第28話 六代目アドラー侯爵
授業が終わると、リリアーナは机に広げられたアドラー家の系譜をもう一度眺めた。
初代から始まった名前は六代目まで続き、一番下には父、アルベルト・ヴァン・アドラーの名がある。
「お父様が六代目……」
伯爵位を授かった初代、領地を豊かにした二代目、飢饉から人々を救って侯爵へ昇爵した三代目。そのあとを四代目、五代目が受け継ぎ、今は父がアドラー家の当主を務めている。
考えてみれば、リリアーナは父が侯爵として働いているところをほとんど見たことがなかった。
屋敷では一緒に食事をするし、時間が合えば話もする。けれど、領地を治める侯爵として父が普段何をしているのかと聞かれれば、詳しくは答えられない。
リリアーナは教本を閉じると、椅子から立ち上がった。
「マリー。お父様は今、どちらにいらっしゃるかしら?」
「本日は領地からいらした方々とお話をされているはずです。もうすぐ終わる頃かと思いますが」
「では、少しお顔を見に行きたいですわ」
「かしこまりました」
マリーと一緒に向かったのは、屋敷の東側にある応接室だった。
家族が普段使う部屋とは違い、領地から来た役人や商人、貴族などを迎えるための場所だ。
近くまで来たところで、マリーが足を止めた。
「お嬢様。まだお話し中のようです」
「ええ。ここで待ちましょう」
仕事の邪魔をするつもりはない。
リリアーナは少し離れたところで待つことにしたが、静かな廊下には応接室で交わされている声が思った以上によく届いた。
「今年は北部の三村で収穫量が落ちています。特にローレン村では、例年のおよそ七割ほどに留まる見込みです」
知らない男性の声に続いて、父が尋ねる。
「原因は?」
「春先の長雨が主な原因かと。種を蒔く時期が遅れ、その後の生育にも影響が出ました」
「他の二村も同じか?」
「はい。ただ、ローレン村ほど深刻ではありません」
紙をめくる音が聞こえ、それからしばらく会話が途切れた。
普段、食事の席で話しているときとは違って、アルベルトは必要なことだけを順番に確認している。声を荒らげているわけでもないのに、報告する男性も一つ一つの質問へ慎重に答えていた。
「この数字なら、例年通り徴収するのは難しいな」
「ですが、今年の税収はすでに予算へ組み込まれております。ここで減らせば、侯爵家側の収支にも影響が出ます」
「それは分かっている。予定通り徴収した場合、冬を越すのが難しくなる家はどれだけある?」
少し間が空いた。
「……正確な数は、まだ。ただ、ローレン村では少なくないかと」
「ならば、まず正確な数を調べてくれ。こちらが何をするにしても、それが分からなければ判断できない」
「承知いたしました」
「今年の徴収額を減らすことも考える。不足する分は侯爵家から補填すればいい。ただ、それで終わりにはするな。来年も同じ天候になれば、また同じことが起きる」
アルベルトは長雨の影響を受けた土地を調べ、水路や排水設備に改善できるところがないか確認するよう指示を出していく。
リリアーナは廊下でその話を聞きながら、午前中に教わったアドラー家の歴史を思い出していた。
二代目は領地を豊かにした。
三代目は飢饉が起きたときに食糧庫を開き、周辺の領地まで助けた。
四代目は北部と王都を結ぶ物流網を発展させた。
そして今、父は今年の収穫が減った村について、何をすれば人々が冬を越せるのかを考えている。
授業では六代目について詳しく習わなかった。
当然だ。
父は今も当主として仕事をしているのだから、初代たちのように歴史として語られるのは、ずっと先のことになる。
(お父様も、今こうしてアドラー家の続きを作っていらっしゃるのね)
やがて話し合いが終わり、応接室の扉が開いた。
数人の男たちが出てくる。
リリアーナは邪魔にならないように下がり、彼らが通る場所を空けた。
男たちはリリアーナに気づくと足を止め、揃って頭を下げる。
「リリアーナ様」
「ごきげんよう」
挨拶を返して彼らを見送ると、応接室からアルベルトが出てきた。
「リリアーナ。来ていたのか」
「はい。お仕事中に申し訳ございません、お父様」
「構わない。ちょうど終わったところだ。私に何か用があったのか?」
「用というほどではありませんの。今日、マダム・ヴァレンティノからアドラー家について教えていただいたので、お父様とお話ししたくなりましたの」
「家史の授業だったか。それなら初代から一通り習っただろう」
「はい。初代様が三つの街を守ったことも、三代目様の時代に侯爵家になったことも教えていただきましたわ」
二人は話しながら廊下を歩き始めた。
リリアーナは父の隣を歩きながら、授業中から気になっていたことを尋ねる。
「お父様。五代目様はどんな方だったのです?」
アルベルトは少し考えてから答えた。
「厳しい人だったよ。特に自分と家族にはな。私がリリアーナくらいの年には、食事の席でも領地の収支や作物の出来について聞かれていた」
「十歳で、ですの?」
「次期当主なのだから当然だ、と言われてな。当時の私は剣の稽古の方が好きだったから、勉強を抜け出してはよく叱られたものだ」
リリアーナは父を見上げた。
今のアルベルトからは、家庭教師の授業を抜け出す姿などまったく想像できない。
「お父様にも、そんな頃があったのですね、少し意外ですわ」
「昔の話だからな」
アルベルトは苦笑していた。
リリアーナは今日教わった五代目について考える。
王宮で長く国政に携わり、他国との交易や領地間の税制を整えた人物。
授業で聞いたときには立派な侯爵という印象しかなかったが、父にとっては、勉強をさぼれば叱りに来る父親でもあったらしい。
「マダム・ヴァレンティノにも教えて差し上げたいですわ」
「やめておきなさい。余計なところまで教材にされそうだ」
「ふふっ、そうですわね」
後ろを歩くマリーも、二人の会話を聞きながら静かに微笑んでいた。
しばらく歩いたところで、リリアーナはもう一つ気になっていたことを口にした。
「お父様は、六代目でいることを大変だと思うことはありませんの?」
アルベルトはすぐには答えず、娘へ目を向けた。
「どうしてそう思った?」
「今日のお話を聞いて、初代様から五代目様まで、皆様がアドラー家のためにいろいろなことをしてきたと知りましたもの。それを受け継ぐのは、とても大変そうだと思ったのです」
「大変だよ。領地で何かあれば、最後に責任を取るのは当主だ。判断を間違えれば、困るのは私だけでは済まない」
先ほど応接室で聞いた話を、リリアーナは思い出した。
収穫が減った村のこと。
税をどうするのか。冬をどうやって越してもらうのか。そして、来年また同じことが起きないように何をするのか。
どれも最後には父が決めなければならない。
「怖くなることもありますの?」
「もちろんある。自分の判断が常に正しいと考えるようになったら、その方が危険だろうな」
アルベルトはそこで一度言葉を切った。
「ただ、私が初代や三代目と同じことをする必要はない。彼らには彼らが生きた時代でやるべきことがあった。私には、今のアドラー領でやるべきことがある。それを終えて次へ渡せれば、六代目としては十分だ」
リリアーナは父の話を聞きながら頷いた。
初代が三つの街を守ったからといって、父まで同じ功績を残す必要はない。
その時代に必要なことをして、次へ渡す。
授業で習ったときには初代から六代目までが一本の長い歴史に見えていたけれど、その中にいる一人一人は、こうして自分の番を生きているのだ。
「お父様」
「なんだ?」
「格好いいですわね」
アルベルトが黙った。
「お父様?」
そこへ、廊下の向こうから女性の声がした。
「何のお話をしているの?」
振り向くと、母が侍女を連れてこちらへ歩いてくるところだった。
「お母様!」
「ずいぶん楽しそうね」
母が隣まで来ると、リリアーナはさっそく今日の授業について話した。
初代から五代目までのこと。
アドラー家が最初は伯爵家だったこと。
三代目の時代に侯爵へ昇爵したこと。
そして先ほど、父が領地の人たちと話しているところを少しだけ聞いたこと。
「それで、お父様は格好いいですわね、とお話ししていたところですの」
「まあ」
母は娘ではなく、アルベルトを見た。
その顔を見た途端、口元に笑みが浮かぶ。
「あなた、嬉しいのね」
「……何の話だ」
「リリアーナに格好いいと言ってもらえたのでしょう?」
「娘に褒められて嬉しくない父親はいないだろう」
「でしたら、そう仰ればよろしいのに」
アルベルトは答えず、わずかに顔を背けた。
リリアーナは父と母を交互に見る。
「お父様、嬉しかったのですか?」
「……嬉しかったよ」
今度はちゃんと答えてくれた。
それだけでリリアーナも嬉しくなって、自然と笑みがこぼれる。
「では、もう一度言いますわ。今日のお父様、とても格好よかったですわ!」
「もう十分だ」
困ったように言いながらも、父の口元は少し緩んでいる。
リリアーナが嬉しそうに言うと、エレノアもアルベルトへ目を向けた。
「ええ。格好いい人なのよ」
「お母様もそう思われますの?」
「もちろん。あなたが生まれるより、ずっと前から知っているもの」
「では、お母様は六代目になったばかりのお父様も?」
「ええ。今よりずっと無茶をしていた頃のお父様も知っているわ」
エレノアは懐かしそうに笑った。
「領地で何かあれば自分で見に行って、帰ってきたら夜まで書類を読んで。食事を忘れて、私が書斎まで迎えに行ったことも何度もあったわ」
「お父様、そんなに頑張っていらっしゃったのですね」
「侯爵になったばかりだったからな。私も必死だった」
「本当に必死でしたわね。わたくしが何を言っても『あと少しだけ』と仰って」
エレノアがアルベルトの隣へ寄る。
「でも、そんなところも好きでしたのよ」
「エレノア」
「今さら照れることでもないでしょう?」
アルベルトは娘の前だからか、少し困った顔をした。
リリアーナはそんな両親を交互に見て、ぱっと笑った。
「わたくし、お母様がお父様を好きなの、なんだか嬉しいですわ」
「まあ。どうして?」
「だって、わたくしもお父様が大好きですもの。同じですわ!」
その言葉に、エレノアの表情がふっと柔らかくなった。
「そうね。同じね」
「はい!」
リリアーナが嬉しそうに頷く。
エレノアはそんな娘を見ているうちに堪えられなくなり、そっと頬へ手を添えた。
「本当に、可愛い子」
「お、お母様?」
「だって可愛いんですもの。仕方ないでしょう?」
そのまま頬を撫でられ、リリアーナは少し照れながらも逃げなかった。
「お母様も大好きですわ」
「まあ」
今度はエレノアが嬉しそうに笑った。
リリアーナは母の手に自分の手を重ねながら、父にも笑いかけた。
さっきまで応接室で話していた侯爵としての父も格好よかった。
でも、母にからかわれて困っている父を見ると、こちらの方がずっと見慣れていて安心する。
「お父様、わたくし、お父様の娘でよかったですわ」
アルベルトの足がまた止まった。
リリアーナは不思議そうに父を見上げる。
「……お父様?」
アルベルトは何か言おうとして、やめた。代わりに大きな手を伸ばし、リリアーナの頭をゆっくり撫でる。
「私も、お前が娘でよかったと思っているよ」
今度はリリアーナの方が言葉に詰まった。
さっきまで父を褒めていたときは平気だったのに、自分が言われる側になると急に恥ずかしい。
(これは……思っていたより照れますわね)
隣を見ると、母が嬉しそうに笑っている。
これ以上顔を見られたら、きっと赤くなった頬まで気づかれてしまう。
そのまま四人で歩き出そうとしたところで、アルベルトがリリアーナを呼び止めた。
「リリアーナ」
「はい?」
振り返る。
先ほどまで少し困ったように笑っていた父の顔から、笑みが消えていた。
怖い顔ではない。
「ちょうどいい、聞きたいことがある」
「わたくしに?」
「ああ」
アルベルトはそう言ってから、隣にいる妻へ目を向けた。
「エレノアも一緒に来てくれ」
「ええ、分かりましたわ」
続いて、少し後ろに控えていたマリーを見る。
「マリー。君にも聞きたいことがある」
「私も、でございますか?」
「ああ」
自分だけではなく、母とマリーまで呼ばれたことに、リリアーナは首を傾げた。
「お父様、いったい何のお話ですの?」
「大切な話しだ、私の書斎で話そう」
その言葉を最後に、四人は揃って書斎へ向かった。
リリアーナはまだ知らない。
父がこれから話そうとしていることが、自分にも関わる大切な話だということを。
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