第3話 推しは快適、胃痛の室長
翌朝、第三文官執務室。
部屋の最奥、湿気で塗装の剥げかけた古い机の前に、どう考えても場違いな椅子が置かれていた。最高級の革を使った特注のワークチェア。背もたれには、アドラー侯爵家の紋章まで刻まれている。そしてそこには、平民出身の新人文官シード・キャメロンが腰掛け、何事もなかったようにペンを走らせていた。
扉が開き、第三文官執務室の室長が入ってくる。
「おはようございます、室長」
「ああ、おはよう……」
いつものように返した室長が、シードを見て足を止めた。昨日、侯爵令嬢が置いていった椅子である。まさかとは思っていたが、本当に座っている。
「……キャメロン。お前、その椅子」
「はい。昨日リリアーナ様からいただきましたので、今日から使わせていただこうかと」
「本当に使う奴があるか!」
室長の声に、執務室中の文官が顔を上げた。
「アドラー侯爵家の紋章入りだぞ! お前は平民出身の新人文官なんのに、事情を知らない奴に見られてみろ!何か問題になったら、責任を取るのは俺なんだぞ!!」
最後だけ切実な声だった。シードは手を止め、背もたれを振り返る。
「ですが、リリアーナ様は私に使ってほしいと仰っていました」
「分かってる! 俺も昨日ここで聞いてた!」
使わせなければ侯爵令嬢の厚意を無下にしたことになる。しかし使わせたら使わせたで、この部屋の責任者として本当に大丈夫なのか不安になる。室長は朝から痛み始めた胃を押さえた。
「……なあ、キャメロン。念のため聞くぞ。お前、リリアーナ様とは本当に先日初めて会ったんだよな?」
「はい」
「それ以前に、アドラー侯爵家と何か関わりがあったとか」
「ありませんね」
「親戚だったりは?」
「違います」
室長の胃がさらに痛くなった。
「じゃあ、なんで侯爵令嬢がお前にこんな椅子を贈るんだ……」
「仕事をする私を応援したいそうです」
「それが一番わけ分からん」
魔力回復クッキーを持ってきたと思ったら、今度は侯爵家の紋章入りの特注椅子である。しかも昨日のリリアーナを見る限り、これで終わるという保証もない。
室長はシードの机へ両手をついた。
「キャメロン」
「はい」
「俺、今までお前に酷いことしてないよな?」
「……どうしたんですか、急に」
「いいから思い出してくれ。仕事を押しつけたとか、給料を減らしたとか、理不尽に怒鳴ったとか」
「…………特には」
「本当だな?」
「……はい」
室長はようやく胸を撫で下ろした。
「ならいい。もし何か思い出しても、できればリリアーナ様には言わないでくれ」
「なぜですか?」
「俺が長くここで働くためだ!」
室長は真顔だった。シードは返事に困り、そのまま書類へ視線を戻した。室長も自分の机へ戻ろうとして、もう一度椅子を見る。侯爵家の紋章が朝の光を受けてよく目立っていた。
胃が痛い。
室長は椅子へ座るより先に引き出しを開け、常備している胃薬を取り出した。最近、減るのが早かった。
♢
昼下がり、第三文官執務室の扉が静かに開き、隙間からアメジストの瞳が覗いた。
中を見回したリリアーナの視線が部屋の最奥へ向かい、特注の椅子に座って仕事をしているシードを捉える。
(座ってるーーー!!! シード様が、私の贈った椅子に座ってお仕事してくださってる! いつもの文官服に最高級の椅子、それに真剣なお顔……最高ですわーーー!!!)
昨日、使うと言ってくれたのだから分かってはいた。それでも実際に目の前で見るのは別である。背もたれへ自然に身体を預けながら、シード様が書類へペンを走らせている。姿勢も昨日までより楽そうに見える。
(よかった……! ちゃんと使ってくださってますわ! これなら長時間のお仕事でも身体が楽になるはず。ああ、何度も職人さんと調整して本当によかった!)
見たかったものは見られた。仕事中に長居して邪魔をするわけにはいかない。私は満足して扉を開け、室内へ向かって頭を下げた。
「皆様、お仕事中に失礼いたしましたわ!」
「リ、リリアーナ様!?」
室長が椅子を蹴る勢いで立ち上がった。けれど私に用事はない。シード様が椅子を使っていることも確認できたので、そのまま笑顔で扉を閉めた。
執務室に沈黙が残る。室長は閉じた扉を見つめ、それからシードを見た。
「……キャメロン」
「はい?」
「今のは?」
「リリアーナ様ですね」
「それは見れば分かる」
室長が聞きたいのは、なぜ侯爵令嬢がわざわざ王宮まで来て、扉からシードを眺め、満足そうに帰っていったのかということである。他の文官たちも同じだったらしく、いつの間にか全員の視線がシードへ集まっていた。
「……お前に何か用があったんじゃないのか?」
「何も仰っていませんでしたが」
「じゃあ、何しに来たんだ」
シードにも分からなかった。ただ、扉の向こうへ消える直前のリリアーナが、とても嬉しそうだったことだけは分かった。
「椅子を使っているところを見に来たのかもしれません」
「そのためだけに!?」
室長が胃を押さえた。朝飲んだばかりなのに、もう一度胃薬が必要な気がしてきた。
♢
その日のうちに、話は他の文官たちにも伝わった。
第三文官執務室の新人が、アドラー侯爵家の令嬢から高価な椅子を贈られたらしい。それも侯爵家の紋章入りで、令嬢本人が使っているか確かめに来たという。
「何者なんだ、その新人」
「平民出身らしいぞ」
「なんで侯爵令嬢が?」
「知らん。第三の連中も分かってないらしい」
噂だけが広がっていく。まさか理由が「推しが快適に書類を捌いているところを見たいから」だとは、リリアーナ本人以外に分かるはずもなかった。
♢
夕方、他の文官たちが帰ったあとも、シードは残った書類を処理していた。
一区切りついたところでペンを置き、背もたれへ身体を預ける。朝から何時間も座っていたのに、以前の椅子を使っていた頃より腰も肩も楽だった。肘掛けへ手を置くと、昼間のリリアーナの姿が浮かぶ。
わざわざ王宮まで来て、本当にこの椅子を使っているところを見ただけで帰っていった。自分が座っているのを見つけた瞬間、扉の向こうで目を輝かせていた。
『シード様が健康で、誰にも邪魔されず、世界一幸せに書類を捌く姿を特等席で眺めたいからですわ!』
昨日聞いた言葉を思い出す。
本気だったのだ。
シードは机の上に残った書類へ目を向けたあと、誰もいない部屋で呟いた。
「……明日も、いらっしゃいますかね」
返事はない。それでもシードの口元には、自分でも気づかないほどの笑みが残っていた。ペンを握り直して次の書類を手元へ引き寄せる。
次にリリアーナが来たときも、彼女があんなふうに喜んでくれる仕事をしていたかった。
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