第36話 マリーはお姉様
リリアーナが目を覚ましたとき、窓から差し込む光の向きが変わっていた。
ぼんやりしたまま顔を横へ向けると、ベッドのそばに置かれた椅子へマリーが座っていた。膝の上には本が開かれている。
「……マリー」
「お目覚めですか。朝よりお顔の色もよくなっていますね。お水をお持ちしますので、身体を起こしましょうか」
背中を支えてもらい、水を飲む。朝は飲み込むだけでも痛かった喉も、今はずいぶん楽になっていた。
「熱も下がってきていますよ。ですが、今日はこのままお休みくださいませ」
「分かりましたわ。それよりマリー、ずっとここにいてくださったのですか?」
「お嬢様が目を覚ましたとき、誰もいなかったら寂しがられるでしょう?」
からかわれているのに、今日は否定する気になれなかった。
「……ありがとうございます」
「どうされたのですか、急に」
「急ではありませんわ。ずっと言おうと思っていたのです」
王宮へ行きたいと言ったときも、シード様のために椅子を作りたいと言ったときも、マリーは何も言わず付き合ってくれた。
「わたくしが好き勝手に走り回るたび、マリーはいつも助けてくださいますでしょう? 職人を探してくださったり、お菓子を用意してくださったり……わたくし一人では、シード様にしてあげられなかったことがたくさんあります」
「お嬢様のしたいことをお手伝いするのも、わたくしのお仕事ですから」
「それでも、マリーがいてくださって本当によかったですわ」
恥ずかしかったけれど、今度は目を逸らさなかった。
「だから、いつもありがとうございます」
「……お嬢様」
握った手を、マリーが優しく包み返してくれる。
その手の温かさに、リリアーナはふと思った。
「マリーは、なんだかお姉様みたいですわね」
「お姉様、ですか?」
「ええ。わたくしにはお姉様はいませんけれど……きっと、いたらこんな感じなのだと思いますの。困ったときは助けてくださって、わたくしが変なことを始めても最後まで付き合ってくださって、それでいて駄目なことはちゃんと叱ってくださるでしょう?」
マリーは包んでいたリリアーナの手を少しだけ強く握る。
「それでしたら、わたくしはずいぶん世話焼きなお姉様ですね」
「そこがいいのですわ」
今度はリリアーナが笑った。
「ですから、これからもよろしくお願いしますわ。マリーお姉様」
「まあ……」
さすがのマリーも困ったように笑った。
「その呼び方は、少々恥ずかしゅうございます」
「では、二人きりのときだけにします?」
「そういう問題ではございませんよ、お嬢様……
じゃあ、お姉ちゃんからのお願い、身体を壊すほど頑張ることだけはお許ししません」
「……はい。約束しますわ」
マリーが笑う。
その顔を見ていると、胸の奥が温かくなった。
♢
夕方になると、アルベルトが帰ってきた。
「お父様、フェルナー男爵とのお話はどうなりましたの?」
「ちゃんと話してきたよ。工房のことも、これから進められそうだ」
「本当ですの!」
思わず身体を起こすと、アルベルトに「病人が飛び起きるんじゃない」と布団へ戻されてしまった。
「詳しい話は元気になってから聞かせてあげるから、今日は安心して休みなさい」
「では、一つだけ。リーネ様にはお会いになりましたの?」
「いや。今日はフェルナー男爵と仕事の話だけだ。
リーネ嬢に会いたがっていたのはリリアーナだろう?お前が元気になってから会えばいい」
「わたくしが風邪で行けなくなったことは……?」
「もちろん伝えてあるよ」
「よかった……」
今日は会えなかった。
けれど、もう会えないわけではない。
元気になったら、今度こそ自分で会いに行こう。そして今日のことを謝って、ちゃんと話をしてみたい。
「だから今は風邪を治すこと。いいね?」
「はい、お父様」
♢
「明日には治りますかしら」
「そのためにも、今夜はゆっくりお休みくださいませ」
アルベルトが部屋から出て行ったあとも、マリーは変わらずベッドのそばにいてくれた。
「元気になったら、お父様からフェルナー家のお話を聞いて、リーネ様にもお会いしたいですわ。それから王宮にも……」
そこまで言ったところで、もう一人会いたい人が浮かんだ。
「……シード様にも、数日お会いしておりませんわね」
それなのに、ずいぶん長いこと会っていないような気がする。
「シード様はちゃんとお仕事をしていらっしゃいますよ。お嬢様が元気になれば、また会いに行けます」
「そうですわね」
早く元気になろう。
王宮へ行って、第三文官執務室のみんなの顔も見たい。
そして何より、シード様がいつもの席で書類を捌いている姿を見たい。
そう考えているうちに、また瞼が重くなってきた。
「……マリー」
「はい」
「マリーが風邪を引いたら、今度はわたくしが看病いたしますわ」
「まあ。それは心強いですね」
「任せてくださいませ。お粥だって……わたくしが……」
そこまで言ったところで声が途切れ、すぐに小さな寝息が聞こえてきた。
マリーは眠ってしまったリリアーナの手を握ったまま、そっと布団を掛け直した。
マリーは空いた手でリリアーナの髪を撫でる。
「では、元気になったらお粥の作り方から覚えましょうね」
リリアーナは起きる様子もなく、そのまま気持ちよさそうに眠っていた。
娘の様子を見に来たエレノアは、僅かに開いていた扉から部屋の様子を見ていた。
ベッドではリリアーナが安心しきった顔で眠り、その手を握るマリーがそばにいる。
エレノアは二人をしばらく見つめると、何も言わずに微笑んだ。そして起こさないよう、開いていた扉をゆっくりと閉めた。
「リリアーナは?」
声を掛けられて振り向くと、廊下の先にアルベルトが立っていた。先ほど様子を見に来たばかりなのに、どうやらまた気になって戻ってきたらしい。
「眠ったわ。マリーがそばにいてくれているから大丈夫よ」
「そうか」
安心したように頷きながらも、アルベルトの視線は閉じたばかりの扉へ向いている。
「……熱を出したのは久しぶりだからな」
娘の前ではいつも通りに振る舞っていたくせに、やはり心配だったらしい。
「大丈夫よ。あの子、明日にはまた王宮へ行きたいと言い出すわ」
「それはそれで困るんだが」
二人でもう一度娘の部屋を見る。
扉の向こうからは何も聞こえてこない。
今夜くらいは、あの子も大人しく眠ってくれるだろう。
「行きましょう、あなた」
「ああ」
エレノアはそんな夫の腕に自分の腕を絡めた。
二人は娘をマリーに任せ、並んで廊下を歩いていった。
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