第41話 今日は特別な一日
翌朝
眠れないと思っていたわりにはしっかり眠れたらしく、目覚めも悪くない。朝食を終えるとすぐ自室へ戻り、昨日マリーに選んでもらった水色のワンピースへ着替えた。
髪を整えてもらい、姿見の前に立つ。
「マリー、本当にこれで大丈夫ですわよね?」
「昨日も申し上げましたが、とてもよくお似合いですよ」
マリーはリリアーナの髪飾りの位置を直した。
今日のマリーは、昨日リリアーナが選んだ深緑のワンピースを着ている。髪も普段より柔らかくまとめられていて、いつもの侍女姿とはかなり印象が違った。
「やっぱりマリーは可愛いですわ!昨日のわたくしの判断は完璧でしたわね!」
「ありがとうございます。では、お嬢様もわたくしの判断を信じてくださいませ」
「マリーのことは信じていますわ。でも不安になるのです」
「お嬢様は、もう少しご自分を正しく評価なさったほうがよろしいですよ。まずはお顔からですが」
「顔?」
何の話だろうと鏡を見ると、鏡越しにマリーと目が合うと、マリーはにこっと嬉しそうに笑った。
「そのお顔です。贔屓目を抜きにしても、同じお年頃のお嬢様方の中では、かなりお可愛らしいんですから」
そう言いながら、マリーの指が私の髪をひと房すくう。
淡いシャンパンブロンドの髪は、背中まで緩やかに波打っている。今日はその一部を細く編み込み、後ろでまとめてもらっていた。
「髪も綺麗ですし、お肌も白くて、何よりその瞳です。これだけ綺麗な紫色の瞳をしていれば、嫌でも目を引きますよ」
言われて鏡の中の自分と目が合った。
確かに、アメジストみたいな紫の瞳は大きくて目立つ。頬にはまだ子供らしい丸みが残っているし、十歳になったばかりの顔には前世の私とは比べものにならないくらい整った目鼻が収まっていた。
「……つまり、私は可愛い?」
「はい。とても」
マリーは迷うことなく言い切った。
「お嬢様がご自分で思っていらっしゃるより、ずっと」
そこまで言い切られてしまうと、なんだかこっちが恥ずかしくなってくる。けれど、今日の服も髪もマリーが選んでくれたのだ。少なくとも変ではないらしいと安心して、もう一度だけ姿見の中の自分を確認した。
これなら、シード様に会っても大丈夫なはず。
そう思ったところで待ち合わせの時間が気になり、時計へ目を向ける。まだ出発するには少し早い。それでもリリアーナはじっとしていられず、マリーを振り返った。
「そろそろ出発してもよろしいのではなくて?
途中で何があるか分かりませんし、シード様をお待たせするわけにはいきませんもの」
「まだずいぶん早いですよ?」
「早めに着く分には問題ありませんわ!」
そう言って、リリアーナは待ちきれずに部屋を出た。
♢
馬車の窓から見慣れた王宮が見えてくると、リリアーナは自然と窓の外へ身を寄せた。
いつもなら門を通り、そのまま第三文官執務室へ向かうところだが、今日は中へ入らない。待ち合わせ場所は王宮の正面だ。
「もういらっしゃるでしょうか。わたくしたちの方が早いと思いますけれど……シード様なら先に来ていそうな気もしますわ」
「もうすぐ分かりますよ」
馬車が停まり、御者が扉を開ける。
リリアーナはマリーと一緒に外へ出ると、すぐ王宮前を見回した。
馬車を降りる貴族や、門へ向かう役人。その中から見慣れた濃紺の文官服を探しかけて、今日は違うのだと思い出す。
そして、人の流れから少し離れたところに立つ少年と目が合った。
リリアーナの足が止まった。
白いシャツに、落ち着いた灰色の上着。黒に近い細身のズボンと革靴を合わせ、仕事中は自然に下ろされているだけの髪が、きっちり整えられている。
毎日のように見ているはずなのに、一瞬分からなかった。けれど、見間違えるはずがない。
(シード様ですわ……!)
ずっと見たかった、仕事をしていない日のシード様。昨日の夜に何度想像しても分からなかった、文官服ではない姿が、今、目の前にいる。
シード様もこちらに気づいた。
目が合うと、その表情が柔らかくなり、リリアーナたちの方へ歩いてくる。そして昨夜、布団の中で何度も想像した通りに口を開いた。
「リリアーナ様、おはようございます」
(本当に言いましたわーーーーっ!)
危うくその場で足をばたばたさせるところだった。リリアーナはワンピースの裾を握って耐え、どうにかいつもの挨拶を返す。
「お、おはようございます、シード様!
今日はよろしくお願いいたしますわ!」
「こちらこそ、よろしくお願いします。お誘いいただいてありがとうございます」
「お礼を言うのはわたくしの方ですわ。せっかくのお休みに来てくださったのですもの!」
話している間も、どうしても視線がシードの服へ戻ってしまう。見慣れているはずの顔まで、今日はいつもと違って見えた。
(待って。私服のシード様、ものすごく格好いいですわ……!)
少し長めの黒髪から覗く顔はすっきりと整っていて、鼻筋はまっすぐ。伏せていた瞳がこちらを向けば、深い青の瞳が朝の光を受けて鮮やかに見えた。
まだ十五歳だからか、輪郭には少年らしい柔らかさが残っている。それなのに、目元は涼しげで、立っているだけでも目を奪われる。
(わたくしの推し、やっぱり顔まで完璧なのでは……?)
「……リリアーナ様?」
さすがに見すぎたのか、シードが自分の服を確認した。
「何か変でしょうか?」
「まさか! その逆ですわ! 初めて拝見しましたから、つい見てしまっただけですの。とてもお似合いですわ、シード様!」
「そうですか。ありがとうございます」
シードは自分の上着を一度見下ろしてから、リリアーナへ視線を戻した。
「リリアーナ様も、今日はいつもと雰囲気が違いますね。その服、とてもお似合いです」
「……っ!」
(推しがわたくしの服を見て、似合うって……似合うって言いましたわ……!)
顔が熱い。たぶん今、ものすごく赤くなっている。
けれど、ここで崩れ落ちるわけにはいかない。
わたくしは侯爵令嬢。侯爵令嬢なのだから。
「……あ、ありがとうございますわ」
なんとかそれだけ返した。
危なかった。あと一言褒められていたら、たぶん耐えられなかった自信がある。
昨日も今朝も、シード様から見て変ではないだろうかと何度もマリーに確認した。その本人から「似合っている」と言われたのだから、すぐには言葉が出てこなかった。
「お嬢様?」
マリーに呼ばれ、リリアーナは我に返った。
「シード様! このお洋服、マリーが選んでくれましたの!」
言いながら隣のマリーを見る。選んでくれたマリーやに今すぐ感謝したい。ちゃんと褒めてもらえたのだから、マリーの選んだ服で正解だったって!
「それから、マリーのお洋服はわたくしが選びましたのよ。似合っていますでしょう?」
「お嬢様、わたくしの話までなさらなくても……」
突然自分へ話が飛んできたマリーが止めようとしたが、シードはきちんと彼女の服を見た。
「はい。よく似合っていると思います。いつもの侍女服とは印象が違いますね」
「ほら! やっぱりわたくしの判断も正しかったですわ!」
自分の服を褒められたとき以上に堂々と胸を張るリリアーナに、マリーは何も返さず、乱れてもいない髪を整えた。
♢
「それで、今日はどちらへ行かれる予定なのですか?」
王宮前を離れて大通りへ向かう途中、シード様が尋ねてきた。
リリアーナはこの二日間、行き先についても考えていた。評判の菓子店や大きな商店、侯爵家でも利用する店ならいくつも知っている。
けれど、結局一つには決めなかった。
「最初から全部決めるのはやめましたの。せっかくシード様のお休みなのですから、わたくしが行きたいところだけではなく、シード様が行きたいところにも行きたいですわ」
「僕の行きたいところ、ですか?」
「はい。普段のお休みには何をされているのか、わたくし全然知りませんもの。ですから今日は、シード様が好きな場所にも連れていってくださいませ!」
シードはしばらく考えてから、大通りの先へ目を向けた。
「でしたら、本屋へ行ってもよろしいですか? 以前お願いしていた本が入ったと連絡をいただいているんです」
「シード様がいつも行かれている本屋ですの?」
「はい。休日には時々寄っています」
「行きますわ! ぜひ案内してくださいませ!」
答えは決まっていた。第三文官執務室では一年近くシード様を見てきたが、休日の過ごし方についてはほとんど知らない。いつも行く店があるなら見てみたいし、そこで何を選ぶのかも知りたい。
「分かりました。こちらです」
今日は自分がシード様のところへ行くのではなく、シード様が自分の知っている場所へ連れていってくれる。その背中を追いながら、リリアーナは初めて歩く道へ足を踏み出した。
♢
連れてこられた本屋は、大通りから一本入った場所にあった。
貴族向けの豪華な店ではない。二階建ての小さな建物で、扉を開けると紙と革の匂いが漂い、壁際から店の奥まで背の高い本棚が並んでいる。
「いらっしゃい……おや、シード君。今日は仕事じゃないのかい?」
奥から出てきた年配の店主が、シードを見るなり名前を呼んだ。
「今日は休みなんです。以前お願いしていた本が入ったと聞いたので」
「入ってるよ。ちょっと待ってな」
店主が奥へ戻っていく。そのやり取りだけで、リリアーナはシードの隣へ寄った。
「シード様、店主の方にお名前を覚えられていますのね」
「何年か通っていますからね。月に何度かですが、新しい本が入ると見に来ています」
「何年も……」
当たり前のことなのに、改めて聞くと新鮮だった。
この本棚も、軋む床も、カウンターに積まれた本も、シード様にとっては昔から知っている景色なのだろう。
「シード様はいつも、どんな本を読まれるのですか?」
「歴史や法律関係が多いですね。最近は他国の制度について書かれたものも読んでいます」
「お休みの日まで、ずいぶん難しい本を読まれるのですね」
「面白いですよ。同じ問題でも、国によって解決方法が違いますから。こちらでは当たり前だと思われている制度が、他国ではまったく違う形になっていることもあります」
説明しながら本棚へ目を向けるシードを見て、リリアーナもその先を追った。
何冊か背表紙を確認するだけでも、シードの目が普段より楽しそうに動いている。書類の山を前にしているときとは違い、誰かに頼まれたからでも仕事だからでもなく、自分が知りたいから本を探しているのだ。
「シード様は、本当に本がお好きなのですね」
「はい。つい買いすぎてしまうこともあります」
「まあ! シード様にもそんなことがありますの?」
思わず聞き返すと、シードは少し困った顔をした。
「ありますよ。帰りに手持ちを確認して、少ないときは今月は控えようと思うんですが……欲しい本を見つけると、つい」
「意外ですわ。何でもきっちりなさっているので、お買い物でも絶対に失敗しないのかと思っていました」
「さすがにそこまで完璧ではありませんよ」
仕事ではほとんど間違えず、頼まれたことも忘れないシード様が、本の前では財布と相談して悩む。
今日ここへ来なければ、きっと知らないままだった。
「待たせたね。これだろう?」
店主が一冊の本を持って戻ってきた。
「ありがとうございます」
受け取ったシードは、その場で何ページか確認する。文字を追う目は真剣なのに、いつもの仕事中とは違って急いでいない。一枚ずつゆっくりページを送り、内容を確かめている。
リリアーナは隣に立ったまま、その横顔を見ていた。
「……すみません。待たせてしまいましたね」
顔を上げたシードと目が合う。
「全然ですわ。シード様が楽しそうでしたから、わたくしも見ていて楽しかったですもの」
「僕を見ていたんですか?」
「はい!」
「あまり面白くないと思いますが……」
「シード様だから楽しいのですわ!」
迷わず答えると、シードの手が止まった。
「……そう、ですか」
それだけ言って、本へ視線を戻す。けれどページはさっきから一枚も動いていない。
リリアーナが不思議に思っていると、少し離れたところにいたマリーが別の本棚へ移動した。
「マリー?」
「せっかくですので、わたくしも本を見てまいります。お嬢様はシード様とごゆっくり」
「ええ。何か面白いものがあったら教えてくださいませ!」
「かしこまりました」
マリーが離れてから、シードはようやく次のページをめくった。




