第34話「酔いの手前」
アンドロイドのメイド「ヒナ」は、日々の業務をこなし、決められた動作を繰り返す。そして、業務を終えた後、その日の出来事を日記に綴る。
壊れた時計、見慣れない来客、うっかりこぼした紅茶——ただの記録にすぎないが、そこには確かに「今日」が刻まれている。
これは、感情のないメイドが紡ぐ、静かな日常の記録。ただそれだけの物語。
2025年7月4日(金)
買い出しの業務へ移行。向かったのは、近くの商店街。
今日は金曜日。まだ日が高い時間帯だったが、通りはすでに多くの人でにぎわっていた。
主婦や高齢者、学生、作業服姿の人々が行き交い、袋の音や呼び込みの声、子どもの笑い声があちこちから聞こえてくる。アーケードの隙間から差し込む陽射しが、舗道にまだらな光を落としていた。
私は記録する「商店街の活性度。平日午後の集客は高水準。季節要因と週末前の購買行動が影響」
酒屋の前を通りかかると、「特売日」と書かれたのぼりが目に入った。
ご主人様の晩酌用ビールが残り少ないことを記録していたため、立ち寄ることにする。
店内には、ビール、ウイスキー、ブランデー、焼酎、日本酒、ジン、ウォッカ、ラム、テキーラなど、さまざまな酒が並んでいた。特産ワインには専用のスペースが設けられ、装飾も華やかだった。
目的のビールを手に取り、レジへ向かう途中、レジ横に置かれた「日本酒利き酒セット(3種)」が目に留まる。ご主人様が日本酒を飲まれる姿はこれまで確認されていないが、嗜好の変化に備え、購入を決定。
帰宅後、ご主人様は入浴。
その間に、利き酒セットをテーブルに並べ、簡単なつまみも用意。冷やしトマト、塩昆布、焼き海苔、少量のチーズ。
いつもなら冷えたビールを出すところだが、本日は趣向を変える。ご主人様、浴室から出てテーブルを見やる。
「なんで日本酒が?」
「本日、酒店にて利き酒セットが販売されておりましたので、購入してまいりました。日本酒はお飲みになれますか?」
「好きだが、日本酒は飲みだすと止まらないんだよな……」
「明日はお休みでございますし、少しだけいかがでしょうか」
「まあ、たまになら……お、有名どころのが揃ってるんだな」
ご主人様はラベルを一つひとつ確認する。
新潟の純米吟醸、山口の大吟醸、秋田の生貯蔵酒。
そのうちの一本を開け、お猪口に注ぎ、静かに口元へ運ぶ。
酒の香りがふわりと立ちのぼり、ご主人様の指先がわずかに緩む。
一口、喉を鳴らして飲み干す。
「…やっぱ美味いな」
「日本酒でお好きな銘柄はあるのでしょうか。今後の参考に教えてください」
「まあ、高い酒は大体美味いが、手ごろなものなら青森だな」
私は記録する「嗜好の傾向:日本酒は好物。青森産に対する信頼性高。今後の購買選定に反映」
ご主人様は、残る二本も順に開けていく。
注がれるたびに、酒の香りが部屋に広がり、空気が少し甘くなる。
合間に、冷やしトマトを一切れ、塩昆布を少しつまみ、また酒を口に含む。
焼き海苔を指先でつまみながら、静かに味わうように飲み進めていく。
三本の瓶は、時間をかけることなく空になった。
「んー…少し物足りないな。ほかに日本酒ないか?」
「料理酒で使っているものでよろしければお出しできます」
「そうか、熱燗にしてくれ」
調理用の日本酒を湯煎で温める。湯気が立ちのぼる中、テレビを見ながらご主人様は静かに待つ。
熱燗を出すと、ご主人様は湯気の立つ酒をお猪口に注ぎ一気に飲み干した。
顔にはうっすらと紅が差し、動きにも少し揺らぎが見える。
「やっぱり止まらんな……」
私は記録する「飲酒量は通常時を超過。表情と動作に緩み。酩酊初期段階と推定」
ご主人様は背もたれに体を預け、目を細める。
その表情は、いつもの無口さとは少し違い、どこか柔らかく見えた。
熱燗もまた、あっという間に空になった。
業務完了
今日も日記を書き終えた。記録は完了。机の上を整え、椅子を元の位置に戻し、次のルーティンへ移行する。
紅茶を淹れ、カップを持ち、窓辺へ向かう。夜の街は静かで、遠くの光が瞬いている。
息をつき、一口飲む。適温。今日も紅茶は美味しい。
業務終了まで、あと10分。最終点検を終え、私は記録する。
「本日、業務終了。異常なし。」
そして、静かに照明を落とす。
また、次の日記で——




