第5話 見物人と、増える噂
「おい、キャメロン。……あの男が、ずっとお前を見ているぞ」
王宮の最果てにある『第三文官執務室』
室長は自分の胃を両手で強く押さえながら、ガタガタと震える小声で囁いた。
いつもなら誰一人近づかない、陽の当たらない薄暗い執務室。その立て付けの悪い扉の前に、今日は見慣れない青年が立っている。
胸元に光るのは、第一文官室の徽章。
王宮きってのエリート文官、ロベルトだった。
普段なら最底辺の部署など視界にすら入れないはずの天才が、なぜか腕を組み、冷ややかな視線を室内の奥へと注ぎ続けているのだ。
「そうですか」
シードは顔も上げず、淡々と魔導万年筆を滑らせ続ける。
「そうですか、じゃないだろう! なぜ第一文官室の天才がうちの前に張っているんだ! 俺の首か!? また俺の首なのか!?」
「……室長、声が大きいです」
「大きくなるに決まっているだろうが! あいつはあの若さで第一文官室のナンバー3だぞ!? うちの予算の不正でも嗅ぎつけに来たのか!? いや、うちには不正するような予算すらない!」
「では、気にしなければよろしいかと」
「気にしないでいられるか! お前、ちょっとそのペンを置いて、もっと申し訳なさそうな顔で雑用でもしてみろ! なんだその堂々とした姿勢は! まるで王宮の主みたいなオーラを出すな!」
室長が本気で泡を吹きかけ、必死に自分の髪を掻きむしっていた、その時だった。
扉が、トコトコと軽やかで愛らしい足音とともに開く。
「ご機嫌よう、シード様! 体調はいかが?」
ひょっこりと顔を出したのは、アメジストの瞳を持つ美少女、リリアーナ(10)だった。
部屋の奥へ視線を向けた瞬間、胸の中で歓声が弾ける。
(座ってる!)
(使ってる!)
(ああっ、見てあの背筋! 最高級の椅子に包まれながら、特注の万年筆を完璧に使いこなしているわ! 煤けた文官服とのギャップが刺さりすぎて息が止まりそう! 今日の目の下のクマも深みがあって本当に素晴らしいわ!!)
「……おかげさまで、非常に快適です、リリアーナ様」
「それは何よりですわ! それでは、ご機嫌よう!」
今日も推しが元気に仕事をしている。
それだけで胸がいっぱいになったリリアーナは、満足そうに笑って、そのまま嵐のように去っていった。
本当に、ただシードの健やかな姿を一目見るためだけに、わざわざ侯爵家の馬車を走らせてやってきたのだ。
「…………」
その一部始終を廊下から凝視していたロベルトの背筋に、冷たいものが走る。
(また来た)
(本当に毎日なのか……)
大貴族の令嬢が、何の用もないはずの最底辺の部署へ、これほど頻繁に足を運んでいる。
それも、あの平民の新人に声をかけるためだけに。
令嬢の姿が見えなくなると、シードは何も言わず書類へ視線を落とした。
――サラサラサラ……。
静かな執務室に、規則正しいペンの音だけが響く。
ロベルトは廊下からじっと手元を盗み見て、息を呑んだ。
速い。
それ以上に、あまりにも無駄がない。
インクの掠れもなければ、ペンの迷いも一切ない。
まるで最初からそこに存在する文字をそのまま正確になぞっているかのように、漆黒の万年筆が紙の上を滑っていく。
通常ならベテラン文官が数人がかりで頭を抱えるような複雑な関税計算が、寸分の狂いもなく、芸術的なまでの美しさで埋め尽くされていく。
(……この男は、一体何だ?)
恐怖とも焦燥ともつかない、説明のできない重苦しい圧が、部屋の奥から静かに滲み出ていた。
自分がじっとりと冷や汗をかいていることに気づいたロベルトは、それを拭うこともできず、引きつった顔のままその場を後にした。
♢
夕方、第一文官執務室。
磨き上げられた大理石と最新の魔導具が並ぶ、王宮の心臓部。
戻ってきたロベルトを、主任文官が出迎えた。
「どうだった」
ロベルトは自分の机へ重々しく腰を下ろし、深く息を吐く。
「主任」
「……何か見たのか」
「はい。……あれは、まずいです」
「…………」
部屋に重たい沈黙が落ちた。
周囲のエリート文官たちも、作業の手を止めて息を呑んでいる。
ロベルトのような傲慢なまでの天才が、これほど青ざめた顔で言葉を詰まらせることなど、かつて一度もなかったからだ。
「……あの新人文官をあのままあそこに置いておくことは、問題があるかもしれません」
ロベルトの掠れた一言が、静まり返った室内に重く響き渡った。
♢
帰路につく侯爵家の馬車。
夕闇が迫る街並みを眺めながら、リリアーナは満足げに小さく頷いた。
(よし)
(腰はよし)
(ペンもよし)
(シード様のデスクワーク二大苦痛はこれで完全にクリアされたわ!)
しかし、推し活に終わりはない。
(でも、あの執務室は少し暗すぎるわね……。あんな薄暗い場所でずっと書類を読んでいたら、シード様の綺麗な目が悪くなってしまうわ。それに、あのカビ臭い空気も気になる……)
推しが少しでも快適に仕事ができるように。
まだできることは、きっとある。
(次は『目が疲れない特注の魔導ランプ』か、それとも『集中力を高める極上のお茶』かしら……)
リリアーナは次の「育成計画」に胸を躍らせ、馬車は夕暮れの街をゆっくりと走っていった。




