第58話 フェルナー領の朝
フェルナー領の朝は、今日も穏やかだった。
領主館で朝食を終えたリーネは、窓の向こうを通っていく荷馬車を眺めていた。荷台には切り出された木材が積まれていて、おそらく町の工房へ運ばれていくのだろう。
「お父様、今日も工房へ行ってきてもよろしいですか?」
「ああ。ただ、昼までには戻っておいで。午後から親方たちが来る予定なんだ」
「分かりました」
席を立とうとしたところで、父がテーブルの上に置かれていた一通の書状を手に取った。封蝋には、見覚えのある紋章が押されている。
「アドラー侯爵家からですか?」
「ああ。昨日届いたものだよ」
アドラー侯爵家と聞けば、リーネが思い浮かべるのはリリアーナ様だ。
「リリアーナ様も、お元気でしょうか」
「侯爵様の手紙には娘の近況までは書かれていないな」
「そうですよね」
リーネは少し笑ってから、もう一度椅子へ座った。リリアーナ様と会ったのは、アドラー侯爵邸を訪ねた時の一度だけ。それでも、工房の話を楽しそうに聞いてくれたことはよく覚えている。
次にフェルナー領で会えたら、今度は実際に工房を案内できる。椅子を作っているところもいいし、魔導加工の工房にも連れていきたい。考え始めると、楽しみは尽きなかった。
「お父様、お手紙には何と?」
「今作っている椅子と、新しい仕事についてだよ」
第三文官執務室へ納めた椅子は、すでに完成して王宮で使われている。現在フェルナー領で作っているのは、ほかの部署で使う文官向けの椅子と、上等な木材や布を使った貴族向けの椅子だった。
仕事が増えてから、町の工房は以前より忙しくなっている。リーネが遊びに行けば、職人たちはいつも手を動かしている。それでも仕事が増えたことを喜んでいる人は多く、領内から木材や布を運び込む荷車も以前よりよく見かけるようになった。
「新しい方は、暖魔布と魔導アイマスクという品らしい」
「暖魔布……初めて聞く名前です」
「首や肩を温めるものだそうだ。もう一つは目元を温めて休ませるためのものらしいよ」
「それは気持ちよさそうですね」
どちらもリリアーナ様が王宮の文官のために作ったものだと聞き、リーネは納得する。以前会った時も、リリアーナ様は王宮で働く人たちの話を楽しそうにしていた。
「ただ、まだフェルナー領で作ると決まったわけではない。侯爵様は、今の椅子作りに影響を出さず、新しい仕事を受けられる者がどれくらいいるのか知りたいそうだ」
「新しく人を雇うのですか?」
「その可能性もあるだろうね。工房へ毎日通うのが難しくても、家で裁縫や手仕事ができる者がいれば、その人たちについても教えてほしいと書かれている」
その話を聞いて、リーネは一人の女性を思い出した。
「それでしたら、エマさんにも聞いてみてはいかがでしょう。赤ちゃんが生まれてから工房はお休みしていますけれど、今もお家でお洋服を縫っています」
「エマか。確かに聞いてみてもよさそうだ」
父が手元の紙に名前を書き留める。
「ミラさんも裁縫がお上手です。それから……布のお仕事ではありませんけれど、ヨハンさんにも何かできることがあるといいですね」
ヨハン・クレイは、以前この町の木工工房で働いていた職人だ。大きな木材を運び、家具を組み上げる仕事をしていたが、足を怪我してから工房を辞めている。
「この前お会いした時、足はまだ痛むことがあるとおっしゃっていました。でも、座ってできるお仕事でしたら、できることがあるかもしれません」
「侯爵様も、身体の事情で以前と同じ仕事ができなくなった者がいれば、本人の希望を聞いてほしいと書いている。ヨハンにも声をかけてみよう」
「はい。何か合うお仕事が見つかるといいですね」
以前と同じ仕事でなくても、またヨハンが工房の仲間たちと一緒に働けるのなら嬉しい。もちろん、本人が望んでくれたらの話だけれど。
リーネは父の手元に少しずつ名前が増えていくのを眺めてから、席を立った。
「では、お父様。わたしは工房へ行ってまいります」
「ああ。気をつけて行っておいで」
「はい」
父に見送られ、リーネは領主館を出た。
♢
工房へ近づくにつれて、木を削る音と木材の香りが濃くなっていく。扉の前まで来ると、中にいた職人の一人がリーネに気づいた。
「おはようございます」
「おはようございます、お嬢様。今日もいらしたんですか」
「はい。お仕事の邪魔にならないようにしますので、少し見せてください」
「もちろんですとも」
中へ入ると、前に訪れた時より椅子の数が増えていた。組み上がったものが壁際に並び、その奥では別の職人が座面へ布を張っている。作業台の上にも加工途中の木材がいくつも置かれ、工房全体が忙しそうに動いていた。
それでもリーネには、この場所が落ち着く。小さい頃から何度も来ているせいか、木を削る音も、職人たちが話す声も、すっかり耳に馴染んでいた。
工房の奥に見慣れない椅子を見つけ、リーネは足を止める。
「あちらは、貴族向けの椅子ですか?」
「そうです。まだ試しに作っているところですが」
「近くで見てもよろしいですか?」
許可をもらってから椅子のそばへ向かう。文官向けとは使われている木材から違い、背もたれには細かな模様が彫られ、座面には上質な布が張られていた。
「綺麗……」
思わず零れた言葉に、職人が嬉しそうに笑う。
「せっかく貴族の方に使っていただくんです。座りやすいだけじゃなく、屋敷に置いても見劣りしないものにしようと思いまして」
「素敵だと思います。リリアーナ様にも見ていただきたいです」
「アドラー侯爵家のお嬢様ですか?」
「はい。以前お会いした時、工房を見てみたいとおっしゃってくださったんです」
リーネは、リリアーナ様がここへ来た時のことを思い浮かべる。きっと椅子だけでは終わらない。木材を加工するところも、魔導加工をするところも見たがるだろう。前に話した時も、どの工房も見たいと言ってくれた。
その時は、自分が案内する。そう思うと、今から楽しみだった。
「お嬢様、よろしければこちらもご覧になりますか?」
別の作業台から声をかけられ、リーネはそちらへ向かう。
「ぜひ見せてください」
職人の手元にあったのは椅子ではなく、手のひらより少し大きな木箱だった。蓋には小さな花が彫られている。
「まあ、可愛い」
「余った木があったので、娘に持って帰ろうと思いまして」
「娘さん、きっと喜びますね」
花びらの一枚一枚まで綺麗に彫られている。売り物ではないと言われるのが惜しいくらいだった。
「こういう木箱は、お店には出さないのですか?」
「たまに作りますが、王都へ持っていくほどではありませんね。運ぶのにも金がかかりますし、こちらで売るくらいです」
「そうなのですね……」
フェルナー領には、こういう品がたくさんある。木箱や小物入れ、細かな彫り物。布を使った小物もあれば、簡単な魔導加工を施した日用品も作られていて、リーネは工房を訪ねるたびに新しいものを見つけるのが好きだった。
けれど、領内で作ったものをすべて王都へ持っていけるわけではない。フェルナー家には王都で広く商品を売るための店も、大きな販路もなかった。
まとまった数を売る時には、王都とのつながりを持つ商人や貴族に頼ることになる。父と母がその話をしているのを、リーネも何度か聞いていた。
値段を下げなければ引き取ってもらえないこともある。それでも売らなければ、お金にはならない。
難しい商売のことはまだ分からないけれど、父がその話をする時に困った顔をすることだけは知っている。
リーネはもう一度、花の彫られた木箱を見る。
「リリアーナ様にも、こういうものを見ていただけたら嬉しいです」
「気に入ってくださるといいですね」
「はい」
侯爵令嬢なのだから、リリアーナ様はもっと高価で美しいものをいくらでも見ているはずだ。それでも、工房の話を楽しそうに聞いてくれたリリアーナ様なら、ここで作られているものにも興味を持ってくれるかもしれない。
椅子だけではなく、木箱も、布の小物も、魔導加工をした日用品も。自分が好きなフェルナー領のものを、一緒に見て回れたらきっと楽しい。
リーネは花の彫られた木箱を眺めながら、リリアーナ様がフェルナー領を訪れる日を楽しみにしていた。




