第33話 リーネ・フェルナー
「リーネは、大きくなったら何をしたい?」
夕食の途中で母からそんなことを聞かれ、リーネ・フェルナーはスープを口へ運ぶ手を止めた。
十歳のリーネにとって、将来という言葉はまだ遠い。男爵家の娘として、いずれは結婚するのだろうとは何となく分かっている。けれど、誰と結婚して、どこで暮らして、その先で何をするのかなんて考えたこともなかった。
「急に聞かれても難しいわ。お父様のお仕事をお手伝いするのは駄目?」
そう答えると、母は困ったように笑った。
「もちろん嬉しいけれど、それはお父様がしていることでしょう? お母様が聞きたいのは、リーネ自身がやってみたいことよ。最近はよく工房へ行っているから、何か見つかったのかと思ったの」
工房
そう言われると、いくつか思い浮かぶものはあった。木を削る職人さんの手や熱した金属を叩く音。
職人さんたちが相談しながら形にして、数日後には本当に使えるものになっている。あの瞬間は、何度見ても楽しい。
けれど、それが将来やりたいことなのかと聞かれると、まだ分からなかった。
「工房へ行くのは好きだけど、職人さんにはなれないもの。わたしが木を削ったら、たぶん全部曲がっちゃうわ」
リーネが以前の失敗を思い出しながら言うと、父が笑った。初めて木を削らせてもらった日、真っすぐにするはずだった板を見事に斜めにしてしまったことを、父も知っている。
結局、その日の夕食では将来の答えは出なかった。それでも母は急かさず、これから見つければいいと言ってくれた。
リーネも、それでいいのだと思うことにした。
♢
翌朝、リーネは鏡の前で自分の髪と格闘していた。
肩より下まで伸びた淡い茶色の髪は、右側だけがどうしても外へ跳ねてしまう。水で濡らして櫛を通し、今度こそ大丈夫だと思って手を離したのに、鏡を覗けば同じところがまた跳ねていた。
「……やっぱり駄目。ごめんなさい、お願いしてもいい?」
後ろで待っていた侍女へ櫛を渡すと、慣れた手つきで髪を整えてくれた。
毎朝のようにやってもらっているのだから、最初から頼んだ方が早い。それでも自分でできることはなるべく自分でしたくて、リーネは何度失敗しても挑戦している。
侍女の手が髪を梳いていくうちに、鏡の中の寝癖が綺麗に消えていった。
淡い茶色の髪に、若葉のような薄緑色の瞳。背丈は同い年の少女たちと比べても高くなく、華やかというより柔らかな顔立ちをしている。笑うと目尻が下がるせいで、父からは以前「お前は怒っていても怖く見えないな」と言われたことがあった。
本人はそれで困ったことがないので、特に気にしていない。
今日は工房へ行くため、綺麗なドレスではなく動きやすいワンピースを選んだ。何度も通っているうちに、木屑や埃がつく場所へお気に入りの服で行ってはいけないことを私は学んだのだ。
身支度を終えて朝食を済ませると、リーネは屋敷を出た。
フェルナー男爵家の屋敷は、貴族の住まいとしては大きくない。領地も広くはなく、王都からも離れている。
けれどリーネは、自分が生まれ育ったこの場所が好きだった。
屋敷から歩いていける場所に街があり、その先にはフェルナー領の職人たちが集まる工房がある。リーネが向かったのは、そこだった。
♢
「こんにちは。昨日お願いしたもの、できていますか?」
工房の扉を開けると、木を削る音と金属を叩く音が一緒に飛び込んできた。
奥にいた職人がリーネに気づき、作業台の上から一つの木箱を持ってくる。
「できていますよ。リーネ様が仰っていた通り、中を分けておきました。ただ、針を入れる場所だけは変えてあります。最初に言われた形だと、持ち運んだときに中から飛び出しそうでしたからね」
蓋を開けたリーネの顔が明るくなった。
箱の中はいくつもの小さな区画に分かれている。
母が裁縫をしているところを見ていると、いつも糸やボタンを探していた。全部同じ箱へ入れているから探すのが大変なのではないかと思い、リーネが職人へ相談したのだ。
「すごい。これなら糸とボタンを別々に入れられますね。針のところも、こっちの方が良さそうです。わたし、そこまで考えていませんでした」
「作ってみないと分からないこともありますから。リーネ様は欲しいものを言ってくださればいいんですよ。どう作るかを考えるのは、こっちの仕事です」
その言葉を聞いて、リーネは木箱をもう一度眺めた。自分では、こんなに綺麗なものは作れない。木を削る技術もなければ、道具の使い方だってほとんど知らない。
けれど、母が困っていた。こうすれば便利になるのではないかと考えて、それを作れる人に伝えることもできた。
そうすると、本当に形になって目の前へ出てくる。
リーネは、この瞬間が好きだった。
工房へ通うようになったのも、それが楽しかったからだ。
最初は父についてきただけだった。何もない木の板が椅子になり、ただの金属が生活道具になっていくのが面白くて、職人たちにいろいろなことを聞くようになった。
そのうち誰が何を得意としているのかまで覚えてしまった。
木工品ならこの人。
細かな金属加工なら向こうの工房。
布を使うなら街の反対側にいる職人。
リーネ自身は何も作れないのに、作れる人のことばかり詳しくなっていた。
「これ、お母様に持って帰りたいのですけれど、おいくらですか?」
財布を取り出すと、職人は受け取ろうとしなかった。
余っていた木材で作ったものだから代金はいらないと言われたが、それではリーネは納得できない。
「お母さんが言ってました、職人さんの技術は凄いんだと。何か作るにはお金がかかるんだよって」
リーネがそう言うと、職人は困った顔になった。
「う〜ん、いつもリーネちゃんから元気をもらってるからお金はいらないよ……って言ってもダメなんだよな、よし、わかった、じゃあ後からお父さんに貰うことにしよう」
あとで父へ請求してもらうことで話がまとまり、リーネは木箱を大事に抱えて工房を出た。
♢
屋敷へ戻ったところで、父の執務室から声が聞こえてきた。
いつもなら、そのまま自分の部屋へ戻る。けれど今日は、工房という言葉が聞こえて足が止まった。
「……この値段では、職人たちへ支払ったあとにほとんど残らない。それは向こうも分かっているはずなんだがな」
父の声だった。
どうやら商人との取引について話しているらしい。フェルナー領の工房で作った品を買いたいという話が来たものの、提示された金額が安すぎるようだった。
父も断りたいらしい。けれど、売れなければ何も入ってこない。フェルナー家には、もっと高い値段で買ってくれる別の商人を簡単に探せるほどの力もなかった。
リーネは腕の中にある木箱を見た。
さっきまで、これを作ってくれた職人と話していた。木を選び、切り、形を整え、リーネが考えた仕切りまでつけてくれた。あれだけ手間をかけても、売る相手が違うだけで安くなってしまう。
(せっかく、こんなに上手に作れるのに……)
悔しかった。父が悪いわけではないことも分かっている。職人さんたちだって悪くない。それでも、いいものを作れば自然と高く売れるわけではないらしい。
十歳のリーネには、どうすればいいのか分からなかった。だから父の部屋へ入ることもできず、そのまま静かに離れた。
♢
夕方になると、リーネは母の部屋を訪れた。
工房から持ち帰った木箱を渡すと、母はさっそく裁縫道具を移し始める。
「まあ、使いやすそうね。これならボタンを探すたびに箱をひっくり返さなくて済むわ。ありがとう、リーネ」
母が何度も箱を開け閉めしている。その姿を見ているうちに、リーネも嬉しくなった。
昨日の夕食で聞かれたことを思い出す。将来、何をしたいのか。
まだ答えは分からない。
けれど、自分が好きなことなら一つ見つかった気がする。
「お母様。昨日のお話なんですけど、わたし、こういうことはずっとやっていたいかもしれません」
リーネは母の隣へ座り、完成した木箱を指でなぞった。
「誰かが困っていることを聞いて、こうしたら使いやすくなるんじゃないかって考えるのが楽しいんです。それを職人さんにお願いして、本当に形になって、使った人が喜んでくれると……また何か考えたくなるんです」
職人にはなれないし、自分の手で作る技術もない。それでも、できることはあるのかもしれない。
母は娘の話を最後まで聞いてから、木箱へ目を落とした。
「それなら、無理に職人になる必要なんてないわ。リーネにはリーネにできることがあるでしょう?
今日見つけたその気持ちを、忘れないようにしなさい」
リーネは嬉しくなって頷いた。
いつか、それを本当に仕事にできるのかは分からない。それでも昨日より、自分の将来が楽しみになった。
そんなことを考えていたところへ、使用人が慌てた様子で部屋へ入ってきた。
「奥様、リーネ様。旦那様がお二人をお呼びです。
王都からお手紙が届いたのですが……アドラー侯爵家からのものだそうです」
母の表情が変わった。
リーネには、その名前を聞いただけでは何が起きたのか分からなかった。男爵家である自分たちより、ずっと上の家だということは知っている。
けれど、そんな家からどうしてフェルナー家へ手紙が届くのだろう。
父の部屋へ向かうと、机の上には見慣れない紋章で封をされた手紙が置かれていた。
「リーネにも関係することだから呼んだんだ。アドラー侯爵家のご令嬢、リリアーナ様がお前と会って話をしたいそうだ。それだけではなく、フェルナー領の職人や工房についても話を聞きたいと書かれている」
父から聞かされても、リーネは理解できなかった。
会ったこともない侯爵令嬢。その人が自分の名前を知っていて、しかも工房のことまで聞きたいという。
「……どうして、わたしなんでしょう?」
父も同じらしく、手紙を何度も読み返していた。
リリアーナ・ヴァン・アドラー
その名前を、リーネはこの日初めて覚えた。
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次回《よりによって今日ですの!?》 ですわ!




