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第十話 : 幕間四 : 観察者のまなざし

今回は、新田葵の視点です。

他にも、勢揃いですね。

 図書室の空調が、微かに心地よい風を送ってくれる。

 窓から差し込む午後の柔らかな光の中、新田葵は真新しいノートのページを

開き、シャープペンの先をそっとその上に置いた。

 あの日、スマホの中で渦巻いていた真っ黒な悪意から救い出されてから、二

週間。

 新田の日常には、穏やかに文字を書き留める、静かな時間が戻ってきてい

た。


「新田さん、こんにちは。今日のおすすめ、何かある?」


 ふわりと図書室の空気が動く気配がして、新城恵理がカウンターに顔を出し

た。

 あの事件以来、彼女はよくこうして図書室を訪れ、新田に話しかけてくれる

ようになった。物静かな新田に対して、恵理の語り口はいつも優しく、押し付

けがましさがない。


「新城さん。……この短編集、新城さんが好きそうな文体だと思う」

「ほんと? ありがとう、借りていくね。……あ、そういえばね」


 恵理は貸出カードを書きながら、ふと思い出したようにくすくすと笑った。


「昨日、宮瀬くんったらすごく変な顔をしててね。購買で売り切れだったパン

を鈴村くんに半分もらったらしいんだけど、それが激辛のカレーパンでね。宮

瀬くん、辛いのが苦手なのに断れなくて、涙目で食べてたの。もう、おかしく

て」


 楽しそうに語る恵理の横顔を見つめながら、新田は密かに心の中の「正の

字」に、三本目の線を引いた。


(今週は、これで宮瀬くんの話題、三回目)


 彼女と話していると、その口からは、たびたび「宮瀬航」の名前が出てく

る。彼らは同じクラスではあるが、決して周囲に「付き合っている」と認識さ

れているわけではなかった。学校内でも、そんなそぶりを見せることもない。

 しかし、新田の「観察者」としての目が、二人の「特別」な行動を捉えてい

た。


 恵理が図書室を出ていくのを見送った新田は、そっと窓際へと移動した。

 そしてその窓から、すぐ下にある渡り廊下を見下ろす。

 そこに、気だるげに歩く宮瀬航の姿がある。

 すると、その後ろから恵理が小走りで追いつくと、二人は並んで歩き出し

た。

 手を繋ぐわけではない。肩も触れ合うほどではない。

 けれど、その「距離感」が、不思議なほどに自然なのだ。

 恋人同士の甘い距離でもなく、ただのクラスメイトの無関心な距離でもな

い。まるで、二人の間には透明な境界線があって、でもそれは、強い信頼とい

う引力によって繋がれているかのようでもあって。

 二人はこれから、どこに向かうのか……。


 長谷川が以前言っていた「二人だけの秘密基地があるみたい」という言葉

が、新田の腑にすとんと落ちた。


(……何、あの二人。すごく、いい……)


 ゾクッ、と。

 新田の背筋を、強烈な電流が駆け抜ける。

 彼女の中の「小説家魂」が、猛烈な勢いで湧き上がってきた瞬間だった。

 新田は小走りでカウンターに戻ると、広げたノートに狂ったような速度で文

字を書きつけ始めた。


『平凡を装う少年と、彼に絶対の信頼を寄せる少女。二人は放課後、誰にも見

えない秘密の世界へと足を踏み入れる――』


「あら。ずいぶんと筆が進んでいるようね」


 背後からかけられた声に、新田は「ひゃい!」と短い悲鳴を上げてノートを

隠す。

 あわてて振り返ると、腕を組んだクラス委員長の長谷川亜美が、眼鏡の奥の

瞳を小さく和ませて立っていた。


「は、長谷川さん……! い、いつからそこに……」

「そうね、『平凡を装う少年』のあたりからよ」


 長谷川はふむ、と口元にかすかな笑みを浮かべ、新田のノートに目線をや

る。


「いい設定ね。モデルは言うまでもなく、宮瀬くんと新城さんかしら」

「ち、違っ……!」

「隠さなくてもいいわ。むしろ、大賛成よ」

「……え?」


 長谷川は図書室の椅子を静かに引き、新田の隣に腰を下ろした。


「実は私も、あの二人についてはずっと気になっていたの。クラス委員長とし

てみんなの様子を見るのは当然なんだけれど……新城さんのことは、大切な友

達だと思っているから」


 長谷川は眼鏡の枠を指先で少し直すと、どこか柔らかい眼差しで言葉を続け

た。


「新城さんって、普段はとても穏やかで優しいけれど、時々ふっと……誰も触

れない遠い場所を見ているんじゃないかって顔をするの。一人で何か大きなも

のを抱え込んでいるんじゃないかって、心配になることがあるのよ」

「長谷川さん……」

「でもね、不思議と宮瀬くんが近くにいる時だけは、その緊張が解けているの

よ。日直の仕事でさりげなくフォローし合っていたり、放課後、時間差で教室

を出ているのに、武山団地の方角へ向かう足取りが同じだったり。二人だけの

呼吸があるのよね」


 新田は思わず息を呑んだ。

 鋭い観察眼でありながら、そこにあるのは好奇心だけではなく、二人を見守

る温かな友情でもあった。


「二人が二人でいる時のあの独特の空気感……きっと言葉にするのは難しいで

しょうけれど、新田さんのその瑞々しい感性なら、すごく素敵な物語になると

思うわ。遠慮なく観察して、作品に昇華しなさいな」

「長谷川さん……ありがとうございます!」


 新田の心が温かいもので満たされた、その時だった。


「おい長谷川! こんなとこにいたのか。出し忘れてたアンケートもってきた

ぞ!」


 バンッ、と勢いよく図書室のドアを開けて鈴村大介が飛び込んできた。

 スタスタと近づいてくる鈴村の目は、新田のノートと彼女が握りしめたシャ

ープペンを逃さなかった。


「おっ! 新田、もしかしてまた新しい小説書いてんのか!?」

「あ、いや、これは、その……ただのメモで……!」

「すげえじゃん! 落ち込んでたから心配してたけど、もう書けるようになっ

たんだな!」


 鈴村はパァッと顔を輝かせ、大きな手でぽんぽんと新田の背中を叩いた。


「いやー、楽しみだな! 次はどんな話だ? バトルか? 恋愛か? まあ何でも

いいや、お前の書く文章、俺すげえ好きだし! 完成したら絶対一番に読ませ

ろよな!」

「す、鈴村くん……声が、大きいです……」

「新田の新作、期待してるからな! 頑張れよ先生!」


 鈴村は親指をぐっと立てると、満足そうに去っていく。

 図書室に残されたのは、呆然とする新田と、鈴村から手渡されたプリントの

内容を確認しながら苦笑する長谷川だった。


「相変わらず賑やかね。でも……純粋な期待って、一番のプレッシャーかし

ら?」

「……長谷川さんも鈴村くんも、本当に無茶苦茶です」


 新田は深くため息をついた。

 しかし、その顔に嫌な影は少しもなかった。

 かつて彼女の心を縛り付けていた「見えない悪意の文字」はもう存在しな

い。今、彼女の目の前にあるのは、親身になって応援してくれる仲間たちの温

もりだった。


「……書きます。あの二人の、誰にも踏み込めない秘密の距離を、私なりの言

葉で」

「ええ。楽しみにしているわよ、新田先生?」


 長谷川が静かに席を立つと、新田は再びノートへと向き直る。

 その頭の中に浮かぶのは、夕暮れの帰り道を並んで歩く、不器用な少年と優

しい少女の背中。

 新田のペンは、真っ白な紙の上を止まることなく動き続けていた。


次回からいよいよ、最終話へと至るお話が始まります。

もう少しばかり、お付き合いいただければ幸いです。

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