第6話 小さな明かりと、深まる影
「今度はこれですわ!」
アドラー侯爵邸の私室で、私、リリアーナは両手で大切そうに小さな魔導ランプを抱えていた。
椅子、ペン。これで姿勢と指の負担は完璧よ!
ならば次は……そう、『視力保護』!
あの薄暗く湿気た部屋で、一口の水分も摂らずに書類と向き合い続けるなんて、シード様のお体がもちませんわ。
職人に頼み込んで、太陽光に近い柔らかな光を放つ、目に優しい特注の魔導ランプを作らせたのだ。
「お嬢様、馬車の手配が整いました」
「ありがとうトーマス!さあ、今日も推しの環境改善へ出発よ!」
シード様の目の健康は私が守る。オタ活ロードに一切の隙なし!
♢
王宮、『第三文官執務室』。
「……おい、キャメロン。……今日も外にいるぞ」
室長は胃薬の瓶を握りしめ、死んだような魚の目で囁いた。
薄暗い廊下には、昨日やってきたロベルトとは別の若手エリート文官が立っている。じっと腕を組み、不気味な静けさで部屋の中を観察していた。
「そうですか」
シードは顔も上げず、黙々と書類にペンを走らせている。
「そうですか、じゃない! なぜ毎日うちの前に第一文官室の奴らが張っているんだ! 俺が何か悪いことをしたか!? 予算の報告書で一箇所だけ『サバ』を読んだのがバレたのか!?」
「……室長、それはご自身の不祥事です」
「ひぃっ! 喋るな! 俺の罪をバラすな!」
室長が頭を抱えたその時、トコトコと軽やかな足音とともに扉が開いた。
「ご機嫌よう、シード様! 今日はこれを持ってきましたわ!」
リリアーナ(10)が、小さな木箱を大切そうに抱えて入ってきた。
(ああっ、今日も推しのビジュアルが神がかっているわ! でもやっぱり手元が暗いわね、早くセットしなくちゃ!)
「……リリアーナ様、これは?」
「目に優しい特注の魔導ランプですわ! シード様の綺麗な瞳が傷ついてしまうのは耐えられませんもの。どうかお使いになって?」
「……ありがとうございます。大切に使わせていただきます」
「ええ! それでは、また明日ね!」
目的を果たした十歳児は、今日も満面の笑みを残し、嵐のように去っていった。
「…………」
その様子を廊下から盗み見ていたエリート文官は、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。
(また何か持ち込んだ……)
(侯爵家があいつの環境を整えている……)
シードは静かにランプのスイッチを入れた。
ぽっと、柔らかな温かい光が手元を照らし出す。
シードは一瞬だけ手を止め、ランプの位置を数ミリだけ微調整すると、その明かりを見つめて静かに小さく頷いた。
指先の力を抜き、万年筆を滑らせる。
――サラサラサラ……。
夕刻、周囲の文官たちが疲労で集中力を切らし、肩を落としていく中、シードだけは変わらぬ速度で作業を続けている。手元が明るくなっただけだというのに、長時間書き続けても、その瞳に一切の疲労の色がない。
♢
夕方、第一文官執務室。
戻ってきた同僚の顔色を見て、ロベルトが静かに尋ねた。
「……どうだった」
「……ロベルトの言う通りだ」
「……そうか」
言葉少なに頷き合う二人。第一文官室の面々は、それ以上何も聞かず、ただ静かに作業へ戻るのだった。
最底辺の部署に「触れてはいけない何か」があるという不穏な空気だけが、じわじわと広がっていく。
♢
夜。静まり返った第三文官執務室。
シードは一人、デスクの端に置かれた柔らかく温かい光を放つ魔導ランプを見つめていた。
視界を遮る暗がりはもうない。指先は滑らかに動き、思考が途切れることもなかった。
(……私のために)
自分という存在を気遣い、光を与えてくれた幼い少女。
シードは静かに、次の書類へ視線を落とした。
温かな明かりの下で、途切れることのないペンの音だけが、夜の執務室に静かに響いていた。
♢
帰りの馬車に揺られ、アドラー侯爵邸の私室へと戻ってきたリリアーナは、ベッドへダイブしたい気持ちを必死に抑えながらデスクの前に向かっていた。
「マリー、今すぐ例の『ノート』を持ってきてちょうだい!」
「かしこまりました、お嬢様」
マリーが持ってきたのは、革表紙で装丁された分厚い一冊のノート。
リリアーナは羽ペンを手に取ると、今日拝んだ推しの神々しいお姿を忘れないうちに、さらさらと凄まじい勢いで書き殴り始めた。
『姿勢、今日も百点満点! 最高の椅子が完全に身体に馴染んでいる!』
『万年筆の走り、美しすぎる。指の角度まで芸術的!』
『魔導ランプの灯りが漆黒の髪に反射していた。天使の輪ができている。しっかり拝んだ!』
一気に書き終えるたび、うんうんと小さく満足げに頷く。
「ふぅ……今日も最高だったわ……」
リリアーナはうっとりと頬に手を当て、天井を見上げた。
ランプを渡した時の、あのシード様の静かな一瞬。
派手に喜ぶわけではない。けれど、大切そうにランプを受け取ってくれた。その時のことを思い出すだけで寿命が延びる心地良さ。
満足感に胸を躍らせながら、リリアーナはノートの次のページをめくった。
「さて……椅子、ペン、明かり。これでデスク周りの基礎環境は整ったわ!」
リリアーナはフフンと小さく胸を張った。
「次は……体内からのケアよ!」
リリアーナは小さく顎に指を当て、真剣な顔で考え込んだ。
シード様は、お仕事になると周りが見えなくなってしまうタイプな気がするわ。だから、休憩もつい後回しになってしまうのかもしれないわね!
アドラー家に抱えられている専属の調合師を総動員して、脳の疲労を瞬時に癒やし、集中力を高める特注のハーブティーを作らせよう。
「ふふふ、楽しみになってきたわ。シード様、待っていてくださいね!」
リリアーナは満足そうにノートを閉じた。
次に会う日が、待ち遠しくてたまらない。
その笑顔が、思いもよらない形で自分へ返ってくることを、今はまだ知らなかった。
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