第8話 シード様への小さなメモ
アドラー侯爵邸へ帰ったリリアーナは、夕食と入浴を済ませると、自室の机で『シード様・環境改善&尊さ観測記録』を開いていた。
今日のページには、第三文官執務室で気づいたことがすでにいくつか書かれている。その続きを埋めるように、リリアーナは万年筆を走らせる。
『シード様が淹れてくださったハーブティー、とても美味しかったですわ!』
『お仕事の途中でちゃんと休憩してくださったのも素晴らしい。今後も続けていただきたい』
自分が持っていった茶葉を、シード様が淹れてくれた。それだけでも十分すぎるほど嬉しいけれど、何より大切なのは、書類から手を離してお茶を飲む時間ができたことだ。
シード様はお仕事が大好きだ。それは素晴らしい。推しが楽しそうに書類を捌いている姿など、いくらでも眺めていられる。
でも、身体を壊すまで働いてほしいわけではない。
椅子に万年筆、ランプ、ハーブティー。こうして並べてみると、最初の頃よりシード様の机まわりもずいぶん快適になっている。
「順調ですわね……」
「何が順調なのでございますか?」
ベッドの支度を終えたマリーが、いつの間にか机のそばまで来ていた。
「もちろん、シード様の労働環境改善計画ですわ」
「まだ計画は続いていたのですね」
「当然でしょう?」
終わったつもりなど一度もない。シード様が健康で、快適に、大好きなお仕事を思う存分楽しめる環境を作る。それこそがリリアーナの推し活なのだから。
「ですがお嬢様、そろそろお休みのお時間でございます」
「分かっていますわ。今日はもう終わりに……あ」
記録帳を閉じかけたところで、大事なことを思い出す。
「マリー。ハーブティーの淹れ方をお伝えしていませんでしたわ」
渡した茶葉は、熱湯を注いで三分ほど蒸らすと香りがよく出る。普通に淹れても飲めるけれど、せっかくシード様が飲んでくれるのだから、一番美味しい状態で楽しんでもらいたい。
「次にお会いした時にお伝えしてもいいのですけれど、書いてお渡しした方が分かりやすいですわね」
「茶葉のそばに置いておけば、淹れる時にも確認できますね」
「それですわ!」
閉じたばかりの記録帳を横へ寄せ、小さな紙を用意する。熱湯を注いで三分ほど蒸らすこと。好みで蜂蜜を入れても美味しいこと。それだけなら、すぐに書き終わる。
けれど最後に、もう一言だけ付け加えた。
『お仕事の合間に、ゆっくりお飲みくださいませ』
「できましたわ!」
満足のいく仕上がりだ。翌朝忘れないようマリーに預けておけば、準備は完璧である。
「これでシード様には、一番美味しい状態でハーブティーを楽しんでいただけますわね」
「はい。ですから今度こそお休みくださいませ」
「分かっていますわ」
返事をしながらも、頭の中にはすでに、仕事の合間にお茶を飲むシード様の姿が浮かんでいる。
明日渡すのが楽しみだった。
♢
第三文官執務室を訪れたリリアーナは、シードが書類を書き終えるのを待ってから机へ近づいた。
「シード様。ハーブティーのことで、お伝えし忘れていたことがありますの」
「何でしょうか?」
「こちらですわ」
差し出した小さな紙を、シードが受け取る。
『熱湯を注いで三分ほど蒸らすと、香りがよく出ます。お好みで蜂蜜を入れても美味しいですわ。お仕事の合間に、ゆっくりお飲みくださいませ。 リリアーナ』
「この茶葉は、三分くらい置くと一番美味しいのです。せっかく飲んでいただくなら、美味しく召し上がってほしくて」
「ありがとうございます。次に淹れる時は、この通りにしてみます」
「ぜひ! 蜂蜜を入れるのもおすすめですわ」
シードは紙に目を通し、茶葉の入った缶のそばへ置く。
「蜂蜜を入れると、味はかなり変わりますか?」
「甘みは出ますけれど、香りも楽しめますわ。疲れている時にはおすすめです」
「それなら、仕事の合間にもよさそうですね」
「はい! でも最初はそのまま飲んでみてくださいませ。わたくしはその方が好きですの」
「分かりました。では、次はそうしてみますね」
(シード様がわたしくしの好みの飲み方で飲んでくださる!)
「ありがとうございます、シード様。それでは、お仕事の続きをなさってくださいませ」
「はい。淹れ方まで教えていただき、ありがとうございました」
リリアーナがいつもの場所へ向かえば、シードも机の書類へ戻っていく。
♢
夕方になり、シードは今日の仕事を終えた。
書類を所定の場所へ戻し、使っていた万年筆をしまう。茶葉の缶も棚へ戻そうと手を伸ばしたところで、その横に置いてある紙が目に入った。
(このままでは、別の書類に紛れるかもしれない)
シードは紙を手に取り……目を瞑った。
最初にリリアーナ様がこの執務室へ来た頃は、戸惑うことの方が多かった。どうして自分なのか、なぜここまで気にかけてくれるのか。
答えはでない。
けれど、リリアーナ様が笑顔で自分の机までやってくることも、仕事を褒めてくれることも、身体を心配してくれることも、どれも本気で僕に向き合ってくれていることがわかる。
もちろん、それを当たり前だと思ったことはない。
椅子を使い始めてから、長く座っていても身体が楽になった。万年筆のおかげで指の負担も減り、ランプがあれば夕方でも書類を読みやすい。茶を飲むようになってからは、仕事の途中で手を休める時間もできた。
どれも、リリアーナ様が自分を見て考えてくれたものだ。
今日は、その茶を美味しく飲むための小さな紙まで持ってきてくれた。
とても嬉しく思う。
シードは目を開いた。
紙を胸ポケットにしまう。そこで机の引き出しに目が留まった。中には、仕事で使うための便箋が入っている。
一枚取り出して机の上へ置く。
もらったものへの礼は、そのたびに伝えてきた。使ってみた感想を話せば、リリアーナ様が自分のことのように喜んでくれることも知っている。
それでも今日は、それだけではなく、自分からも何か返してみたいと思った。
シードは万年筆を手に取る。
今日の茶への礼を書くのもいい。いつも気にかけてもらっていることへの感謝を伝えてもいい。それとも今度は、自分がおすすめの茶を探してみるのもいいかもしれない。
何から書こうかと考えたところで、手が止まる。
リリアーナ様は侯爵令嬢だ。仕事上の報告でもない手紙を自分から侯爵家へ送るとなれば、リリアーナ様本人が気にするかどうかだけでは済まない。
しばらく便箋を見つめたものの、結局何も書かずに引き出しへ戻す。
リリアーナ様は何をすれば喜んでくれるだろう。
真っ先に浮かんだのは、やはり仕事だった。書類を早く、正確に仕上げれば、きっといつものように褒めてくださる。
けれど、それでは今までと同じだ。
今までは、与えられた仕事を間違えずに終わらせ、翌日も同じように働く。それだけで毎日が過ぎていた。そこへリリアーナ様がやってきて、自分を見つけ、仕事を褒め、何度も会いに来てくれた。
今では、自分の方が次に会った時のことを考えている。
次にリリアーナ様が来るまでに、何か一つくらい見つけられるかもしれない。
今度は、自分から彼女を喜ばせられるものを。
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