第9話 令嬢の嗜みと、残された便箋
アドラー侯爵邸のサロン。
午後の柔らかな光が差し込む部屋で、リリアーナは洗練された立ち振る舞いの家庭教師、マダム・ヴァレンティノと対峙していた。
「お嬢様、肘の角度が三分上がっております。アドラー侯爵家の令嬢たるもの、優雅さは爪の先、茶葉の一粒にまで宿らねばなりません」
「申し訳ありませんわ、マダム」
リリアーナはすっと背筋を伸ばし、銀のティースプーンを寸分の狂いもなく皿に添えた。
かつて前世の記憶を取り戻す前のリリアーナなら、この厳しい貴族の教養レッスンに溜息をついていたかもしれない。だが、今の彼女の目はキラキラと知的な光で輝いていた。
マダムが満足そうに頷き、茶葉の缶を開いて見せる。
「本日学ぶのは、南方の高山地帯で採れる『アルト・ブラック』の茶葉の効能と、それに合わせる最適な温度、そして文官をはじめとする頭脳労働者の方々への効能についてです」
(文官の方々……!!!)
リリアーナの頭の中で雷が落ちた。
「この茶葉は強いカフェインと、脳の血流を促す香気を孕んでおり、集中力を長時間維持させるのに最適な品です。ですが、注ぐ湯の温度が一度でも高いとエグみが強く出ますの」
「注湯の温度と、抽出時間……! マダム、それは具体的に何度が最も望ましいのですか!?」
「まあ、お嬢様。……本日はやけに質問がお多いですのね。……もしやまた、文官の方々のお仕事についてのお話に関心が?」
マダムは不思議そうに首をかしげつつも、教え子の溢れんばかりの探求心にどこか好ましそうな眼差しを向け、丁寧にお茶の淹れ方を説いていく。ただ押し付けられる勉強ではなく、新しい世界を知る面白さに、リリアーナの心は踊っていた。
授業が終わると、リリアーナは私室へ駆け込み、専属調合師の老人・バルトを呼び出した。
「バルト! 南方の『アルト・ブラック』に、先日お渡しした柑橘のハーブを微量ブレンドすることは可能かしら!?」
「ほっほ、お嬢様。理論上は可能でございますが……試作と熟成には三日ほどいただきますぞ。集中力向上と脳疲労回復を同時に狙う、特注品になりますでの」
「三日! 楽しみに待っていますわ、急ぎで作って頂戴!」
『推し活ノート』を開き、リリアーナは猛烈な勢いでペンを走らせる。
『長時間の頭脳労働には「集中力を維持する茶葉」と「リラックスさせる茶葉」の使い分けが必要!』
『次は文官の方々の「お仕事の時間帯」についても、もっと詳しく調べてみようかしら!』
リリアーナはペンを走らせる手を止めない。
知るということは、こんなにもワクワクすることだったのだ。次に学ぶことが、もう楽しみで仕方がなかった。
♢
翌日の昼下がり。王宮『第三文官執務室』。
「……おい、キャメロン」
室長は胃薬の瓶を机に置いたまま、死んだ魚の目でシードを凝視していた。
「はい、室長」
「お前の胸ポケットにある……その、折りたたまれた紙切れはなんだ。いや、なんですか?」
「……リリアーナ様からいただいた、お茶のメモです」
「椅子、 文房具、照明、お茶、そして手紙! 完璧な外堀の埋め方だな!! 俺の胃が破滅する前に、頼むからアドラー侯爵家に『第三文官室長は良い人でした』って書き残しておいてくれ!!」
「……室長、不祥事でもおこしたのですか」
「不祥事ちゃうわ!! なんかお前らの絆が怖すぎるんだよ!!」
室長が叫んだその時、トコトコと軽やかな足音とともに扉が開いた。
「ご機嫌よう、シード様!」
リリアーナがやってきた。抱えているのは、新しい大きな木箱――ではなく、小さな手帳だ。
(今日も顔が良い!!)
(ああっ! 胸ポケット!! 私が昨日お渡ししたメモが、シード様の胸ポケットからちょこんと覗いているわ!!)
「ご機嫌よう、リリアーナ様。……昨日は、お茶のメモをありがとうございました」
シードが静かに頭を下げると、胸ポケットのメモにそっと指先が触れた。
「まあ! お役に立てて嬉しいですわ! 実は私、昨日もお茶の効能について新しく勉強いたしましたの。もっと知識を深めてまいりますね!」
「……そこまで、学ばれるのですか」
シードの漆黒の瞳が、わずかに大きく開かれる。今までのような単なる「驚き」ではなく、彼女の熱意そのものを受け止めるような深い眼差しだった。
「当然ですわ! 知るということは、とっても楽しいことですもの! それでは、今日もお勉強の続きがありますので、これで失礼いたしますね!」
嵐のように去っていく十歳児。
その背中を、シードは静かに見送っていた。
♢
静まり返った第三文官執務室
シードは一人、魔導ランプの柔らかい光の下で、デスクの端を見つめていた。
自分のために、お茶のことまで学ぼうとしてくれている。
シードの視線が、胸ポケットの小さなメモへと落ちた。
『お仕事の合間に、どうかご自愛ください。 リリアーナ』
(……ご自愛ください)
静かな夜の部屋で、その温かな文字を見つめる。受け取るばかりの自分でいいはずがない。
シードは静かに、デスクの一番上の引き出しを開けた。
そこにあるのは、一枚の真っ白な便箋と、彼女がくれた特注の万年筆。
そして、便箋を引き出しから取り出し、デスクの上へと静かに置いた。
まだ、ペン先は下ろさない。
文字を紡ぐには、あまりにも自分の言葉は拙く、返すにふさわしい重さを持ち得ていないから。
けれど、シードはもう便箋を引き出しの奥へ戻すことはしなかった。
デスクの傍らに置かれた真っ白な紙を見つめ、シードはポツリと、誰もいない静寂の中に呟いた。
「……ありがとうございます」
ぽつりと落ちた声は、温かな魔導ランプの光に溶けていく。
シードは静かに書類へ視線を戻すと、淡々と夜の作業へと取り掛かった。
デスクの隅には、一枚の便箋が静かに置かれていた。
引き出しへ戻されることのなかった白い紙は、魔導ランプの柔らかな明かりを受けながら、夜更けまでそこに残り続けていた。




