第29話 七代目、わたくしの将来
アルベルトの書斎へ入ると、リリアーナはエレノアと並んで長椅子へ腰を下ろした。
マリーはいつものように二人の後ろへ控えている。
先ほど廊下で「大切な話がある」と言われてから、リリアーナはずっと気になっていた。
父に怒られるようなことをした覚えは……ない、と言い切りたい。
けれど王宮へは何度も行っているし、第三文官執務室にもずいぶん顔を出した。シード様には椅子を贈った。万年筆もランプも、お茶もお菓子もある。
思い返してみると、なかなかの数だった。
(……もしかして、これですの?)
膝の上で重ねた指に力が入る。
アルベルトはいつもの執務机には向かわず、二人の向かいにある一人掛けの椅子へ腰を下ろした。
「そんなに緊張しなくていい。叱るために呼んだわけではないよ」
「そうなのですか?」思わず聞き返してしまった。
隣でエレノアが笑っている。どうやら母には、何を考えていたのか分かってしまったらしい。
アルベルトはそんな二人を見てから、先ほど廊下で話していたことへ戻った。
「今日、マダム・ヴァレンティノからアドラー家の歴史を習ったんだったな」
「はい。初代様から、お父様まで教えていただきましたわ」
「なら、ちょうどいい。その続きを話しておこうと思ってな」
「続き、ですの?」
「七代目のことだ」
リリアーナは一度瞬きをした。
「七代目は、もう決まっていらっしゃいますの?」
「アドラー家では、男でなければ爵位を継げないという決まりはない。必要な教育を受け、当主としてふさわしいと認められれば、女性でも家を継ぐことができる。もちろん王家から正式な承認を得る必要はあるが、リリアーナにも七代目を目指す資格があるんだ」
「では……わたくしが、お父様のあとを継ぐことも?」
「ああ。お前が望み、その道を選ぶのならな」
リリアーナは父の顔を見たまま、しばらく言葉が出てこなかった。
今日の授業で見たアドラー家の系譜が頭に浮かぶ。
初代から始まり、二代目、三代目と名前が続き、一番下に書かれていたのが父、アルベルト・ヴァン・アドラー。
そのさらに下へ、自分の名前が入る。そこまで考えると、急にとんでもない話をされている気がしてきた。
「……なんだか、変な感じですわ。今日まで、お父様の次があることなんて考えたこともありませんでしたもの」
「嫌か?」
「嫌ではありませんけれど……」
リリアーナは困ってしまった。
侯爵になりたいか。そう聞かれても、今の自分には答えようがない。それよりも先に気になることがある。
「お父様は、いつまで侯爵でいらっしゃるのです?」
「私か? そうだな。何事もなければ、お前が大人になってからも当分は私が六代目だろう」
「それならよかったですわ!」
思わず声が大きくなり、エレノアが笑った。
「リリアーナったら。そんなに心配したの?」
「だって、急に七代目のお話なんてされましたら、お父様がもうすぐ侯爵をお辞めになるのかと思ってしまいますわ」
「それもそうね。わたくしだって、あなたくらいの頃に突然そんな話をされたら、きっと同じ顔をしていたわ」
アルベルトも最初から、今日ここで答えを出させるつもりはなかったらしい。
「侯爵になるのも、お前が選べる道の一つだ。だが、それだけではない。だから聞いておきたかったんだよ。リリアーナは将来、何をしたい?」
「将来……」
今度は別の意味で困ってしまった。
やりたいことなら、いくらでもある。
明日も第三文官執務室へ行きたい。
シードがもっと働きやすくなるものを探したいし、マリーとはこれからも一緒にいたい。ルイともまたお茶を飲みたいし、王宮でまだ見たことのない場所にも行ってみたい。
けれど、それは父が聞いている「将来」とは違うだろう。
侯爵になり、何か仕事をする。
いつか結婚して、今とは違う家で暮らしているかもしれない。
そこまで先の自分を想像しようとしても、何をしているのかさっぱり見えてこなかった。
「……分かりませんわ」
考えた末、リリアーナは正直に答えた。
「わたくし、自分が大人になったときのことなんて、ちゃんと考えたことがありませんでした」
「それでいい」
あっさり返され、リリアーナは父を見る。
「いいのですか?」
「十歳で人生を全部決めてしまう必要はないよ。むしろ、今決めたことが十年後まで何一つ変わらない方が珍しいだろう。今日お前に話したのは、今すぐ答えを出してほしいからじゃない。自分にはいくつもの道があって、それを選べるのだと知っておいてほしかったんだ」
アルベルトの言葉に、リリアーナは頷いた。
「十二歳になれば王立学園へ入る。今まで会ったことのない人間とも出会うし、学ぶことも増える。侯爵家の中と王宮だけを見ている今より、ずっと広い世界を知ることになる。その中でやりたいことが見つかるかもしれない」
「そうね」
エレノアも娘へ身体を向ける。
「好きなことが増えるかもしれないし、大切にしたい人も増えるでしょう。お友達だってたくさんできるわ。それに、もっと大きくなれば、結婚について考える日だって来るでしょうし」
「結婚ですの!?」
リリアーナは思わず母を見た。
エレノアも驚いた顔をしたあと、娘の反応がおかしかったのか笑い始めた。
「今すぐではないわよ。どうしてそんなに驚くの」
「だって、お父様が七代目のお話をされた直後に、お母様まで結婚のお話をなさるんですもの。今日は急にわたくしの人生が何年も先へ進んでおりますわ!」
十歳の今は、結婚など遠すぎて想像もつかない。
侯爵になるのか。
ほかの何かをするのか。
誰かと結婚するのか。
今日初めて聞かされたことばかりで、答えられるものなど一つもなかった。それでも、父が伝えたかったことは分かる。
自分には選べる道がある。
その中から何を選ぶのかは、これから考えていけばいい。そう思うと、七代目という言葉も、最初に聞いたときほど恐ろしくは感じなくなっていた。
「ところで」
アルベルトが話題を変えた。
「はい?」
「第三文官執務室というのは、そんなに面白いところなのか?」
リリアーナの身体がぴたりと止まった。
七代目、学園、結婚
ずっと先の未来について話していたはずなのに、突然とんでもなく身近なところまで戻ってきた。
「……お父様、ご存じでしたの?」
「自分の娘が王宮のどこへ出入りしているかくらいは知っているよ。しかも一度や二度ではないだろう?」
言われてみれば当然だった。
侯爵令嬢が何度も王宮へ出かけているのだ。父親だけ何も知らない方がおかしい。
リリアーナはゆっくり後ろを振り返った。
「マリー」
「はい、お嬢様」
いつもと変わらない顔で返事をされる。
「……お父様にお話ししましたの?」
「旦那様から、王宮でのお嬢様のご様子についてお尋ねがありましたので、必要な範囲でご報告いたしました。お嬢様に隠していたわけではございません。
旦那様へ必要なことをご報告するのも、私の務めでございますので」
あまりにも正しいことを言われてしまい、反論できない。
エレノアが隣で笑っているのが悔しくて、リリアーナは頬を膨らませた。
「それで」
アルベルトが続ける。
「シード・キャメロンという少年も、そこにいるそうだな」
「はい!第三文官執務室では一番お若いのですが、本当に優秀な方なんですの。書類を片づけるのもとても速いですし、それなのに間違いもほとんどありませんのよ。それだけではなくて、最近ではほかの文官の方から確認を頼まれることも増えましたの。この前なんて監査室からもお仕事を任されて、それもきっちり終わらせてしまったんです!」
一つ話すと、もう一つ思い出す。
最初に会った頃は、机の上に書類が山ほど積まれていた。
それでも黙々と処理していたこと。
最近では周りから頼られることが増えたこと。
監査室から仕事を回されても、きっちり終わらせてしまったこと。
「それに、わたくしがお渡しした万年筆を使ってくださっていて……」
「待ちなさい」
「はい?」
アルベルトの眉が寄った。
「リリアーナから万年筆を渡したのか?」
「はい。毎日たくさん書かれますから、使いやすいものがいいと思いまして、職人さんに作っていただきました」
「作ってもらった?」
「はい」
「……ほかにも何か渡しているのか?」
リリアーナは口を閉じた。
父は何も言わず、続きを待っている。
「……椅子もお贈りしましたわ。仕事柄、長時間座っていらっしゃいますもの。普通の椅子では身体が疲れてしまいますでしょう?」
「ほかには?」
「ランプと、お茶と……最初に魔力回復クッキーも。それから書見台とかですわね」
指を折りながら数えていたリリアーナの声が、だんだん小さくなっていく。
思っていたより多い。しかも、まだ何か忘れている気がする。
「……だいたい、それくらいですわ」
後ろでマリーが静かに口を開いた。
「焼き立てのアップルパイもございます」
「マリー!」
「第三文官執務室へお持ちになりましたので」
「あれはシード様だけではありませんわ! 皆様でいただくためのものです!」
「では、贈り物からは除外いたします」
「そうしてくださいませ!」
アルベルトは黙って二人のやり取りを聞いている。
エレノアはとうとう堪えきれなくなったようで、口元を手で隠して笑っていた。
「お母様まで……」
「ごめんなさい。でも、あなたがそこまでしているなんて知らなかったのよ。椅子や万年筆まで作っていただなんて」
「全部必要なものですわ」
「全部?」
「シード様は朝からずっと机に向かっていらっしゃいますもの。椅子が合わなければ身体が疲れてしまいますし、暗いところで細かい文字を読み続けるのは目にもよくありません。それに一日に何枚も書類を書くのですから、万年筆だって手に合ったものを使った方がいいに決まっていますわ」
そこまで一気に言ってから、リリアーナはアルベルトへ向き直った。
「それに、わたくしが初めてお会いした頃は、本当に誰もシード様のことを見ていなかったんですの。毎日あれだけお仕事をしているのに、ずっと同じ場所で、机には書類が積まれていて……あんなに頑張っていらっしゃるのに、それが当たり前みたいになっていましたわ」
だから、自分くらいは見ていたかった。
疲れているなら、楽にしてあげたい。
頑張ったのなら、その分だけいいことがあってほしい。
リリアーナにとっては、本当にそれだけのことだった。
「わたくしは、シード様が頑張っていらっしゃるところを知っていますもの。だったら、わたくしにできることくらいして差し上げたいですわ」
話し終えると、書斎が静かになった。
アルベルトは娘を見ていた。
「……そうか」
やがて、それだけ答えた。
リリアーナには、父が納得してくれたのかまでは分からなかった。
ただ、叱られることはなかった。
それだけで胸の中にあった心配が消えていく。
ところがアルベルトは、この話をそこで終わらせなかった。
「マリー」
「はい、旦那様」
「その椅子について、もう少し詳しく聞かせてくれ」
「椅子、でございますか?」
「ああ。普通の椅子ではないんだろう?」
「はい。お嬢様のご希望をもとに、職人へ特注で作らせたものになります」
「特注……」
アルベルトの視線が、今度はリリアーナへ戻った。
「リリアーナ。その椅子をどう作らせたのか、最初から聞かせてくれないか」
「もちろんですわ!」
(シード様に関することならいくらでも話せますわ!)
そう思ったリリアーナは、父がどうして急に椅子へ興味を持ったのかなど考えもしなかった。




