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第十一話 : 崩れゆく箱庭

ここから最後へと至るお話が始まります。

もう少しばかり、お付き合いいただければ幸いです。

 その日は、朝から校内が少しだけ騒がしかった。


 登校時に生徒たちが必ず通る、一階の昇降口。

 そこの掲示板に、新たに貼り出された一枚の文書があった。

 その文書の見出しの上に赤く押された『重要』のスタンプが、鮮やかに浮か

び上がっている。

 それはありふれた連絡事項の紙切れであったが、通りがかる何人かの生徒た

ちの目を無意識のうちに引き寄せていた。


『通学路の交通安全に関する注意喚起について』


 見出しの下には、近隣にある武山団地、その一部区画である四十二号棟を含

むエリアの解体および再開発工事が、正式に決定した旨が書かれていた。

 それに伴い、本日から大型の工事車両が学校周辺の道路を頻繁に往来するた

め、登下校時には十分に注意するようにという、学校側からの通達だった。

 掲示板の前を通り過ぎる生徒たちが、「へえ、あの古い団地、ついに壊すん

だ」「トラックとか埃っぽくて嫌だね」と無邪気な感想をこぼしていく。


 航はそのプリントの文字を、足の裏から冷たいものが這い上がってくるよう

な感覚で見つめていた。

 ふと視線を感じて振り返ると、少し離れた場所で同じように掲示板を見つめ

ている恵理と目が合う。彼女の瞳にも、航と同じく、かすかな動揺が揺れてい

た。


 昼休み。

 航と恵理は、人気のない特別教室棟への渡り廊下に並んで立っていた。

 開け放たれた窓からは、初夏の少し湿り気を帯びた風が吹き込み、二人の前

髪を優しく揺らしている。窓の下からは、グラウンドで短い休み時間を満喫し

ている生徒たちの歓声が、BGMのように聞こえてきた。


「……いよいよ、始まるんだね」


 窓枠にそっと手を添え、遠くに見える武山団地の輪郭を見つめながら、恵理

がぽつりと呟いた。


「ああ。工事車両が入るってことは、もうあそこは工事現場になる。……俺た

ちが入り込んでいたあの空間がどうなるかは」

「わからない。でも、きっと……」


 恵理はそこで言葉を切って、俯いた。

 航は窓から射し込む柔らかな陽光に目を細めた。

 どこからか聞こえる吹奏楽部のチューニングの音。遠くの笑い声。隣に立

つ、恵理から微かに漂う香り。

 ごく普通の、ありふれた学校の日常。

 少し前までの航なら、ただ退屈だと思ってやり過ごしていただけの時間だ。

 けれど、異界という非日常を知り、恵理という秘密を共有する相手ができた

今、この何気ない平穏が、ひどく脆くて愛おしいものに感じられた。


「……なんかさ」

「うん?」

「最近、思うんだ。こんな風に、ちょっと不思議な秘密を抱えながらも、新城

とこうして笑い合ったり、図書室で新田や長谷川が話しているのを見ていた

り。……そんな日常が、いつまでも続けばいいのに、って」


 航の不器用な本音に、恵理は少しだけ驚いたように目を丸くし、そして柔ら

かく微笑む。


「奇遇だね。私も、同じこと考えてた」


 恵理は自分の胸元に両手を当て、制服のシャツを強く握りしめる。


「宮瀬くんと秘密を共有して、毎日が少しだけ特別になって。……この不思議

な日常が、ずっと続いてほしいって、願ってる。でも……」

「この不思議な日常は、いつか終わる」

「……うん。あの異界は、きっともうすぐ消えてしまう。それが、少しだけ怖

い」


 恵理の震える声に、航は何も言えず、ただ彼女の華奢な肩越しに窓の外を、

そこに広がる青空を見つめた。

 終わりの予感と、失いたくないという願い。

 二人は窓辺に並んだまま、静かに迫りくるその時を待つように、言葉のない

時間を共有していた。


 昼休み明けの五時間目は、体育だった。


 グラウンドの外周を走る持久走。

 部活に入っていない航にとって、ただひたすら息を切らして走るこの時間は

ひどく退屈で、苦痛なだけのものだった。

 校舎の裏手、ちょうど教師の目が行き届かない死角に差し掛かったときだ。

 空を覆う青空が、壊れかけた照明のように一瞬だけチカチカと脈打った。


(なんだ……!? 今の)


 航は思わず足を緩めた。

 が、その背後から快活な声が響く。


「おい宮瀬! ペース遅えぞ、気合い入れろ!」


 軽やかな足取りで、鈴村が航を追い抜いていく。

 これで一周遅れにされた航が、苦笑交じりに何か言い返そうとした、その瞬

間だった。


 校舎の影となる地面に鈴村が一歩足を踏み込むと、そこがぐにゃりと陽炎の

ように歪む。

 すると、日常の風景が、一瞬にして乾いたコンクリートの灰色へと反転して

いく。


ざざざっ。


 耳鳴りのような砂嵐の音が響き、鈴村の身体がまるで水面に沈み込むかのよ

うに足元からその歪みの中へと飲み込まれていった。


「……え? なんだ、これっ!」


 鈴村の口から、困惑した声が漏れる。

 航は咄嗟に手を伸ばした。

 しかし、鈴村の腕を掴んだ瞬間、航自身の視界も大きく反転し、強烈な引力

でもって引きずり込まれていった。


「うわあっ!」


 二人はもつれ合うように、冷たいコンクリートの地面に転がり落ちた。

 舞い上がる砂埃の中。見上げれば、ひび割れた灰色の空と、ところどころ空

間が欠落して黒い穴が空いた四十二号棟がそびえ立っていた。

 耳には、遠い重低音がうねるように響き渡っている。


「な、なんだよここ……! なんなんだよ、これっ!」


 パニックを起こしたのか、尻餅をついたまま後ずさる鈴村の肩を、航は強く

掴んだ。


「立つんだ、鈴村! ここに長居はできない!」

「宮瀬!? お前、……ここ、どこなんだよ! 団地なのか!?」


 あおぞら公園の「傘のベンチ」を介さずに、異界の団地が現実の人間を飲み

込んだ。危惧していたように、境界線が壊れてしまったのか?

 航は、混乱する鈴村を立たせるとその腕を強引に引っぱり、崩落の進む道を

駆け出した。

 背後でコンクリートが崩れるような、不穏な音が響く。

 傘のベンチまで走る余裕はない。だが、異界が壊れつつあるということは、

今航たちが入ってきたように、他にも空間の「ほころび」があってもおかしく

はない。


「宮瀬、前! なんだ、あれ!」


 鈴村がそう言って指した指の先。

 その灰色の虚空には、不自然に四角く切り取られた「空間の裂け目」が浮い

ていた。裂け目の向こうには、見慣れた校舎の裏手の景色と青空が映し出され

ている。


「あの中に向かって跳ぶぞ! 息を止めろ!」


 航は鈴村を引き寄せるとその背中を強く押し、自らもその裂け目に向かって

飛び込んだ。


とぷん。


 世界が、色彩を取り戻した。

 二人は土煙を上げて、校舎の裏手のグラウンドへと転がり出る。

 遠くから、体育教師の笛の音と、他の生徒たちが走る足音が聞こえてくる。

 あの中でどれだけ走っても、現実の時間は一秒たりとも進んでいないことを

航は再確認する。


 航はゆっくりと立ち上がると、強く息を吐いた。

 地面に座ったままの鈴村は、自分の手を何度も握り直し、目の前の校舎と青

い空を交互に見ては、震えを隠せないでいた。


「今のは……夢か? 俺、さっき変な場所に」

「鈴村」


 航は、背中に流れる冷たい汗を感じながら、鈴村を見下ろす。

 その目は、尋常ではない切迫感を帯びていた。


「……頼む。何も聞かないでくれ」

「宮瀬……?」

「今見たことも、あったことも……全部忘れてくれ。頼むから」


 そう言葉を絞り出すと、航は鈴村の返事を待たずに走り出した。


 持久走の列に戻っていく航の背中を、鈴村はただ呆然と見送っていた。


◆

 

 放課後。


 新田と話すようになって以来、恵理は図書室に寄ってから帰ることが多くな

った。

 最近では、長谷川と一緒になることもあった。


「新田さんの件、本当にありがとう、長谷川さん」

「礼には及ばないわ。私は不条理な事が嫌いなだけ。……それに」


 人気のない奥の開架書架の間。

 長谷川が眼鏡の枠を指で押し上げ、恵理に視線を向ける。


 その時。


 カタリ、と図書室の窓ガラスが一斉に不気味な音を立てて、震える。

 風など吹いていない。けれど、部屋の中の色彩が急速に失われていく。

 鮮やかだった本棚の背表紙が、壁のポスターが、白黒写真のように色を失

い、影が引き伸ばされていく。


「な……何かしら、これ。……地震?」


 長谷川が不審そうに周囲を見回した瞬間、床が抜け落ちるような浮遊感が二

人を襲った。

 時間にして、ほんの数瞬だったであろうか。

 気がつくと、二人が立っていたのは図書室ではなく。

 そこは風の吹き抜ける、団地の屋上だった。

 空は淀んだ灰色で、足元のコンクリートからは不気味な黒い影が生き物のよ

うに蠢きながら、滲み出てきている。


「ここ……武山団地? なんで……、一瞬で?」


 いつも冷静な長谷川の顔からは余裕が消えていて、こちらへとにじり寄って

くる複数の黒い影に気づくと、無意識に後ずさりはじめていた。


「長谷川さん、下がって……!」


 恵理は、長谷川の腕を引くと、自分の後ろへ誘導する。

 異界の影たちは、恵理たちに向けてその牙をむいてきているのだ。

 しかし、その手が足が、恵理の足元へ届く直前、彼女のスカートのポケット

のあたりで、チカッ、と小さな光が瞬いた。


「え……?」


 伸びてきた黒い影が、まるで熱した鉄に触れたかのようにビクリと後ずさり

はじめ、恵理から約一メートルほど手前で、ピタリと動きを止めたのだ。

 ポケットの中で光っている物を取り出すと、それは航が不格好ながらも作っ

てくれた、あの赤いタイルを閉じ込めたレジンのキーホルダーだった。

 まるで目に見えない円形のバリアが張られたように、恵理と彼女にしがみつ

いている長谷川の周囲だけ、黒い影が侵入できずにいるのだ。


(……タイルの境界が、効いてる……!)


 恵理は辺りを見回すと、目をこらして出口となる場所を探す。

 ふと屋上のフェンスの脇に、ここではそぐわないものが立っているのが見え

た。

 それは、コンクリートの床の上にぽつんと自立している、木製の重厚な両開

きの扉。間違いなく、現実の図書室の入り口の扉だった。

 その扉のガラス越しに、向こう側の光が漏れ出しているのが、見てとれる。


「あそこ……! あの扉が現実への出口です」

「扉って……どういうことなの、新城さん! あなた、この場所を知っている

の!?」

「走ってください、私から離れないで!」


 恵理は長谷川の手をとると、強く握りしめる。

 影の隙間を縫うように駆け抜け、自立した図書室の扉を力任せにスライドさ

せると、長谷川を庇うように二人してその光の中へと飛び込んだ。


ガタタッ!


 図書室の奥、重い木製本棚の陰で、鈍い音が響いた。

 二人は現実の図書室の床に膝をつき、倒れ込むようにして突っ伏していた。

 空調の微かな羽音。ページをめくる静かな音だけが聞こえる、静まりかえっ

た放課後の図書室。


 長谷川は膝をつき、激しい呼吸を繰り返していた。

 眼鏡が少しずれており、その瞳は驚愕と未だ残る恐怖との間で揺れていた。


 一足先に我を取り戻した恵理は、すぐにスマホで時間を確認した。

 今日の授業が終わって図書室へ来た時間を思い出すと、まだそれほどたって

はいない。やはり、異界と現実との時間差はなかったようだ。

 異界での出来事は現実の時間にしてほんの一瞬。まばたきひとつの間に起こ

って、終わっていた。


「……っ」


 長谷川は床に手をつき、肩を激しく上下させながら必死に呼吸を整えようと

していた。

 数メートル離れた閲覧席にいた数名の生徒が彼女の荒い呼吸に驚いて、ちら

りと書架の隙間に視線を向けてくるのが気配で分かった。

 長谷川は息を殺し、必死で指先の震えを抑えながら、すぐ横の書架の棚板を

掴んで立ち上がろうとした。そして、心配そうにこちらを見ている遠くの生徒

たちに向け、片手を少しだけ上げて見せる。


「……すみません、少し貧血で目眩がしただけです。お騒がせしました」


 いつもの冷静さを意識して絞り出したその声に、遠くの生徒たちは「なん

だ、立ちくらみか」と納得したように視線を本に戻した。

 だが、長谷川の背中には冷たい汗が噴き出していた。


 人目が逸れたのを見計らい、長谷川は中腰の姿勢のまま、すがりつくような

目で恵理を見上げた。


「今のは……何? 私たちは、一体どこへ……?」


 いまだ震える、長谷川の問いかけ。

 恵理は固く目をつむり、胸の前で強く手を組んだ。

 喉の奥から絞り出す声は掠れ、長谷川の耳にしか届かないほど小さかった。


「ごめんなさい……。ごめんなさい、長谷川さん。……私、何も言えないの」

「新城さん……」

「ごめんなさい……!」


 溢れんばかりの涙を瞳に溜め、固く口を閉ざす恵理の姿に、長谷川はそれ以

上追及することができなかった。

 自らの理屈では説明のつかない恐ろしい現象と、友人が抱え込んでいるあま

りに深い秘密の重さを感じ、ただ言葉を失って立ち尽くすしかなかった。


◆

 

 あおぞら公園の端にひっそりと佇む「傘のベンチ」の前に、航と恵理の姿が

あった。

 だが、二人の間に流れる空気は、いつものような穏やかなものではない。


「……長谷川さんを、巻き込んじゃった」


 恵理の絞り出すような声は、ひどく震えていた。


「こっちは鈴村だ。グラウンドの裏を走っていたら、急に足元の空間が歪んで

……俺が引きずり出さなかったら、あいつ、そのまま異界の底に落ちてたかも

しれない」


 あらためて五時間目のことを思い出している航の額には、冷や汗が滲んでい

た。

 二人だけの秘密にしていた異界が、最も最悪な形で現実を侵食し始めた。

 大切な友人たちを巻き込んでしまった罪悪感と、始まってしまった崩壊への

焦りが、二人から余裕を奪っていた。


 目の前にある異界への入り口、傘のベンチの周囲は、あからさまに異常をき

たしていた。

 空間が陽炎のようにぐにゃりと歪み、耳を澄ますと、遠くでコンクリートが

砕けるような不気味な雑音が漏れ聞こえてくる。

 まるで、次元の継ぎ目が悲鳴を上げているかのようだった。


「……行くの、やめるか?」


 航はベンチを睨みつけたまま、そう口を開いた。


「見ろよ。入り口からして、もうまともじゃない。今あの中に入ったら、二度

と現実に戻ってこられないかもしれない」

「でも……っ」


 恵理は両手を痛いほど握りしめ、首を横に振る。


「宮瀬くんが作ってくれた、このキーホルダー。本当に、私と長谷川さんを影

から守ってくれたの。これがあったから、影の海の中を走って逃げられたの」

「……ほんとか?」


 航の目が、驚きに見開かれる。

 恵理は制服のポケットの上から、赤いタイルの入ったキーホルダーを軽く押

さえる。


「うん。だから大丈夫。……確かめたいの。もしあの空間が完全に壊れて、周

りの人たちをもっと巻き込むようになったら……いやだよ」


 その言葉に、航は息を呑んだ。

 そうだ、もう見ないふりをして逃げられる段階は過ぎている。


「……行こう」

「うん」


 二人は深く息を吸い込み、歪み続ける傘のベンチへと、足を踏み入れた。


 一瞬の目眩のあと、視界に広がったのは惨状だった。

 空を覆う濁った灰色には巨大な蜘蛛の巣のような亀裂が走り、パラパラと空

の破片が砂のように降ってきている。

 遠くに見えるいくつかの棟はすでに物理的な形を維持できず、ドロドロとし

た黒い虚無に呑まれかけていた。

 昨日まで二人が共有していた「ささやかな日常」など、もうどこにも残って

はいなかった。


「気をつけて進もう。道が、今までとは違う」


 航が恵理の腕を引き寄せる。

 かつて歩き慣れたはずの通路はねじ曲がり、階段は途中で切れ、空間の繋が

りがでたらめだった。

 二人は足元から這い寄る影を避けながら、まだ完全に崩壊していない建物を

頼りに、団地の奥へと慎重に探索を進めていく。

 迷路のように変わり果てた異界の中で、二人は見覚えのある「そこ」に辿り

着いた。


 四十七号棟の裏手。

 二人で「現実の団地を知りたい」とあてもなく歩き回り、不可解な胸のざわ

つきとモヤモヤした違和感を抱え込んだ、あの小さな公園だった。


「ここ……」


 恵理が絶句する。

 団地の大半が消え去り、崩壊の一途をたどる異界の中で、そこだけがポツン

と取り残されていた。

 公園の中央に鎮座するのは、古い地球儀型のジャングルジム。

 現実の公園で見たのと同じ、青と白に塗り分けられた錆びついた鉄の球体。

 そして、日本の位置にあたる部分の赤い塗装が、ぽっかりと不自然に剥げ落

ちている。


(どうして異界にも、これがあるんだ……?)


 あの日、現実の公園で「裏側で見えないはずの赤い塗装の剥げ」を恵理がな

ぜか知っていたこと。

 駐輪場の雨宿りで、教わった覚えもない二人共通の「雨宿りの歌」を自然と

口ずさんでしまったこと。

 給水塔の陰で見つけた、消えかけた三つの傘の落書き。


 ずっと胸の奥に重く沈んでいた不可解な事象の数々が、目の前のジャングル

ジムを前にして、狂おしいほどの存在感を放ち始める。

 歪みはじめている空間の中で、なぜかそのジャングルジムの周りだけが、時

を止めたように静まり返っていた。


 ふらふらと、恵理がそれに吸い寄せられるように歩み寄る。

 航も、その後を追う。

 恵理がゆっくりと手を伸ばし、日本の位置にある剥げた赤ペンキの跡、冷た

い鉄のフレームへと指先を触れさせる。

 その瞬間。


キリキリキリキリキリ!


 錆びついた金属が軋むような鮮烈な衝撃と音が、航と恵理の脳裏を同時に突

き抜けた。


『う……うわぁぁん! おかあさん……っ!』

『泣かないでよ、えりちゃん……。ぼくもここがどこか、わかんないけど』


 頭の中に激流のようになだれ込んできたのは、抜け落ちていた幼い頃の記

憶。

 十数年前の、まだ武山団地が活気に満ちていた頃。

 同じ小学校に通う二人は、探検と称してこの武山団地までやってきていた。

 そして迷子になり、夕暮れの団地で泣きじゃくっていた幼い恵理と、彼女の

手を引いて震えていた幼い航。

 少しずつ暗くなっていく世界の恐怖に押しつぶされそうになっていた二人の

前に、ふわりと舞い降りたものがあった。

 それは、半透明の姿をして淡い光を纏った、自分たちと同じくらいの子供。


『ふたりとも、泣かないで?』


 鈴の転がるような、幼く、どこまでも優しい声。

「それ」は、地球儀のジャングルジムの前に立ち、二人をやわらかく見つめな

がらその小さな手を差し出してきた。


『ここはね、とっても安全な場所なんだよ。誰もふたりをいじめないし、こわ

いおとなもいないの』

『ほんとう……?』

『うん! だから、やくそくしよう?』


 泥だらけの手。

 ブリキの屋根に弾ける雨音と、三人で交代しながら歌った雨宿りの歌。

 給水塔の陰に三人で描いた、三つの傘の落書き。


 半透明の小さな指が、幼い恵理と航の小指に、きゅっとあたたかく絡みつ

く。


『ふたりが大人になるまで、この場所をずっと守ってあげる』


 指切りをした、あの確かな優しいぬくもり。


「あ……っ」


 恵理の瞳から、涙が一粒こぼれ落ちる。

 ジャングルジムから弾かれたように手を離し、呆然と自分の小指を見つめる

 航もまた、呼吸を忘れたかのように立ち尽くしていた。


「私たち……出逢っていたんだ。ずっと前に……この場所で」


 あの雨宿りの歌の、三人目のフレーズ。

 三つの傘の横に並んでいた、消えかけていた三人目の存在。

 落としてしまっていた記憶が、崩壊していく箱庭の中で、ついにひとつへと

繋がろうとしていた。

次回、幕間の話です。

今度は鈴村大介くんの視点です。

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