第8話 届いたメモと、迷う指先
アドラー侯爵邸の私室。帰宅したリリアーナは、いつものようにデスク前で『シード様・環境改善&尊さ観測記録』を開いていた。
『シード様が手ずから淹れてくださったハーブティー、世界一美味しかった!』
『お茶を一口召し上がるたびに、目元がほんの少し緩む。奇跡の瞬間に立ち会えた。神に感謝』
力強いタッチでそう書き殴り、リリアーナは大きく一息をついた。
「ふぅ……今日も最高の一日だったわ。椅子、ペン、ランプ、そしてハーブティー。これでデスクワーク環境としては至高の域に達したわね!」
「お嬢様、そろそろお休みの時間でございます」
マリーが温かい湯気を立てたタオルを差し出す。
「ありがとう、マリー。……あ、そうだわ! 昨日のお茶、美味しい淹れ方のコツをメモにして添えておけばよかったわね」
「メモ、でございますか?」
「ええ。シード様はお仕事に没頭される方だから、お茶の淹れ方を忘れてしまわれるかもしれないでしょう? 『熱湯で三分置くのがおすすめです』みたいなお知らせを一添えしておけば、もっと気軽にお茶を楽しんでいただけるはずよ!」
「なるほど」
「そう! きっと役に立つわ!」
推しの作業環境をさらに整えるという大義名分を得て、リリアーナの瞳はキラキラと輝いていた。
♢
翌日の昼下がり。
王宮の『第三文官執務室』の扉が、いつものようにトコトコと軽やかな足音とともに開いた。
「ご機嫌よう、シード様! 先日お渡ししたお茶の簡単な淹れ方メモを持ってきましたの!」
リリアーナが小さな胸を張って差し出したのは、アドラー侯爵家の小さな羊皮紙だった。
「これは……?」
「美味しく淹れられる時間のメモですわ! お仕事の合間に息抜きされる際、参考にしてくださいな」
シードは目を見開き、受け取った小さなメモを両手で丁寧に包み込んだ。
「……ありがとうございます。大切に読ませていただきます」
「ええ! それでは今日もお邪魔いたしました!」
満足感いっぱいの笑顔を残し、今日も十歳児は嵐のように去っていった。
「…………」
部屋に残された室長は、ガタガタと震えながら引き出しの胃薬を丸呑みした。
(ついに『直接の文通』まで始まったぞ……!! 完全に、完全に外堀が埋め尽くされている……!!)
♢
その日の夕刻。同僚たちが退勤し、静まり返った執務室。
シードはデスクに一人残り、魔導ランプの柔らかい光の下で、その小さなメモをそっと開いた。
中から出てきたのは、可愛らしい丸文字で丁寧に書かれたメモ。
『熱湯で三分ほど置くと美味しく召し上がれますわ。お仕事の合間に、どうかご自愛ください。 リリアーナ』
最後に添えられた一文。
(……ご自愛ください)
シードの指先が、文字をなぞるように滑る。
これまで誰からも体調を気遣われることなどなかった。最底辺の執務室で、ただ黙々と使い潰されるようにペンを走らせていた自分の存在を、こんなにも真っ直ぐに見つめ、温かく気遣ってくれる人がいる。
シードはメモを優しく折りたたむと、胸ポケットへと大切に仕舞い込んだ。
そして――静かにデスクの一番上の引き出しを開ける。
そこには、今まで使う機会のなかった一枚の真っ白な便箋と、特注の万年筆が入っていた。
受け取ってばかりでは、いけない。
万年筆へ伸ばした指が、そこで止まる。
侯爵家の令嬢へ、平民の文官が私的な手紙を送る。
そんなことが許されるのだろうか。
シードは便箋を見つめたまま、静かに引き出しを閉めた。
「……まだ」
ぽつりと、誰にも聞こえない掠れた声が部屋に落ちる。
シードは胸ポケットにそっと手を当て、その温もりを感じながら、手元の書類へ視線を落とした。
――サラサラサラ……。
夜の静寂の中、シードの手から紡がれるペンの音が、これまでで最も優しく執務室に響いていた。
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