第7話 一杯のお茶と、静寂の執務室
「シード様! 今日はとっておきのものを持ってきましたわ!」
アドラー侯爵家の令嬢、リリアーナ(10)は、眩い笑顔とともに『第三文官執務室』の扉を勢いよく押し開けた。
抱えていたのは、精巧な装飾が施された小さな木箱だ。
椅子、ペン、魔導ランプ。
シード様の作業環境は劇的に改善された。だが、私、リリアーナの推し活ロードに妥協の文字はない。
長時間のデスクワークで最も大切なもの。それは『水分の補給』と『適度な休息』よ!
あの暗く湿気た部屋で、書類と向き合い続けるなんて、シード様のお体が保つわけがない。
そこで私は、アドラー家専属の調合師を総動員し、脳の疲労を癒やし、集中力を高める特注の最高級ハーブティーを作らせたのだ。
「ご機嫌よう、シード様。体調はお変わりありませんかしら?」
部屋の最奥へ歩み寄る。
(ああっ、見てあの姿勢! 最高級の椅子に深く腰掛け、特注のランプに照らされながら、特注のペンでサラサラと書類を捌く姿……! 完璧な調和! 完璧な美! 煤けた服とのギャップが今日も今日とて神がかっているわ!!)
「……リリアーナ様。お召し物が汚れますので、あまり近くへ寄られては……」
シードは書類から目を離し、静かにペンを置いた。
「そんなこと気にしておりませんわ! それよりこれです! 集中力を高め、脳の疲労を回復させる特注のハーブティーですの。お仕事の合間に、ぜひ召し上がってくださいな!」
リリアーナは木箱をシードのデスクの端に置いた。
シードはその箱を見つめ、それから静かに立ち上がる。
「……ありがとうございます。それでは、今すぐ淹れさせていただきます」
「えっ? シード様が自ら?」
「はい。リリアーナ様からいただいたものですが、しっかり淹れさせていただきます」
シードは部屋の隅にある給湯スペースへ歩いていった。
第三文官室の給湯設備といえば、年季の入った簡素な湯沸かしポットと安物の陶器カップくらいしかない。
しかし、シードの手つきは恐ろしいほど無駄がなく、美しかった。
茶葉を適量取り出し、熱湯を注ぐ。
蒸らす間に湯呑みを温める。
その一つひとつの所作があまりにも滑らかで、洗練されていた。まるで王宮の給仕長が茶会を開いているかのような錯覚すら覚える。
ふわりと、柑橘とミントの爽やかな香りが執務室に広がった。
シードは湯気の立つカップを盆に乗せ、リリアーナのもとへ戻る。
「どうぞ、リリアーナ様」
「まあ……! ありがとうございます、シード様!」
リリアーナは目を輝かせ、差し出されたカップを受け取った。
(ちょっと待って……! シード様淹れ立てのハーブティー!? 私が推しにお茶を差し入れたのに、推しが私のために手ずから淹れてくれたの!? え、なにこの神イベント……! 寿命が三百年くらい延びた気がするわ……!!)
息を整え、そっと一口含む。
爽やかな風が吹き抜けるような香りと、ほのかな甘みが口いっぱいに広がった。疲れた脳がスッと冴え渡るような、極上の味わいだ。
「……とても美味しいですわ、シード様! 淹れ方も完璧ですのね!」
「リリアーナ様に喜んでいただけたのなら、何よりです」
シードは小さく応え、ごくわずかに目元を緩めた。
無表情に近い彼が見せた、ほんの僅かな感情の変化。
リリアーナはカップを両手で包み込み、美味しそうにお茶を味わう。
その間、シードは静かに立ったまま、彼女がお茶を飲み終えるまでそっと見守っていた。
言葉は少ない。
だが、そこには二人だけの穏やかで贅沢な時間が流れていた。
(はぁぁ……至福だわ……。シード様が淹れてくれたお茶を飲みながら、間近でシード様のお顔を拝めるなんて。これが天国じゃなかったら何だって言うの……)
リリアーナはカップを空にし、満足そうに息を吐く。
「ふう……ごちそうさまでした! シード様、このお茶はシード様のお仕事のために持ってきましたのよ。どうかご自身の休息のためにお使いくださいね?」
「……承知いたしました。大切に飲ませていただきます」
「ええ! それでは、今日もお邪魔いたしましたわ!」
お茶を味わい、推しの健やかな顔を心ゆくまで堪能した十歳児は、心底満足した様子でぺこりと一礼し、軽やかな足取りで去っていった。
♢
「…………」
執務室の物陰で、室長は息を止めたまま胃を押さえて震えていた。
(な、なんだ今の空間は……!?)
大貴族の令嬢が平民の新人に差し入れを持ってくるだけでも異常だというのに、シードはそのお茶を淹れ、令嬢はそれを美味しそうに飲み、二人は静かなお茶の時間を過ごしていた。
(毒味……!? いや、違う! あれは完全に『契りの儀式』じゃないか!!)
室長は心の中で叫ぶ。
(アドラー侯爵家は、あの平民の新人をただ囲い込むだけじゃない。将来的に一族の重鎮として迎えるつもりなのか!? だから幼い令嬢を直接遣わせて絆を深めさせているのか……!? おいおいおい、そんなヤバい奴が、なんで第三文官室で毎日毎日関税計算なんかしてるんだよ!!)
室長は泡を吹きそうになるのを必死に堪え、引きつった笑みを浮かべるしかなかった。
さらに、その様子を廊下のすりガラス越しに伺っていた人物がいた。
今日『見物』に来ていた第一文官室の若手文官である。
彼は廊下で冷や汗を流しながら固まっていた。
(あの平民……侯爵家の令嬢から持ち込まれた『試作品』の効能を、その場で令嬢自身に試飲させて確認したというのか……?
(あるいは……あの若さで、大貴族の令嬢を完全に手玉に取り、意のままに操っているとでもいうのか……!?)
文官は震える膝を押さえながら、逃げるように廊下を走り去った。
♢
夕方、第一文官執務室。
息を切らせて戻ってきた若手文官の報告を聞き、室内は静まり返っていた。
「……令嬢自ら、あの平民の手からお茶を受け取り、飲んでいた……だと?」
主任文官が信じられないものを見るような目で呟く。
「はい……。二人の間には、第三者が割り込めないような特異な空気が漂っていました。あの平民は、ただ囲われているだけではありません。アドラー侯爵家の『深部』と完全に繋がっています」
「……まずいな」
ロベルトが腕を組み、低く呟いた。
「あの最果ての部屋で、一体何がおきつつあるんだ……」
第一文官室の面々は、誰一人として真相に辿り着けないまま、底知れぬ恐怖に飲み込まれていくのだった。
♢
夜。静まり返った第三文官執務室。
シードは一人、デスクの上に置かれた木箱を見つめていた。
木箱を開けると、整然と並べられた茶葉の小瓶と、美しく調合されたハーブが入っている。
シードはそっと瓶の蓋を開け、その香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
口の中に残る、あの温かなお茶の余韻。
自分の淹れたお茶を、あの幼い少女が「美味しい」と微笑んで飲んでくれた。
ただそれだけのことが、胸の奥をどこまでも温かく満たしていく。
(……私に、このような時間まで与えてくださるのか)
姿勢を正す椅子。
指を滑らせるペン。
手元を照らす温かな光。
そして、疲れた心と体を癒やすお茶。
彼女はどこまで、自分のことを見てくれているのだろうか。
シードは静かに蓋を閉め、魔導ランプの光の下でペンを握り直した。
力まなくていい。
インクが途切れない。
思考が止まらない。
全身に、心地よい力が満ちていく。
自分を見つけ出してくれた、あの令嬢のために。
シードは静かに、次の書類へ視線を落とした。
――サラサラサラ……。
静まり返った執務室の中に、途切れることのないペンの音と、かすかなハーブの香りが夜遅くまで優しく漂っていた。




