第35話 今日だけは甘えさせてくださいませ
朝食は、いつもの半分も食べられなかった。
厨房で作ってもらった柔らかな粥なら食べられると思ったのに、いざ目の前にすると食欲が湧いてこない。それでも薬を飲むためには何か入れた方がいいと言われ、リリアーナはベッドの上で身体を起こした。
自分で食べるつもりでスプーンを持ったものの、数口食べたところで腕が重くなってくる。
「マリー。病気というのは暇なのに、何もしたくなくなるのですね。いつもなら暇があれば何かしたいと思うのに、不思議ですわ」
「それだけお身体が休みたがっているのでございますよ。今日はお勉強も王宮のことも忘れて、何も考えずにお休みくださいませ。もちろん、シード様のこともです」
最後にとんでもない条件が足された。
リリアーナはマリーを見る。
「シード様のことまで考えないのは無理ですわ。そこだけは別のお話でしょう?」
あまりにも真顔で返されたものだから、マリーはとうとう笑ってしまった。
そのまま主人の手からスプーンを受け取り、器を持ち直す。
「では、せめてお嬢様が元気になってから考えてくださいませ。今は食べることだけに集中なさってください」
熱があるだけなのに、何をするにも普段より時間がかかる。数口食べるだけで身体を起こしているのがつらくなり、食べ終える頃にはまた横になりたくなっていた。
マリーに背中を支えてもらいながら枕へ身体を預けると、冷たい布が額へ置かれる。
それが気持ちよくて、リリアーナは目を閉じた。
(何もしなくていいと言われると、逆にいろいろ考えてしまいますわ)
フェルナー家で父は今頃何を話しているだろうか、リーネは自分が来なかったことをどう思っているだろう。
それから第三文官執務室では、シード様が今日も書類に向かっているはずだ。
「……シード様、ちゃんと休憩されているでしょうか」
額の布を替えていたマリーの手が止まった。
「今、一番休まなければならないのはお嬢様でございますよ。ご自分は熱を出して寝込んでいらっしゃるのに、まだシード様のお仕事を心配なさるのですか?」
言われてみればその通りだった。今日は自分の方がベッドから出ることすら許されていない。
それなのに、シードが無理をしていないか気になっている。
「……わたくし、人のことを言えませんわね」
自分でもおかしくなって、布団の中で笑った。マリーもつられて笑いながら、頬にかかった髪を耳へ避けてくれる。その手つきが優しくて、リリアーナの瞼が重くなってきた。
いつもなら、まだいくらでも話していられるのに。
眠りに落ちる前、リリアーナはベッドのそばにいるマリーへ手を伸ばした。
「マリー……わがままを言わせてください。わたくしが眠るまで手を握っててほしいのですわ」
今だけは、一人になるのが嫌だった。
マリーは伸ばされた手を迷わず握った。
「もちろんでございます。お嬢様がお休みになるまで、ここにおりますから安心してください」
その言葉を聞いて、リリアーナはようやく身体から力を抜いた。
握っていた手の力がだんだん弱くなり、しばらくすると小さな寝息が聞こえてくる。
マリーは手を離さなかった。
眠っているリリアーナの頬には、まだ熱が残っている。いつもなら朝から元気に屋敷の中を歩き回り、王宮へ行けばシードのために何かできないかと考えている主人が、今日はこうして大人しくベッドに横になっている。
コンコン、と控えめに扉が叩かれたのは、そんな時だった。
マリーが振り向くと、扉がわずかに開き、屋敷の侍女が顔を覗かせた。
「マリーさん、少しよろしいですか?」
声を抑えて呼ばれたものの、マリーは立ち上がらなかった。
眠っているリリアーナへ目を向けてから、握られたままの手を見る。
「急ぎのご用件でしょうか?」
「いえ、急ぎではありません。あとでも大丈夫です」
「でしたら、申し訳ありませんが後ほど伺います。今はお嬢様のおそばにいたいので」
侍女はベッドで眠るリリアーナを見て事情を察したのか、静かに頷いて扉を閉めた。
再び二人きりになった部屋で、マリーは眠っている主人へ向き直る。
頬にかかっていた金色の髪をそっと避けると、リリアーナは気持ちよさそうに眠ったまま、握っている手へ頬を寄せてきた。
その姿に、マリーの頬が自然と緩む。
王宮へ行けばシードのことばかり考えて、何か思いつけばすぐに動き出す。最近ではアルベルト様から将来について聞かれ、今度はフェルナー男爵家のことまで気にかけていた。
十歳なのだから、もう少しくらい何も考えずに遊んでいてもいいのに。
それでも、この子は誰かのためとなると一生懸命になってしまう。
「本当に、頑張り屋さんなんですから」
眠っているリリアーナに聞こえないよう、マリーは小さな声で呟いた。
そして、握っている小さな手を両手で包む。
「早く元気になってくださいね、お嬢様」
この作品が「明日も続きを読もう」と思えるような、日々の楽しみのひとつになれたら嬉しいです!
次の話は11時に更新予定です。




