第31話 シード・キャメロンの日常
「キャメロン、昨日頼んだ書類なんだが、昼までに終わりそうか?」
朝の第三文官執務室で声をかけられ、シードは手元の書類から顔を上げた。
「それでしたら、昨日のうちに確認まで終わっています。こちらでよろしいでしょうか」
机の端に置いていた束を差し出すと、先輩文官は目を丸くしながら受け取った。その場で何枚かめくり、最後の確認欄まで目を通してから、呆れたように笑う。
「本当に終わってるな。昼まででいいって言っただろう。別に急ぎじゃなかったんだぞ」
「昨日は自分の仕事が早く終わりましたので。それに、途中まで確認していたものを残して帰る方が気になってしまって」
「お前は本当に仕事が好きだなあ。まあ、おかげで助かったよ。ありがとう」
そう言って戻っていく先輩へ、シードも「いえ」と頭を下げてから椅子へ座り直した。
第三文官執務室で働き始めてから、半年以上が経っている。
十五歳のシードは、この部屋では一番年下だ。当然ながら文官としての経験も一番浅く、最初の頃は周りにいる全員が自分よりずっと仕事のできる人に見えた。
だから、迷惑だけはかけたくなかった。
教えてもらったことは覚える。同じことを何度も聞かなくて済むようにする。分からないところがあれば勝手に判断せず、必ず確認する。
それを繰り返しているうちに、仕事を任されることが増えた。
最近では、教えてもらうだけではなく、反対に聞かれることもある。
「キャメロン、今いいか? 昨日からここの数字が合わなくてな。計算は何度もやり直したんだが、どこがおかしいのか分からないんだ」
先輩文官が一枚の書類を持ってやってきた。
「もちろんです。見せていただいてもよろしいですか?」
受け取ったシードは、自分が作業していた書類を端へ寄せた。
数字だけを見るのではなく、上に書かれた日付から順番に確認していく。前月分の記録と見比べたところで、一つだけ同じ数字があることに気づいた。
「ここだと思います。前月分の納入数まで、今月分として計算されています」
「ああ、これか! 数字ばかり見てたから全然気づかなかった。悪かったな、自分の仕事を止めさせて」
「大丈夫です。ここを直せば、あとはそのまま進められると思います」
「それなら続きは自分でやるよ。また分からなかったら頼む」
「はい。そのときは呼んでください」
書類を返すと、先輩文官は自分の机へ戻っていった。
以前なら、こうはいかなかった。
分からない書類があると束ごと渡され、シードが最後まで処理することもあった。それが最近では、分からないところだけを聞きに来る人が増えている。
一度一緒に確認した仕事なら、次は自分で終わらせている人もいた。
シードはそれが嬉しかった。
自分だけがたくさん仕事を終わらせるより、みんなが自分の仕事を終わらせられる方が、この部屋全体の仕事は早く進む。
シードは、この仕事が好きだった。
書類仕事が好きだと言うと、変わっていると言われることもある。けれどシードにとって、一枚の書類はただの紙ではなかった。
備品を買うための申請なら、その備品を必要としている人がいる。領地から届いた報告なら、それを読んで次の判断をする人がいる。
ここで自分が数字を一つ間違えれば、その先にいる誰かが困る。反対に、きちんと終わらせて次へ渡せば、その人は自分の仕事を進められる。
だから、間違えたくなかった。
周りからは仕事が速いと言われるようになったが、本人は速く終わらせようとしているつもりはない。
間違えないように確認しているだけだ。
それを毎日続けていたら、いつの間にか仕事が速いと言われるようになっていた。
「キャメロン、仕事を増やして悪いんだが、監査室からまたお前宛てに来てるぞ。しかも今度は三件だ」
室長の声に顔を上げると、手には見覚えのある封筒が握られていた。
シードの名前がしっかり書かれている。
最初に監査室から確認依頼が届いたときには、第三文官執務室としか書かれていなかったはずだ。
「前回の件でしょうか。追加で確認したいところがあるとは聞いていましたが」
「それが一件。残り二件は別件だ。お前、完全に監査室から仕事を任せられる人間だと思われてるぞ。私は嬉しいのか困ればいいのか、もう分からん」
室長はそう言いながら三枚の書類を机へ置いた。
シードは上から内容を確認していく。
どれも今日中という指定はない。
「これでしたら、通常業務が終わってから確認しておきます。今日中には返せると思いますので」
「いや、だから待て。そうやって今日中に返すから、向こうも次から次へとお前に送ってくるんだろうが。急ぎじゃないんだから明日にしなさい。まずは自分の仕事を終わらせろ」
「ですが、早く返した方が監査室の方も助かるのではありませんか?」
「お前が遅くまで残ったら私が困るんだよ。新人を毎日残業させているなんて知られたら、今度は私が監査されかねん」
室長が本気なのか冗談なのか分からない顔で言うと、周りで聞いていた文官たちから笑い声が上がった。
シードもようやく書類を机の端へ置く。
「分かりました。では、明日の朝から確認します」
「最初からそう言ってくれ。最近のお前は仕事を頼まれると嬉しそうだから、止めるこっちが大変なんだ」
「嬉しそうにしていますか?」
「してる。だから監査室にも目をつけられるんだよ」
自分では分からなかった。ただ、頼られることが嫌ではないのは確かだった。
半年前なら、監査室の人がシード・キャメロンという名前を知っているはずがなかったのに。
それが今では、こうして自分宛てに仕事が届く。
ちゃんと仕事をしてきたことを認めてもらえたようで、やはり嬉しかった。
♢
昼休みになると、シードも先輩たちと一緒に食堂へ向かった。
配属されたばかりの頃は、昼になっても机に残っていることが多かった。仕事を覚えるのに必死で、午前中に終わらなかった書類があれば、そのまま続きをしていたからだ。
今では室長に止められる前に席を立つ。
先輩たちと食堂へ行き、昼食を終えれば一緒に戻ってくる。そんな毎日も、いつの間にか当たり前になっていた。
平民の家に生まれたシードが王宮で働くことになったのは、読み書きと計算が得意だったからだ。
幼い頃から、一度教わったことを覚えるのは得意だった。数字を扱うことも苦にならず、それに気づいた大人から、王宮文官の試験を受けてみないかと勧められた。
まさか受かるとは思っていなかった。
王宮で働ける。
平民の自分にとって、それがどれほど恵まれたことなのかは十五歳のシードにも分かっていた。
だから、ここで失敗したくなかった。
最初は仕事を覚えることで精一杯だったし、周りも忙しかった。仕事以外の話をすることもなく、一日が終わるまでほとんど誰とも話さない日もあった。
それを寂しいと思ったことはない。仕事をするために王宮へ来たのだから、それでいいと思っていた。
けれど半年以上も同じ部屋で働いていれば、いつまでも最初の頃と同じではなかった。
今では昼になれば一緒に食堂へ向かい、仕事で困ればお互いに声をかける。シードが知らないことは先輩たちが教えてくれるし、仕事を抱えすぎれば室長が止めてくれる。
第三文官執務室は、いつの間にかシードにとって居心地のいい場所になっていた。
そして、その半年の間にもう一つ。
シードの日常へ大きく入り込んできた人がいる。廊下の向こうから、軽い足音が聞こえ、シードは顔を上げた。
けれど角から現れたのは、王宮で働く知らない侍女だった。
そのまま横を通り過ぎていく。
今日来るとは聞いていない。昨日も来ていない。
リリアーナにも勉強があるし、侯爵家の用事もある。毎日王宮へ来られるわけではないことくらい分かっている。
それなのに、似た足音を聞くと確認してしまう。
リリアーナ・ヴァン・アドラーが初めて第三文官執務室へやって来た日から、シードの日常には今までなかったものが増えていた。
♢
午後になり、シードは自分の机で仕事を続けていた。
書見台に置いた書類へ目を通しながら、ふと初めてリリアーナと会った日のことを思い出す。
侯爵令嬢が第三文官執務室へやって来た。
それだけでも驚いた。
この部屋へ上級貴族の令嬢が自分から来ることなど考えられない。しかもリリアーナ様は部屋を見回したあと、なぜか真っすぐ僕のところへやってきた。
最初は、自分が何か失礼なことでもしたのかと思った。
ところが、まったく違った。
リリアーナ様は仕事をしているところを眺めては喜び、次に来たときには差し入れまで持って来てくれた。
椅子が来た。万年筆が来て、ランプが来て、書見台まで増えた。
今では仕事中に毎日使っているものの中に、リリアーナ様から贈られたものがいくつもある。
最初の頃は戸惑っていた。
侯爵令嬢から贈り物を受け取っていいのかも分からなかったし、何より、どうして自分にそこまでしてくれるのかが分からなかった。
半年経った今なら、リリアーナがどういう人なのか少しは分かっているつもりだ。
新しい仕事を任されれば、それも喜ぶ。
監査室から確認依頼が来たと知ったときなど、仕事を頼まれた本人より嬉しそうだった。
『やっぱりシード様はすごいですわ!』
あれだけ真っすぐ言われると、今でも返事に困る。
自分は仕事をしているだけなのに、リリアーナ様はいつも何かすごいことをしたように褒めてくる。
けれど、それが嫌ではなかった。
王宮へ入った頃のシードは、自分がちゃんと仕事をできているなら、それで十分だと思っていた。
誰かに見てもらいたいなんて考えたこともない。
それでも、自分が頑張ったことを見ている人がいる。
仕事を終わらせれば喜んでくれて、新しい仕事を任されれば自分以上に嬉しそうにする。
そんな人がいることが、嬉しかった。
シードは手元の万年筆を見る。
これを使っているところをリリアーナ様に見られたことを思い出す。
使うためにもらったのだから、使うのは当然だ。
それなのに、あれだけ嬉しそうな顔をされると、こちらまで嬉しくなる。
だから、もらったものは大切に使っている。
それだけで彼女が喜んでくれるのなら、悪くないと思う。
「キャメロン、仕事中に悪い。この書類なんだが、手が空いたときに確認してもらってもいいか?」
先輩文官に呼ばれ、シードは顔を上げた。
「分かりました。今の分が終わりましたら伺います」
「急がなくていいからな。今日中じゃなくても大丈夫だ」
「はい」
先輩文官が戻っていく。
シードは万年筆を握り直し、目の前の仕事へ戻った。
♢
文官たちが帰り支度を始め、シードも今日の仕事を片づけていく。
『ごきげんよう、シード様!』
あの声が聞こえると、仕事中でも顔を上げる。
そして自分を見つけたリリアーナが笑いながら近づいてくるのを、いつの間にか当たり前のように待つようになっていた。
「……明日は来るかな」
口に出してから、シードは手を止めた。
今のは誰に聞かれたわけでもない。
それでも何となく恥ずかしくなって、シードは万年筆をいつもの場所へ戻した。
明日も仕事がある。
監査室から届いた三枚も確認しなければならない。
その途中であの声が聞こえたら、きっとまた顔を上げるのだろう。
そんなことを考えながら、シードは第三文官執務室をあとにした。
この作品が、誰かにとって「明日も続きを読もう」と思えるような、日々の楽しみのひとつになれたら嬉しいです!ブクマや☆で応援よろしくお願いします(⋆ᴗ͈ˬᴗ͈)”
次回《破滅したもう一人の令嬢》ですわ!




