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第十三話 : 旅の終わり

全十六話で、確定できました。

それでもまだ、推敲すべきところも多いので、もう少し頑張ります。

 記憶の奔流が去ったあとも、脳裏を刺すような静寂が残っていた。

 歪み、崩れかける四十七号棟の裏手。

 青と白のジャングルジムの冷たい鉄の感触から、恵理の指先がゆっくりと離

れる。


 その時だった。


 ジャングルジムの頂上に現れた光がふるふるっと揺れると、人型に形を結

び、ふわりと航と恵理の前に降りてくる。

 それは、幼い子供の姿をしていた。

 しかし、かつて記憶の中で二人の小指に触れたような淡い光の輝きはない。

 輪郭は霞んでいて、ところどころ半透明に透け落ち、まるで今にも風で千切

れてしまうようだった。

 

 その姿はまさに、「妖精」と表現する以外にはないであろう姿だった。

 

『思い出して、くれたんだね』


 鈴の音のような声が、脳裏に直接響いてくる。

 消え入りそうなその存在は、記憶の中と同じ微笑みを浮かべて二人を見つめ

ていた。


「きみ、は……」


 航が、掠れた声で呟く。

 恵理は胸の前で両手を固く握りしめ、涙の残る目で見上げていた。

 妖精は、儚い笑みを浮かべて頷いた。


『ごめんね、怖がらせて。……でも、もう維持できなくなってきてしまったん

だよ』


「どうして……どうしてこんなことに? この世界は、一体何なの!?」


 恵理が、感情の高ぶりのまま、叫ぶように問う。

 妖精は、さみしそうに目を伏せた。


『ふたりが、現実が苦しくて息ができなくなって……「どこか遠くへ逃げた

い」って心の中で叫んでいたから。 この武山団地という場所が、ふたりの叫

びに応えて避難所としての異界を、創り出したんだよ』


 衝撃的な言葉が、二人を貫く。

 異界は、二人を拒絶する不気味な迷宮でも、勝手に巻き込まれた災難でもな

かった。

 学校での息苦しさ、将来への漠然とした不安、誰にも言えない孤独。

 現実の世界で二人を押し潰そうとしていた「何か」から身を隠すために無意

識のうちに求めた「避難場所」を、団地そのものが形作ったというのだ。


「じゃあ……この世界は、俺たちが創ったのか?」


 航が掠れた声で問うと、妖精はゆっくりと首を横に振った。


『ううん、ふたりが直接、創ったわけではないよ。人の強い心や逃避の感情に

反応して、その場所がこういう歪な空間を創り出すことは、時々あるんだよ。

……でもね』


 妖精は悲しげに、けれど慈しむような目を二人に向ける。


『普通は、そんな空間が異界で創られたとしても、人がその「中」に招き入れ

られることなんて、ないんだよ。誰もがあの世とこの世の境界に気づくことな

んてなく、ただ日常を通り過ぎていくんだ。現実に、蓋をしたままでね』


「じゃあ、どうして……どうして私たちはこの場所に入り込んで、ここで過ご

すことができたの?」


 恵理が震える声で尋ねる。

 妖精は小さな両手を広げ、懐かしむように微笑んだ。


『それは……あの日、ここで約束をしたからだよ』


「約束……?」


『「ふたりが大人になるまで、僕がこの場所で守ってあげる」って。そして、

ふたりも僕と指切りをした。あの幼い日の「約束」があったからこそ、この団

地はふたりのために特別な空間の扉を開き、この中へとふたりを招待したんだ

よ』


 その言葉に、航と恵理は息を呑んだ。

 自分たちがずっと忘れていた幼い日の記憶。あの地球儀のジャングルジムで

した約束こそが、この異界の扉を開き、二人を異界へと「招待」する鍵になっ

ていたのだ。


『でもね……ふたりの心の中にあった「ここから逃げ出したい」っていう気持

ちが大きくなりすぎて、現実との間に穴を開けちゃったんだ。その穴から、同

じように誰にも言えない痛みを抱えていたあの男の子や女の子たちの心が、引

き寄せられて流れ込んできてしまった』


 長谷川のスクバが、異界の机の上に置かれたことも。

 鈴村の絵が、異界の団地の壁に描かれたことも。

 すべては、自分たちが現実から目を背け、この異界に縋り付いていたことが

原因だったというのだ。


「そんな……じゃあ、俺たちが」


 航の顔から血の気が引いていく。

 誰かを助けているつもりだった。

 恵理を守り、巻き込まれた友人たちを、助け出しているつもりだった。

 けれど真実は逆だったのだ。

 自分たちが現実を恐れて、この世界に逃げ込み続けたせいで、友人を危険に

晒し、目の前にいる妖精の存在をも、削り続けている。


「ごめんなさい……ごめんなさいっ……!」


 恵理が唇を噛み締め、膝から崩れ落ちそうになるのを、航が支える。

 二人を乗せた地面が、不吉な音を立てて微かに揺れた。


『謝らないで。僕は……ふたりに笑顔でいて欲しかっただけなんだから』


 妖精の足元も、パラパラと灰色の砂となって崩れていく。

 この異界が存在する時間は、もうほとんど残っていないのだろう。


『「団地」が作ったこの場所は、四十七号棟が現実世界で壊されることで消え

てしまう。時間はそれほど残っていないんだ。でも、君たちの答えを待つよ。

次にここへ来た時に、教えてね? それまで「団地」の力とで、支えておくか

ら』


 妖精の姿が、透き通っていく。


 恵理の目からボロボロと涙が溢れ出した。

 守られていたのは自分たちだった。

 自分たちが無意識に現実に背を向け、この優しい結界に逃げ込んでいたから

こそ、異界は歪み、友人たちを巻き込み、そしてこの優しい妖精を死に追いや

ろうとしていたのだ。


『二人が笑って過ごせるなら、それでよかったのだけど。ごめんね?』


 その言葉を残し、妖精の姿は、空に溶けるように消えた。

 残されたのは、崩れゆく箱庭と、激しい罪悪感と動揺に立ち尽くす二人だけ

だった。

 現実から逃れるために、妖精の命をすり減らしていたという事実。

 そして、その逃避場所すら間もなく永遠に失われるという現実。


 しばらくその場から動けなくなっていた二人だったが、異界の崩壊がそれを

許してはくれなかった。

 のろのろと歩き出し、「傘のベンチ」の扉をくぐる。

 現実世界に戻った二人が見たのは、無情なカウントダウンの始まりだった。

 四十七号棟の周りには、すでに頑丈な黄色い工事用フェンスが立ち並び、重

機の音が土煙とともに響き渡っている。

 看板に書かれた「解体工事開始」の日付は、すぐそこにまで迫っていた。


◆ 


 それから数日の間、学校にいても、二人は一日中、心ここにあらずだった。

 自分たちが犯していた無自覚な罪。

 そして、提示された選択肢。


 妖精は、「答えを出してほしい」と言った。

 けれど、そのための覚悟など、そう簡単に持てるはずはなかった。

 かといって、これ以上あの箱庭に逃げ込み、自分たちをずっと守ってくれて

いた妖精の命を削り続けることなど、できるはずもなかった。

 どちらの道を選んでも、何かを失ってしまう事は間違いない。


 教室でふと目が合っても、航と恵理は気まずく視線を逸らしてばかりいた。

 あの日以来、放課後になっても、団地へ向かうのを二人は避けてしまってい

た。

 妖精の元へ行き、答えを告げなければならないことは分かっている。

 なのに、決めきれない葛藤が二人の足を重く縛り付け、動けなくさせている

のだ。


 答えを出せない間にも、時間は無情に過ぎていく。

 四十七号棟の解体は、日に日に迫っていた。

 団地の取り壊しが進み、あの公園の「傘のベンチ」が壊されてしまえば、二

人は二度と妖精に会うことができなくなる。

 逃げ続けたまま、永遠にその機会を失ってしまうのだ。


◆

 

 それから四日目の昼休みだった。

 図書室の廊下の前で、航は意を決して恵理を呼び止めた。

 彼女の目の下には、航と同じようにうっすらと隈ができているのが見て取れ

た。


「新城」

「宮瀬くん、私……」


 恵理の震える声を遮るように、航は言葉を続ける。


「まだ、答えなんて出ていない。どうすればいいのか、全然わからない。で

も、このまま黙って逃げ続けるのだけは、違うと思う」


 航の言葉に恵理がハッと息を呑み、やがて、泣き出しそうな顔で深く頷い

た。


「うん……。あの子を、一人ぼっちにしたまま終わらせるなんて、嫌だ。私た

ちは、行かなくちゃ」


 答えなんて見つかっていなくてもいい。

 ただ、妖精とまっすぐ向き合うために。

 今日の放課後、必ずあの場所へ行くと、航と恵理は約束した。

 

 その放課後。

 特別教室棟へと続く渡り廊下の壁に背をもたせながら、航は窓から外を見て

いた。

 そこへ、足音が近づいてくる。


「なんだよ宮瀬、えらいしけた顔してんな?」


 陸上部の帰りか、タオルを首に巻いた鈴村が、ペットボトルを片手に歩いて

きた。


「鈴村か」

「お前、最近ずっとそんな感じな。新城もそうだけどよ。……まあ、何に悩ん

でるかは想像つくけどよ」


 鈴村はポン、と航の肩を叩くとその隣に並ぶ。

 航は戸惑っていた。

 たぶん鈴村は、あの異界のことを聞きたいのだろう。でも、航には話せな

い。言ったところで信じてもらえるはずもないし、なにより巻き込みたくな

い。

 だが、胸の奥で渦巻く感情を抑え込むことができなかった。


「……鈴村。俺さ、ずっと逃げてたんだよ。自分が何になりたいのかも分から

なくて、将来のことも怖くて……現実から目を背けて、都合のいい場所に閉じ

こもってたんだ」

「ふーん」


 鈴村は予想外に軽い返事をし、手に持ったペットボトルを口にする。


「いいんじゃねえのか? 逃げたって」

「え?」

「俺だってさ、記録が伸び悩んだ時とか怪我した時とか、何回も走るのやめよ

うって思ったよ。でもさ、それでやめたら負けたみてぇでかっこ悪いじゃん。

逃げたくても『やっぱり嫌だ』って思ったら、もう踏みとどまるしかねえだ

ろ?」


 粗削りで、まっすぐな鈴村の言葉。

 航はハッとして、友人を見つめ返した。


「で。……行くのかよ」


 鈴村の言葉に、重みが増す。

 彼には「異界」という概念も、そこで何が起きているのかという理屈もわか

ってはいない。

 けれど、かつて航と共にあの奇妙な団地へと引きずり込まれた記憶は、今も

彼の中に生々しく残っているのだろう。


「ああ。行かなきゃいけないんだ」

「そっか」


 鈴村はそれ以上、踏み込んではこなかった。

 彼は、いつもの飄々とした笑みを浮かべた。


「無茶だけはすんなよ。お前がいなくなったら、俺は誰と昼飯を食えばいいか

って話だからな」

「それは一人で食べろよ。または他のやつ、誘えよ。お前だったらそういう

奴、何人もいるだろ?」

「馬鹿、お前はひとりしかいねぇよ」

 

 拳を軽く突き出してくる鈴村に、航は無言で自分の拳を合わせる。

 自分がこんなドラマじみたことをやるとは、今の今まで思ってもいなかっ

た。でも、友人が贈ってくれたエールに背中を押され、航は約束の場所へと歩

き出す事を決めた。


「……ありがとう、鈴村」

「今度は宮瀬のおごりな」

「わかった」


◆


 図書室の窓から差し込む西日が、書架の影を長く斜めに引き延ばしていた。

 鞄の持ち手を強く握りしめたまま、恵理は長谷川と新田と、向き合ってい

た。


「……新城さん」


 静寂を破ったのは、長谷川の声だった。

 彼女は静かに眼鏡の枠を指で押し上げると、ゆっくりと恵理へと歩み寄って

きた。その隣には、心配そうに恵理を見つめる新田の姿もある。


「行くのね」

「……うん。宮瀬くんが、待ってるから」


 恵理の答えに、長谷川はかすかに眉を寄せた。

 長谷川の脳裏には、あの日、この図書室から一瞬で異界の団地の屋上へと弾

き飛ばされた光景が焼き付いている。

 黒い影が蠢く恐怖の世界。

 そこで、恵理が自分を守るために必死で手を引き、さらには涙を溜めて「ご

めんなさい」と謝り続けていた姿があった。

 自分には何もできない。解明もできなければ、あの空間を消し去る術も持た

ない。

 不条理な事が嫌いな長谷川にとって、友人がその重圧を背負い込もうとして

いる姿は、何より耐えがたいものだった。


「新城さん。あの時のこと……無理に話さなくていいとは言ったけれど、あな

たと宮瀬くんが何か大きな問題に巻き込まれているのは、分かるわ」


 長谷川が、静かに眼鏡の位置を直す。


「私は異界だとかそういう非科学的な現象は信じない。けれど、あなたが何か

に酷く怯え、自分を責めていることは確かよ」

「……長谷川さん」

「現実なんて不条理で、理不尽なことばかりよ。思い通りにいかないことのほ

うが圧倒的に多いわ。だからこそ……自分の意志で踏み出さなければ、世界は

一歩たりとも変わらないの」


 長谷川は、ため息をひとつ、つく。

 その時、彼女の視線がふと、恵理のスカートのポケットに留まった。


 不安と緊張を紛らわせるように、恵理は無意識のうちにポケットの中にある

家の鍵をぎゅっと握りしめていた。そのせいで、ポケットの縁から金属の輪っ

かと共に、そこにつけられた飾りが少しだけこぼれ出ていたのだ。

 それは、透明なレジンの中に閉じ込められた、不格好な赤いキーホルダー。


「そのキーホルダー……宮瀬くんのとお揃いでしょう? 赤と青とで。彼から

貰ったの?」

「えっ!? あ、ちが……これは、その……っ」


 慌てて鍵をポケットに押し込み、恵理は顔を真っ赤にしてうつむく。

 先ほどまでの張り詰めた緊張感が弾け飛び、恵理の瞳が泳ぐ。

 その初々しい反応に、横にいた新田が「ふふ、新城さん可愛い」と思わず口

元を緩めた。


 長谷川の唇にも、微かな笑みが浮かんだ。

 だが、次の瞬間、彼女はすっと表情を引き締めると、まっすぐ恵理の目を見

つめた。


「怖くないと言ったら、嘘になるわよね」

「……長谷川さん」

「私も見たあの世界で、あなたがどれだけ恐怖に震えていたか。……だから、

行かせたくない。あんな理不尽な場所に、大切な友人を行かせたいわけがない

じゃない!」


 長谷川の感情のこもった声に、恵理は目を見開いた。

 長谷川はゆっくりと手を伸ばすと、恵理の冷たくなっていた両手を、自分の

手で包み込んだ。


「でも……あなたはもう、逃げるのをやめたのね。誰かに守られるのじゃなく

て、自分の意志で進むって決めたのね」

「……うん。私、もう逃げたくないの。ちゃんと……答えを出したい」


 恵理の瞳に宿る、揺るぎない光。


「……なら、私に言えることはひとつだけ」


 長谷川は握った手に、ぐっと力を込めた。

 その厳しくて、けれど優しい瞳が、恵理の瞳を深く射抜く。


「……無事に戻って来てね。恵理」


 恵理は息を呑んだ。

 ずっと「新城さん」と、丁寧に距離を保っていた長谷川が、初めて自分を名

前で呼んだ。

 恵理をのぞき込むその瞳には、ただ友人を心から心配し、無事を祈る強い意

志だけが込められていた。


「帰ってきたら、あなたの話を聞くわ。……それと、宮瀬くんとの『お揃い』

の真相もね。覚悟しておきなさいよ」

「ふふ、……うん!」


 恵理の目から、ポロリと温かい涙がこぼれ落ちる。

 けれど、その顔から迷いは消えていた。


「いってらっしゃい、恵理ちゃん!」


「やっと呼べたよ」と小さい声で続ける新田の声と、長谷川の指先から伝わる

温もりを胸に刻み、恵理は二人を見て深く頷いた。


「行ってきます」


 もう足は震えていなかった。

 大切な友人から名前で呼んでもらった喜びを抱いて、恵理は航の待つ、夕暮

れの団地へと駆け出していった。


◆


 夕暮れが迫る団地の商店街の入り口で、航と恵理は合流した。

 オレンジ色と紫色のグラデーションに染まりつつある、武山団地。

 工事現場から響く重機の音が少しずつ静まり、夕暮れの風が二人の髪を揺ら

す。


 二人は、団地の外縁の道を歩いていた。

 遠目に見える四十七号棟を包む西日が、二人の長い影をコンクリートに引き

伸ばしている。

 この団地の中に、日常の境界線を踏み越える異界と繋がる扉があるのだとい

うことを、ふたりはあらためて意識する。


 ふと航が足を止め、遠くの夕焼けを見つめた。


「すべてが終わったら、どうなるんだろう?」


 口からこぼれ落ちた自分の声が、ひどく情けなく響いた。

 熱中できるものもなく、将来の夢もなく、ただ息苦しい毎日から逃げ出すた

めに、あの異界の扉をくぐった。

 鈴村のようにぶつかっていく強さも、長谷川や新田のように立ち向かう覚悟

も、何ひとつ持っていなかった。


 風に消えそうな小さな問いかけ。

 恵理は航の隣に並び、同じ夕焼けを見上げた。

 そして、ゆっくりと口を開く。

 

「私は……」


 恵理の声に、かつてのような迷いや怯えはなかった。


「私は、ここではないどこかに、行きたい。ここは私たちが育った大切な場所

で、いつだって帰ってくる場所だけど。でも、これから行く場所は、誰かに用

意してもらうのじゃなくて、自分で決めたい」


 守られるだけの子供ではなく。

 誰かが用意してくれた逃げ場所でもなく。

 傷つくかもしれなくても、自分の足で、自分の行きたい場所へ歩いていきた

い。


 ポケットの中には、航が作ってくれた赤いタイルのキーホルダーがあった。

 このお守りがあったから、自分はあの恐ろしい影の海を走り抜けることがで

きたと思う。自分の足で踏み出す勇気を、もらえたと思う。


 航は感嘆の息を漏らし、苦笑した。


「すごいな、新城は。……俺はいつか、何かになれるんだろうか?」


 答えは出ない。

 自分に何ができるのかも、どんな大人になれるのかも、分からないことだら

けだ。

 けれど、逃げるのをやめて傷つく覚悟を持つことなら、今からでもできるか

もしれない。


 恵理はゆっくりと航の方を振り返ると、小さく微笑みを浮かべる。


「一緒に考えようか?」


 そして、幼い頃に迷子になっていたあの日と同じ名を、呼ぶ。


「わたるくん」


 不意に呼ばれたその懐かしい名に、航は驚いて目を丸くした。

 十数年前、あの夕暮れのジャングルジムの前で泣きながら、自分を呼ぶ声。


「……そうだね。一緒に考えてくれるかい? えりちゃん」


 二人は顔を見合わせ、小さく笑い合った。


 航と恵理にできた、三人の友人たち。

 彼らは異界の真実を知らない。

 けれど彼らは皆、現実に打ちのめされそうになりながらも、自分の足で立

ち、自分の力で前を向こうとしていた。

 逃げ場所を作ってもらわなければ息もできなかった自分たちに、現実の中に

こんなにも温かい居場所があったのだと、何気ない会話が心を満たしてくれる

のだと、気づかせてくれた。


 そして、この先で待っているのは、かつて共に笑い合った「ともだち」。


「行こう」

「うん」


 残された時間は、あとわずか。

 幼い日の約束を果たし、自分たちをずっと守り続けてくれたあの小さな妖精

に、二人の答えを届けるために。

 友人たちからもらった温かなエールが、二人の足取りを確かなものにしてい

た。

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