第5話 推しの才能が隠しきれませんわ!
「おい、キャメロン。……あの男が、ずっとお前を見ているぞ」
第三文官執務室で、室長が声を潜めた。扉のそばに立っているのは、第一文官執務室のロベルトだった。胸元には第一文官執務室の徽章。若くして第一のナンバー三まで上がった男が、わざわざ第三まで足を運び、さっきからシードの仕事を眺めている。
「そうですか」
シードは一度だけロベルトへ目を向けると、すぐに手元の書類へ視線を戻した。
「そうですかじゃない! 第一の人間がわざわざ第三まで来てるんだぞ! しかも見てるのはお前だ!」
室長の胃がきりきりと痛み始める。シードが座っているのは、背もたれにアドラー侯爵家の紋章が入った特注の椅子。その手には、同じくリリアーナから贈られた魔導万年筆まで握られている。
数日前までなら、シードが仕事をできるのをいいことに面倒な書類を回し、綺麗に仕上がれば第三文官執務室の成果として上へ出していた。それが今では、アドラー侯爵家の一人娘が頻繁にシードを訪ねてくる。何枚押しつけたのか思い出そうとして、室長はすぐにやめた。胃が痛くなるだけだった。
「……頼むから、今日は何も起きないでくれ」
「ごきげんよう、皆様!」
願った直後に明るく澄んだ声が飛び込んできて、室長は腹を押さえた。
「……来た」
扉から入ってきたのは、十歳の少女だった。陽の光を溶かしたようなシャンパンブロンドの髪に、ぱっちりとしたアメジストの瞳。まだ幼さの残る愛らしい顔立ちだが、上質なドレスと自然に伸びた背筋を見れば、高位貴族の令嬢であることはすぐに分かる。
アドラー侯爵家の一人娘、リリアーナ・ヴァン・アドラー。ロベルトも当然、その名前は知っていた。
「ごきげんよう、室長。シード様もごきげんよう!」
「ごきげんよう、リリアーナ様」
シードが顔を上げた瞬間、私の目は自然とその手元へ向かった。私が贈った椅子に座り、右手には特注の魔導万年筆。昨日も見た光景なのに、今日も使ってくださっている。それだけで胸の奥がいっぱいになる。
(ああ……今日も使ってくださってますわ! 嬉しい。昨日も見たのに、どうして今日もこんなに嬉しいんでしょう!)
私がシード様のことを考えて、少しでも楽にお仕事ができるようにと職人と相談して作ったもの。それが今、当たり前のようにシード様のお仕事を支えている。ご本人はそんな私の気持ちなど知らず、いつもの真剣な顔で書類を捌いていた。
(尊いですわ……。前世ではゲーム画面の隅にシード様を見つけただけで嬉しかったのに、今は目の前にいて、お話までできて、疲れていたら私にも何かしてあげられる。しかも贈ったものを本当に使ってくださっているなんて……推し活って、こんなに幸せなものでしたのね)
もっと何かしてあげたい。もっと快適にお仕事をしてほしい。でも、私が満足するだけでは意味がない。一番大切なのは、シード様本人が本当に喜んでくださっているかどうかだ。
「シード様、椅子と万年筆はいかがですか?」
「どちらも助かっています。椅子を替えてから腰の疲れがかなり減りましたし、万年筆も長く書いていて指が疲れにくくなりました」
「本当ですか?」
思わず一歩近づくと、シード様はいつもの落ち着いた顔で頷いた。
「はい。ありがとうございます」
「…………!」
(嬉しいですわーーー!! シード様が楽になった! それだけで、どうして私までこんなに嬉しいんでしょう!)
椅子を作るために職人と相談した時間も、万年筆の書き心地を何度も調整してもらった時間も、全部この一言で報われた気がする。シード様が喜んでくださって、私まで幸せになれるなんて、こんなに素晴らしいことがあるだろうか。
(推し活、最高ではありませんこと!? こんな幸せを知ってしまったら、もっとしてあげたくなってしまいますわ!)
他に困っていることはないだろうか。もっと楽にできるところはないだろうか。まだ私にできることはないだろうか。そんなことを考えながらシード様の顔を見て、目元にうっすらと疲れが残っていることに気づいた。
腰は楽になった。指も疲れにくくなった。それなのにまだ少しお疲れに見える。私はさりげなく室内を見回し、小さな窓から入る光だけではシード様の机まで十分に明るくないことに気づいた。
(次は目ですわね。もっと明るくて、でも眩しくなくて、長時間使っても目が疲れにくいもの……ふふ、またシード様のために何か作れますわ!)
それを考えただけで楽しくなってくる。作る時間も、完成するのを待つ時間も、渡す瞬間も。そしてまたシード様が使ってくださって、「楽になった」と言ってくださったらと思うと、今から楽しみで仕方がない。
(わたくし、シード様を幸せにしたいはずなのに……毎回わたくしの方が幸せにしていただいてませんこと?)
なんだか、ずるい。だからもっと返したくなるし、もっと喜んでもらいたくなる。そしてまた私も嬉しくなる。危うく頬が緩みそうになり、私は慌てて侯爵令嬢らしい笑顔へ戻した。
「ありがとうございます。それでは、お仕事のお邪魔をしてはいけませんので、今日はこれで失礼いたしますわ!」
本当はもう少し見ていたい。でもシード様はお仕事中だ。推しのお仕事を邪魔してまで居座るのは違う。そう思って踵を返そうとしたときだった。
「もうお帰りになるのですか?」
「はい。それでは――」
言いかけて、止まった。
(今、なんと?)
ゆっくり振り返ると、シード様がこちらを見ている。聞き間違いではない。「お帰りになるのですか」ではなく、「もうお帰りになるのですか」と仰った。
(……『もう』? 落ち着きなさい、リリアーナ。ただ何となくつけただけかもしれませんわ。そこへ勝手に意味を足してはいけません。でも、シード様は私が帰ると言ったことに気づいて、わざわざお仕事の手を止めて、顔を上げてくださったんですのよね?)
帰ってほしくないなんて言っていないし、もっといてほしいとも言っていない。でも、私が帰ることを気にしてくださった。それだけで胸の奥がまたいっぱいになる。
(嬉しいですわ……! 前世では私がどれだけシード様を見ても、シード様が私を知ることなんてなかった。でも今は、私がここへ来れば気づいてくださる。帰ろうとすれば、こうして声までかけてくださるんですのね)
「はい。また来ますわ!」
「……そうですか。では、お気をつけて」
「ありがとうございます!」
今度こそ一礼して、マリーと一緒に部屋を出る。廊下を歩きながら頬が緩みそうになるのを必死に堪え、シード様から完全に見えなくなるところまで来たところで、私はたまらずマリーの腕へ抱きついた。
「マリー! 聞きました!?」
「ふふ、もちろん聞いておりましたよ」
マリーが私を見下ろして、優しく目を細める。侍女服に身を包んだ彼女は、すらりとした長身に整った顔立ちの美人で、いつもはきっちりと仕事をこなす頼れる侍女だ。けれど私がこうして抱きつくと、昔から変わらない柔らかな笑顔で受け止めてくれる。
「『もう』って仰いましたわ! わたくしが帰ることを気にしてくださいましたの!」
「ええ。シード様の方からお声をかけてくださいましたね」
「そうなんですの!」
自分で言って、また嬉しくなる。今日もシード様のお顔を見られた。贈ったものが役に立っていると分かった。お礼まで言っていただいた。そのうえ、帰ることまで気にしてくださった。
「……今日も来てよかったですわ!」
「はい。お嬢様がそんなに嬉しそうですと、私まで嬉しくなってしまいます」
「マリー……!」
嬉しくなって、抱いていた腕にさらにぎゅっと力を込める。マリーは困るどころか、また小さく笑ってくれた。
(こんなの、幸せすぎますわ!)
♢
リリアーナたちが去ったあと、第三文官執務室には再びペンの音が戻ったが、ロベルトはまだ扉のそばにいた。アドラー侯爵令嬢が平民出身の新人文官を気にかけ、椅子や特別な筆記具まで贈っているという噂は聞いていたが、実際に見ればそれ以上だった。
だが、ロベルトが本当に気になったのはそこではない。最近、第三文官執務室から上がってくる書類の中に、異様に早く処理されているものがある。しかも計算間違いも書き損じもなく、修正を求めて第三へ返す必要がない。その書類に何度も同じ名前があった。シード・キャメロン。
「キャメロン、これも頼む」
「承知しました」
室長が新しい書類を机へ置くと、シードは先ほどまで処理していた書類を揃え、すぐに次へ移った。関税に関する計算書だった。数字を確認し、計算し、記入する。迷って手を止めることもなければ、一度書いた数字を書き直すこともない。速い。だが、それ以上に正確だった。
「……待て、キャメロン。ここの税率、違わないか?」
「今月から変更されています。変更通知の写しも添付してあります」
室長が書類を確認してしばらく黙ったあと、小さく息を吐いた。
「……合ってる」
「では、続けます」
シードはそれだけ言って、また万年筆を走らせる。十五歳の平民出身で、第三文官執務室へ入ったばかりの新人。聞いていた経歴と目の前の仕事ぶりがまるで噛み合わず、ロベルトは黙ったままその手元を見つめた。
(……なんだ、こいつ)
先ほどまでリリアーナが立っていた場所へ視線を向ける。侯爵令嬢が、なぜこの新人を気にかけているのか。その理由を、少しだけ理解した気がした。
♢
「主任。……あれは、まずいです」
第一文官執務室へ戻ったロベルトの言葉に、主任が書類から顔を上げた。
「第三の新人か?」
「はい。シード・キャメロン。最近、第三から上がってくる書類の中に、ほとんど修正の必要がないものが増えていましたよね。ほぼ全部、彼です」
主任の手が止まる。
「処理も速いですが、それより正確です。計算間違いも書き損じもない。今日見た関税の書類では、今月変更された税率まで把握して、変更通知の写しも先に添付していました」
「……新人なんだな?」
「十五歳です」
主任が椅子へ深く座り直す。ロベルトは第三文官執務室で、誰に見られているかなど気にすることもなく、当たり前のように書類を処理していた少年を思い返した。
「あの新人を、いつまでも第三に置いておくのはまずいかもしれません」
♢
その頃、帰りの馬車に揺られながら、私は今日のシード様を思い返していた。椅子は役に立っている。万年筆も喜んでくださった。それだけでも今日は大成功だ。
(シード様が少し楽になって、それを見たわたくしがこんなに幸せになれるなんて……。わたくしはシード様を幸せにしたいだけなのに、何かしてあげるたびに私の方まで幸せにしていただいてますわ)
だからこそ、もっとしてあげたくなる。シード様が少しでも楽になるなら次も考えたいし、喜んでくださったら、きっとまた私も嬉しくなる。
(……やっぱり推し活って最高ですわ!)
そして次にすることも、もう決まっている。今日見つけたシード様の目の疲れ。あの薄暗い執務室で毎日書類を読んでいるなら、もっと目に優しい光があった方がいい。机の上に置けて、書類はきちんと見える。でも眩しくない。できれば明るさまで調整できれば最高だ。
(どんな形がいいでしょう。どれくらいの明るさならシード様の目が疲れないかしら。せっかく作るなら、長く使っていただけるものがいいですわね)
考え始めると、もう楽しくなってくる。完成したものをシード様の机に置いて、いつものように書類を捌いている姿まで想像してしまい、また頬が緩んだ。
向かいに座っていたマリーが、そんな私を見てくすりと笑う。
「お嬢様、また何か考えていらっしゃいますね?」
「分かりますの?」
「もちろんです。とても楽しそうなお顔をされていますから」
そう言われて、自分の頬に触れてみる。どうやら隠せていなかったらしい。
「ふふ。シード様のお役に立てそうなものを、また思いつきましたの」
「まあ。それでしたら、帰りましたらすぐに職人さんの手配をいたしましょうか?」
「ええ、お願いしますわ!」
「かしこまりました」
マリーが柔らかく微笑んで頷いてくれる。それだけで、早く屋敷へ帰りたくなってきた。
そのとき、不意に別の言葉まで頭の中に蘇る。
『もうお帰りになるのですか?』
「…………ふふ」
また笑ってしまった。
「お嬢様?」
「なんでもありませんわ!」
「そうですか?」
マリーは追及せず、楽しそうに笑っている。
(シード様が喜んでくださって、私も幸せで、マリーまで一緒に喜んでくれる。……やっぱり推し活って最高ですわ!)
次にシード様に会うのが、もう楽しみで仕方なかった。




