第4話 インクの軽さと、凍りつく第一文官
「今度はこれよ!」
アドラー侯爵邸の私室で、私、リリアーナは豪奢な木箱に入った一本の万年筆を掲げていた。
椅子はクリアした。シード様の腰痛と精神安定は確保されたわ。
ならば次は、彼のメインウェポンである『筆記具』の環境改善よ!
職人に頼み込んで、余計な力を入れずとも滑らかに滑り、長時間書き続けても指が痛くならない特注の魔導万年筆を作らせたのだ。
「お嬢様、本日は……」
「ええ、もちろん王宮へ行くわ。トーマス、馬車を用意して!」
今日も推しが快適になる。ただそれだけで、私の世界は薔薇色に輝くのだから。
♢
王宮、『第三文官執務室』
室長の胃痛は順調に悪化していた。
なぜなら、シード・キャメロンが座るあの最高級の椅子を遠巻きに見るためだけに、他部署の文官たちが廊下をうろつき始めているからだ。
当の本人は、無表情のまま書類へペンを走らせている。
ガタゴト、と扉が開いた。
「ご機嫌よう、シード様! 今日はこれを差し入れに持ってきましたわ!」
リリアーナ(十歳)が、眩い笑顔で木箱を差し出す。
(クマ! 今日のシード様の目の下のクマも大変素晴らしい深みです!)
(煤けた服で最高級の椅子に座り、最高級のペンを持つ……これよ、これが見たかったのよ!)
「……リリアーナ様。これは?」
シードが静かに問いかける。
「魔導万年筆ですわ。シード様の美しい手が、書類仕事で疲れてしまうのは耐えられませんの。どうかお使いになって?」
「……分かりました。大切に使わせていただきます」
「ええ! それではまた明日ね!」
嵐のように去っていく十歳児。
その背中を見送った後、シードは静かに木箱を開け、漆黒の万年筆を手に取った。
力まなくていい。
インクが途切れない。
思考が止まらない。
シードは小さく息を吐き、机の上の書類へペンを走らせた。
部屋の隅でお茶の準備をしていた室長が、ふとシードの手元に目をやり、動きを止めた。
ペンの動きが速いのではない。
あまりにも無駄がない。
まるで最初からそこにある文字をなぞっているかのように、流れるような速度で数式が並んでいく。
室長は、そっと胃を押さえた。
♢
その日の夕方。
第一文官室の主任文官が、他部署へ押し付けた書類の進捗を確認するため、第三文官室へやってきた。
「おい、例の関税計算の――」
言いかけた言葉が、部屋へ入った瞬間に止まる。
部屋の最奥。
大貴族の紋章が刻まれた最高級の椅子。
見たこともない上品な万年筆。
そして、その二つを当然のように使う平民の新人。
「……終わっています」
シードは書類から目を離さないまま、静かに次の束を引き寄せた。
主任文官は差し出された書類をめくり、息を呑む。
修正の跡が、一つもない。
この量を、自分たちなら丸一日はかける。
(平民の新人が……?)
背中に冷たい汗が流れた。
主任文官は、シードが座る椅子の紋章と、手元で鈍く光る魔導万年筆を見つめる。
(……アドラー侯爵家の紋章じゃないか)
わざわざ直々に通い詰め、最高級の環境を与えて囲う平民。
(……侯爵家は、何を考えているのだ?)
主任文官は引きつった表情のまま、逃げるように執務室を後にした。
「……なんなんだ、あいつは」
廊下に、掠れた呟きだけが残る。
♢
夜。
誰もいなくなった執務室。
シードは手元の魔導万年筆を静かに見つめた。
(……あの方は、どこまで私を見ているのだ)
自分が仕事をしやすいように。
それだけのために、ここまで環境を整えてくれる少女。その期待に、ただ応えたかった。
シードは静かに、手元の書類へ視線を落とす。
♢
豪華な浴槽に浸かりながらリリアーナは考える。
(次は何を贈ろうかしら。クマが酷いからベッドかしら?でも、あの目はゾクゾクしますわ!まだ見ていたいし……時間はまだまだありますわ、貢ぎますわよ〜!!)




