五つの公園が点在している。
一番大きな「中央公園」は、現在建て替え工事の資材置き場や工事車両の駐
車場と化しており、無機質な防護塀で囲まれて立ち入ることもできない。
他の三つは、古びたベンチと申し訳程度の遊具が置かれているだけの、寂れ
た小さな公園に過ぎない。
だからこそ、中央公園の次に広い「あおぞら公園」が、二人にとっての憩い
の場となっていたのだった。
そのあおぞら公園へと向かう途中。
団地の敷地を横切る細い抜け道を歩きながら、宮瀬航は奇妙な感覚に足を止
めた。
いつもなら二分もかからずに通り抜けられるはずの小道だ。
しかし、いくら進んでも果てが見えない。ふと横を見ると、団地の壁に走っ
た斜めの亀裂と、錆びついた雨どいのパイプが目に入った。
(これ、さっきも見た気がする)
急に背筋に冷たいものが走る。
風景が変わっていないのだ。無限にループするゲームのように、同じ壁、同
じひび割れが延々と続いている。
空を見上げても、建物の隙間から見える空と雲は、いつもの夕焼けではなく
灰色に塗りつぶされていた。
「嘘だろ」
引き返そうと振り返るが、そこにも同じ景色が延々と伸びているだけだっ
た。
息が詰まる。
形にならない恐怖に追い立てられるように、航はアスファルトの小道から無
理やり逸れ、建物の裏手に向かう。
そこは、手入れの行き届いていない背の高い雑草の群れ。その中に躊躇なく
飛び込むと、顔や腕を乱暴に引っ掻く草を無我夢中でかき分けて進んでいっ
た。
「ハァッ、ハァ!」
草の壁を強引に突き破り、視界がふっと開けた瞬間、航はバランスを崩して
硬い地面に転がり込んだ。
「きゃっ!」
すぐ目の前で、短い悲鳴が上がった。
息を乱して顔を上げた航の目に飛び込んできたのは、地面にへたり込んでい
る新城恵理の姿だった。
「新城!」
「宮瀬くん……?」
恵理は恐怖に顔を青ざめさせ、微かに肩を震わせていた。
「とりあえず、立とう」
航はゆっくりと辺りを見渡しながら、彼女にそう促す。
二人はどうやら、いつもの公園にいるようだった。
振り返れば、今自分が通ってきた道はすでになく、公園と道の間の柵がある
だけ。
前を向き直せば、恵理が制服のスカートを直しながら立ち上がるところだっ
た。
「新城。お前はどこからここへ来たんだ?」
彼女はいつものように、商店街から団地に入った、はずだった。
しかし、日の落ちかけた薄暗い通路の先で、人の形をした黒い影たちが揺ら
めき、コンクリートの壁から這い出してくるのを見たのだ。
悲鳴を上げて引き返そうとしたが、背後の出口はすでに消滅していた。迫り
来る影を必死に避けながら奥へ進むと、ただ一つだけ、古びた店のシャッター
が半開きになっているのを見つけた。
すがるような思いでその中へ飛び込んだはずが、なぜかこの公園の広場へと
出てきたのだという。
「消滅、って」
「来た道が消えていたの。そのかわり灰色のモヤみたいなものが壁のようにな
ってて、戻れなくて……」
まだ先ほどの体験のショックから立ち直れていないのであろう恵理の顔は、
いつも以上に白く見えた。
「……ここ、おかしいよね」
示し合わせたかのように、二人は周囲を見回した。
いつもなら遠くから聞こえる幹線道路の自動車の音も、夏に向けて鳴き始め
た蝉の声も、まったく聞こえてこないのだ。
見上げれば、重々しい灰色の空の下、五階建てのはずの団地に「六階」と
「七階」が、ゆらゆらと蜃気楼のように重なってそびえ立っていた。
「私のスマホ、時間が動いてない。……電波も圏外になってる」
「俺の腕時計もだ。秒針が止まってる」
現実世界であれば、ここは「あおぞら公園」と呼ばれる広場であるはずだっ
た。
一見同じようではあるが、二人立っている場所は、直径五メートルほどの円
形にカラータイルが敷き詰められている小さな広場となっていた。
使われているのは、鮮やかな青と赤の二色。
交互に並べられた幾何学的なモザイク模様は、長年雨風に晒されたようにか
すかにくすみ、ところどころひび割れている。それでも、色彩を失いつつある
この異界のなかで、そのサークルだけが奇妙な存在感を放っていた。
現実の「あおぞら公園」には、このような場所はない。
周りを見回してみると、青と赤のサークルの端に、ひとつのベンチが置かれ
ている。
鋳鉄製の頑丈そうな脚に、分厚い木の板を渡しただけのベンチだ。
かつて塗られていたであろう緑色のペンキはほとんどが剥げ落ち、木目は白
く乾燥しているが、まだまだ使用には耐えるように見える。
「……座って、みるか」
歩き回った疲労と緊張から、航がぽつりと言うと、恵理も無言で頷いた。
二人は並んでその古いベンチに腰を下ろした。
ギシ、と木が微かに軋む音が、静けさの中に吸い込まれていく。
不思議な感覚だった。
座った瞬間、それまで背中にへばりついていた薄ら寒い不安が、ふっと薄ら
いだのだ。
青と赤のタイルで囲まれたこの円形の空間だけが、外の不穏な空気から切り
離されているように感じられる、奇妙な安心感があった。
「……変な場所だね。怖いのに、ここだけ、なんだかあたたかいような……」
恵理が片手でベンチの座面を撫でながら、ほっとしたように息をつく。
航も深く座り直すと、灰色の空と青と赤の足元を見比べた。
「ああ。……まるで見えない壁にでも守られてるみたいだ」
事実、この異界の公園内にも黒い影たちはいるが、このサークルには近づい
てはこない。
しかしながら、周囲を取り囲む無人の団地群は、相変わらず不気味な沈黙を
保っている。
「ここから出ないとだね」
「そうだな。とにかく出ることを考えよう」
それでもまだ怯えの混じった恵理の声を聞き、そう返事をすると、航は彼女
の手を握り、せぇのとかけ声をかけると、サークルの外へ向かって走り出し
た。
タイルの境界線を越えると、再びねっとりとした冷気が肌にまとわりついて
くる。遠目に見える商店街の暗がりから、恵理を追っていた黒い影たちがじわ
りと這い出してくる。そして上層階のベランダからは、また何か別の影が垂れ
下がってきている。
ここは、異界の団地の中で、まだ脱出の方法はわからないままだ。
「宮瀬くん、あそこ……!」
走りながら、恵理が公園の隅を指差した。
入り口からは少し離れた、砂場の脇にぽつんと建っている「傘のベンチ」。
くりぬかれた太いコンクリートの柱の上に、パラソルを模した丸い屋根が乗
った、昭和の団地にはよくある古い造りの休憩所である。
普段ならただの日よけに過ぎないそのコンクリートの柱の穴が、今はそこだ
け空間が歪み、青黒い口を開けている。
その青黒い影だけが、まるで水面の波紋のようにぐにゃりと歪んでいて、さ
らに歪みの奥からは、かすかに現実世界の茜色の光が漏れ出している。
「あの中に入るぞ!」
背後に迫る、這いずるような気配を感じ、航と恵理はいつしか繋いでいた互
いの手を強く握り締め、全速力で傘のベンチへと走りこみ、その丸い穴の中へ
と飛び込んだ。
とぷん。
まるで水の中を、全身で押し進むような感覚があった。
ただ一面の藍色と、完全なる静寂。
肺に詰まっていた異界の冷たい空気が押し出され、次の瞬間、むせ返るよう
な梅雨明けの熱気と湿度が、一気に二人を包み込んだ。
ブオォォォォン。
ミーン、ミンミンミン!
自動車の排気音と蝉の鳴き声が、航と恵理の鼓膜を貫いていた。
勢い余ってコンクリートの柱の脇に転がり出た二人が辺りを見回すと、いつ
もの見慣れた五階建ての古びた団地をそこに見つける。空は燃えるような茜色
の夕焼けで染まり、傘のベンチの中は、ただの暗がりに戻っている。
二人は荒い息を吐きながら、へたり込んだまま顔を見合わせた。
「……はぁっ、はぁっ」
航は大きな息をひとつ、吐き出す。
「宮瀬、くん……。出られたの? わたしたち……」
「ああ、どうやら戻ってこられたみたいだな」
あの場所は現実じゃない。命の危機すら感じる、紛れもない異界だった。
しかし同時に、二人は無意識のうちにあの「異界の団地」の構造を理解して
いた。
赤と青の幾何学模様のタイルで形作られたサークルの中は、異界の中で唯一
とも言える「安全地帯」。
そして、公園の片隅にある傘のベンチの影が、現実と異界とを繋ぐ「境界の扉」となる。
つまり、あの穴をくぐって異界へと入り、青と赤のタイルのサークル内を拠
点とすれば、終わらない道や存在しない上層階が広がる「異界団地」の中を、
安全を確保しながら探索できるということだ。
しかし。
「もうここには、二度と近づかない方がいい……」
そう航が震えた声でつぶやくと、恵理も青ざめた顔で何度も頷いた。
二人はそのあと、逃げるようにして家路についたのだった。
◆
その決意は、翌日の教室ですでに揺らいでいた。
「でさ、あいつマジでウケるよな!」
「わかるー! 宮瀬もそう思うだろ?」
昼休み。
賑やかな友人たちの輪の中で、航はいつものように器用に愛想笑いを浮かべ
ていた。
「ああ、そうだな」
口ではそう合わせながらも、胸の奥にはどこか冷や汗をかくような感覚があ
った。
みんなは心から楽しそうに笑っている。その場を自然に盛り上げ、軽やかに
言葉を交わし合っている。
なのに、どうして自分はその会話に一枚の透明なガラスを挟んだような距離
感を感じてしまうのだろう。
空気を読み、キャラを演じ、輪からはみ出さないようにしているつもりでは
あるが、笑っている周囲を羨ましく思う反面、その輪に溶け込みきれない自分
が、ひどく滑稽に思えた。
教室を満たす喧騒と天井の白い灯りが、どうしようもなく航には息苦しかっ
た。
航の視線がふと、教室の隅の席で文庫本に目を落としている恵理へと向か
う。
誰からも隠れるように息を潜めるその姿は、まるでこの教室から自分自身の
存在を少しでも希薄にしようとしているかのようだった。
(あっちのほうが、よっぽど息ができたな)
航の脳裏に、あの灰色の空と、耳が痛くなるほどの静寂がよみがえってく
る。恐怖の中にいたはずなのに、なぜかあの静けさが、どうしようもなく恋し
かった。
放課後。
航の足は、あの団地へと向かっていた。
「馬鹿だろ、俺……」
いつものように「蛇の道」から小道へと進み、公園の入り口に立つ。
今日はここまで、あの不思議な怪異には襲われることはなかった。
視線の先を、砂場の脇の「傘のベンチ」へと移していく。
ただ、どうしても足が、ここから先へと、その一歩が出ない。
あの中に入れば、穴をくぐれば、またあの異界の団地へと行けるかもしれな
い。冷や汗が背中を伝う。それでも、背後から迫る「現実」の雑音から逃げ出
したい衝動が、航の目を、異界の扉と知ってしまった「傘のベンチ」に縫い止
めていた。
「宮瀬、くん」
不意に声をかけられ、航は肩をビクンと震わせる。
公園のもう一つの入り口、航とは反対側の商店街の方向から、恵理が歩み寄
ってきていた。
彼女もまた、怯えたような瞳で航を見ながら、それでもここにやって来てい
たのだ。
「新城……お前も、来ちゃったのか。あんなに怖い思いをしたのに」
「……うん」
恵理は制服の胸元をぎゅっと握りしめ、俯いた。
「怖かった。あの黒い影たち、本当に恐ろしかった。でも……学校にいる時の
ほうが、ずっと自分が消えちゃいそうで怖いんだ」
彼女の震える声が、夕暮れの公園に落ちる。
「学校では、誰も私のことなんて見てない気がするの。息をするのもしんどく
て。……でも、ここなら、誰からも隠してもらえる気がしたの。確かに昨日の
あの場所は、怖いのだけど……」
その言葉は、航の心の中にある形のない鬱屈を、完璧に代弁していた。
そうだよ。現実はいつだってうるさくて、息苦しくて、嘘ばかりだ。
あの異界の狂気は、誰かの本当の悲鳴や感情がそのまま形になっただけで、
現実の教室の笑顔よりもずっと純粋だったのだ。
「……俺も、同じだ。あそこなら、息ができる気がしたんだ」
航はゆっくりと息を吐き出し、恵理に向かって手を差し出した。
「昨日は別々の場所から入ったから、あいつらに狙われたのかもしれない。で
も、最後にこの広場で合流した時、少しだけ気配が引いた気がしたんだ」
「……宮瀬くん」
「二人で一緒に、入ってみないか。二人なら、大丈夫じゃないかって気がす
る」
恵理は少しだけ躊躇った後、小さく頷き、航の隣へと歩み寄った。
恐怖と、それ以上の渇望。
二人は、互いの存在だけを命綱にするように手を繋ぐと、傘のベンチへと歩
み寄る。
何の変哲もない、ただの古びたコンクリートの構造物のはずだった。。
そこに、異界への穴などない。
しかし、二人が近づくにつれ、徐々にその空間に歪みが生まれる。
二人がそこにあと一歩まで近づく頃には、そのコンクリートの柱の空間いっ
ぱいに扉が、青黒い波紋を立てて口を開いていた。
「行こう」
二人は深く息を吸い込み、同時にその波紋の中へ飛び込んだ。
とぷん。
水の膜を突き破ったかのような感触を感じた瞬間、世界からすべての音が消
え去った。
見上げれば、重々しい灰色の空の下に、存在しないはずの六階と七階を重ね
た、異形の団地がそびえ立っている。
とっさに航は昨日の恐怖を思い出し、体を強張らせて身構えた。
そのまま恵理の手を引いて、公園の中央にある赤と青の幾何学模様のタイル
へと駆け込む。
サークルの中心に立ち、二人は荒い息を整えながら周囲を警戒した。
けれど、昨日二人を追い詰めた不気味な影も、無限にループする道の引力
も、襲いかかってはこなかった。
ただ、どこまでも静かで、ひんやりとした空気が流れているだけ。
世界中の煩わしいすべてを完全にシャットアウトしてくれる箱庭が、そこに
はあった。
「……黒い影、出てこないね」
「ああ。俺たち二人が一緒にいることで、この空間の歪みが落ち着いてるみた
いだ。理由はわからないけど」
「私の……ただの思い過ごしじゃ、ないよね?」
「ああ。何が正解かはわからないけど、あいつら、俺たちに近づいてこない」
航の言うとおり、黒い影はこの公園の中にもいて、地面や遊具、遠くの壁の
影から黒いモヤのように湧いて出ては消えていく。
けれど、二人のいるサークルを遠巻きに眺めるだけで、決してその境界線を
越えて入ってはこなかった。
「……ここなら、大丈夫だね」
「ああ。俺たちの場所だ」
「なに、それ」
灰色の空の下、恵理が昨日から初めて、小さな笑みをこぼした。
日常のすぐ隣に潜む非日常の中で、恐怖を乗り越え、自らの意思でこの箱庭
に入り込んだ二人の、不思議な放課後が始まった。
第一話と第二話は連日投稿させて頂きました。
この先の第三話以降は、月・木曜日の正午投稿とさせていただきます。
最終話までプロットはできていますが、ラストに至る道筋が整理し切れていません。
それでも、二十話までは行かずに完結できるかと思います。




