第4話 推しの手には最高の一本を!
「遂に出来ましたのね!」
アドラー侯爵邸の私室で、私は届けられた木箱を開け、中に収められた一本の万年筆を見つめていた。艶のある黒い軸に細身の金属製のペン先。見た目だけなら上品な万年筆だが、中身は職人と何度も相談して作らせた特注品である。
(椅子は無事に使っていただけましたわ。これでシード様の腰と身体への負担はかなり減ったはず。となれば次は、文官にとってのメインウェポン……筆記具ですわ!)
余計な力を入れなくても滑らかに書けるようペン先を調整し、長時間握っても指が疲れにくい太さと重さにしてもらった。内部にはインクの流れを一定に保つ簡単な魔導加工も施されている。毎日あれだけの量を書いているのだから、少しでも手への負担が減れば仕事も楽になるはずだ。
「お嬢様、本日も王宮へ?」
「ええ、もちろんですわ。マリー、馬車をお願いします」
木箱を大切に抱えて立ち上がる。今日もシード様の労働環境が一つ良くなると思えば、それだけで足取りまで軽くなった。
♢
第三文官執務室。
室長の胃痛は、ここ数日で順調に悪化していた。原因は部屋の最奥にある、アドラー侯爵家の紋章が刻まれた最高級の椅子。その上で平然と仕事を続ける、平民出身の新人文官シード・キャメロンである。
最近では噂を聞きつけた他部署の文官まで、用もないのに廊下を通っては扉の中を覗くようになった。何か問題が起きれば、この部屋の責任者である自分にも話が来るに決まっている。そう考えるだけで胃が痛む。
「……なんで俺がこんな目に」
胃を押さえながら呟いたところで扉が開き、室長の肩が跳ねた。
「ごきげんよう、皆様」
「リ、リリアーナ様……」
「ごきげんよう、室長。それからシード様!」
室長への挨拶を終えた私は、すぐ部屋の奥へ視線を向けた。
(今日も座ってくださってるーーー! やっぱり似合いますわ! しかもあの椅子で真剣に書類を捌くシード様……何時間でも見ていられますけれど、今日はそれどころではありませんわ!)
シード様は相変わらず大量の書類を処理している。この細い指で、一日にどれだけ文字を書いているのだろう。そう思うと、抱えてきた木箱を早く渡したくて仕方がなくなった。
「シード様、今日はこれをお持ちしましたの」
「……私にですか?」
「もちろんですわ!」
木箱を机へ置いて蓋を開ける。
「魔導万年筆ですわ。力を入れなくても書けるように調整してありますし、長時間使っても指が疲れにくいよう職人さんにお願いしましたの。インクも途切れにくくしてありますわ」
シード様は箱の中の万年筆と私を交互に見た。以前なら遠慮されたかもしれないけれど、今日は万年筆を見つめたあと、静かに手を伸ばしてくれた。
「ありがとうございます。大切に使わせていただきます」
「ぜひ! たくさん使ってくださいませ!」
(受け取ってくださるまでが早くなってる! これは推し活への理解が進んできたということでよろしいのでしょうか!?)
嬉しくて頬が緩みそうになるけれど、今は仕事中だ。シード様の邪魔をしては本末転倒なので、もっと眺めていたい気持ちを抑えて木箱から手を離した。
「それでは、お仕事の邪魔をしてはいけませんので、今日はこれで失礼いたしますわ。また伺いますね」
「はい。お気をつけて」
返事まで自然になってきている。それだけでまた嬉しくなり、私はマリーと一緒に執務室を後にした。
扉が閉まると、室長がシードの机へやってくる。
「……キャメロン」
「はい」
「今度は何をもらった」
「万年筆です」
「見れば分かる。いや……もういい」
室長は途中で聞くのをやめた。理由を聞いたところで、「シード様のお仕事が楽になるように」という答えが返ってくるだけだろうし、それで自分の胃が安心するとも思えない。
シードは木箱から万年筆を取り出し、試しに紙へ文字を書く。ペン先が引っかからず、ほとんど力を入れていないのにインクが均一に乗った。
「……使いやすいですね」
そのまま処理途中だった書類へ万年筆を走らせ始める。室長も何となく手元を眺めていたが、やがて眉を寄せた。
速い。
だが、それ以上に無駄がない。
資料から必要な数字を拾い、そのまま書類へ落とし込んでいく。途中で迷ってペンを止めることも、書き損じて戻ることもない。それでも確認を飛ばしているわけではなく、一枚を終えるたびに数値と記載内容を見直してから次へ進んでいた。
室長はこれまでにも、シードの仕事が正確なのは知っていた。しかし最近は明らかに処理する量まで増えている。椅子が変わり、今度は筆記具まで変わった。そして何より、本人が以前より仕事へ積極的になっていた。
「……キャメロン」
「はい?」
「いや、何でもない」
室長は自分の席へ戻り、引き出しを開けた。胃薬はまだ残っている。それを確認してから、ようやく自分の仕事へ戻った。
♢
その日の夕方、第一文官執務室の主任文官が第三文官執務室を訪れた。
「室長、先日回した関税計算の書類なんだが」
「ああ、それならキャメロンが終わらせてる」
「もう?」
主任文官が眉を上げる。室長がシードを呼ぶと、ほどなく数枚の書類が運ばれてきた。
「こちらです」
主任文官は受け取った書類へ目を通し、一枚目、二枚目、三枚目と確認していくうちに表情を変えた。
「これ、お前がやったのか?」
「はい」
「全部?」
「はい。元帳との照合も済ませています」
主任文官は再び最初の一枚へ戻った。計算は合っている。転記漏れもなく、数字の食い違いには補足まで付けられている。
「……修正は?」
「必要ないと思いますが、何かありましたか?」
「いや、ない」
第一文官執務室でも、この量なら相応の時間がかかる。それを第三文官執務室の新人が通常業務の合間に終わらせ、修正する箇所まで一つもない。
主任文官が改めてシードを見て、そこで背後の椅子に気づいた。背もたれにはアドラー侯爵家の紋章。さらに手元には、見るからに新品の上等な万年筆がある。
「あの噂って、お前のことだったのか」
「噂?」
「……いや、何でもない」
主任文官は書類を抱えて第三文官執務室を出た。侯爵令嬢が気に入っている新人文官がいるという話は聞いていたが、実際に仕事を見れば、別の意味でも気になる存在だった。
♢
その夜、誰もいなくなった執務室で、シードは新しい万年筆を眺めていた。一日使い続けても、指には以前ほど疲れが残っていない。椅子も同じだった。自分では気にしたこともなかった小さな不便を、リリアーナは見つけるたびに減らしていく。
『シード様の美しい手が、書類仕事で疲れてしまうのは耐えられませんの』
思い出した言葉に、シードは自分の手を見る。あの少女は本当に妙なところまで見ている。それでも嫌ではなかった。むしろ次に来たとき、今日はどれだけ仕事ができたのか見せてみたいと思うようになっている。
シードは万年筆を握り直し、残っていた書類を手元へ寄せた。
♢
その頃、私は湯船に身体を沈めながら、次なる推し活について真剣に考えていた。
(椅子、万年筆……次は何が必要かしら。今日も目の下に疲れが残っていましたし、仕事中の負担を減らすだけでは足りませんわね)
目の疲れ、肩、照明、休憩。考え始めれば、改善できそうなところはいくらでも出てくる。
(まだまだありますわね……! シード様が世界一快適に書類を捌けるその日まで、わたくしの推し活は終わりませんわ!)




