第25話 夢の中の少女
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午後の王宮には、教師の声と紙をめくる音だけが静かに響いていた。
ルイス・フォン・グランヴェールは机に向かい、目の前に広げられた王国南部の地図へ視線を落としている。今日は朝から帝王学の講義が続いており、午前は王国史、昼食を挟んでからは領地経営と税制について学んでいた。
「では殿下。南部三領の税収が一割落ち込んだ場合、王都からの支援をどのように配分なさいますか」
教師から差し出された資料へ、ルイスは目を通した。
前年の水害によって農地の復旧が遅れている領地。主要街道の補修に予算を取られている領地。そして、大きな被害はないものの、二年続けて小麦の収穫量が落ちている領地。
数枚の資料を順番にめくり、ルイスは最後の一枚まで確認する前に口を開いた。
「同じ割合では配らない」
教師が顔を上げる。
「理由をお聞かせください」
「水害を受けた領地を優先する。ただ、金だけ送っても復旧が遅れている理由が人手不足なら意味がない。必要なら王都から技術者も送る。街道の補修は今年中に終わる予定だから、そのまま続けさせればいい」
ルイスは地図の上で、残った一領を指した。
「ここは先に調査する」
「調査、でございますか?」
「二年続けて収穫量が落ちているのに、資料には天候被害が書かれていない。原因が分からないまま金を出しても、来年また同じことになる」
教師はしばらく地図を見つめ、それからルイスの手元へ視線を移した。
まだ説明していなかった資料が残っている。
「……殿下。そちらの資料は、まだ半分ほどしかご説明しておりませんが」
「書いてあるから読めば分かる」
「左様でございますか……」
教師は何とも言えない顔で残りの資料をまとめた。
「では、次の問題へ参りましょう」
「まだあるの?」
思わず口から出た。
教師の手が止まる。
ルイスも止まる。
「……失礼しました」
「い、いえ。長時間の講義ですからな」
教師は笑って許してくれたものの、ルイスは小さく息を吐いて次の資料を受け取った。
難しいわけではない。
むしろ逆だった。
一度読めば分かることを、何度も違う形で確認される。その時間の方がルイスには長く感じられた。
やがて終了を告げる鐘が鳴る。
「本日はここまでといたしましょう」
「分かった」
「明日は本日の内容を踏まえて、北部領地との比較を」
教師は教材を抱え、頭を下げて部屋を出ていった。
扉が閉まる。
足音が遠ざかったところで、ルイスは椅子の背もたれへ身体を預けた。
「……疲れた」
誰もいないから言えた。
第一王子が帝王学の講義を受けるのは当然で、疲れたからといって明日の授業がなくなるわけでもない。
窓の外はまだ明るい。
このあとは剣術の稽古があり、夕食を挟んで明日の予習もある。
いつも通りの一日だった。
ルイスが次の予定を思い出していると、先ほど閉じたばかりの扉が再び開いた。
「ルイス」
聞き慣れた声に、背もたれへ預けていた身体を起こす。
入ってきたのは父だった。
「父上」
「講義は終わったようだな」
「はい」
国王は教師が使っていた椅子へ腰を下ろした。いつも後ろにいる護衛も侍従も、今日は部屋へ入ってこない。
それを見て、ルイスは父へ目を向けた。
「何かあるのですか?」
「話が早くて助かる」
父が笑った。
「お前の今後について、話しておきたいことがある」
「今後?」
「ああ。学園のことだ」
王都には、十二歳から十四歳までの二年間、貴族の子供たちが通う王立学園がある。
王族であるルイスも、十二歳になれば入学する。それ自体は以前から聞かされていた。
「予定通り、十二歳になればお前にも入学してもらう」
「はい」
「ただし、王子としてではない」
ルイスは父を見た。
「……どういうことですか?」
「身分を隠せ」
「僕が?」
「ああ。中堅貴族の子息として二年間を過ごしてもらう」
さすがに予想していなかった。
「なぜですか?」
父は少し笑った。
「その顔が見たかった」
「父上」
「冗談だ」
まったく冗談に聞こえない。
黙って父を見ていると、今度は向こうが楽しそうに笑った。
「そんな顔をするな。ちゃんと理由はある」
「最初からそちらを話してください」
「お前は相変わらずだな」
父は笑いながら椅子へ座り直した。
「お前は第一王子だ。いずれ、この国を背負う立場になる可能性が高い」
「分かっています」
「だからこそ、お前はこれまで王子として扱われすぎた」
ルイスは何も言わなかった。
教師は自分を褒める。貴族は頭を下げ、使用人は必要なものを先回りして用意してくれる。
同年代の子供と会う機会があっても、相手が最初に見るのはルイスではない。
第一王子だ。
「学園には様々な人間がいる。公爵家の跡取りもいれば、地方の男爵家の子もいる。商家から入学する者もいるだろう」
父は指を一本立てた。
「友人を作れ」
もう一本。
「喧嘩もしてこい」
三本目。
「失敗もしてこい」
「失敗することまで予定に入れるのですか?」
「お前は少しくらい失敗した方がいい」
「なぜです?」
「十歳の息子が何でも簡単にこなすと、父親として面白くない」
「それが本当の理由ではありませんよね?」
「半分くらいは」
「父上」
父が声を上げて笑った。
ルイスとしては真面目に聞いているのだが、どうも今日はよく笑われる。
「まあ、それは冗談としてだ。自分より優れた者がいれば、それを認めろ。気に入らない相手とも付き合う方法を覚えろ。助けてもらうことも覚えてこい」
「……帝王学では学べないことを学べと?」
「そういうことだ」
ルイスは考えた。
誰も自分を第一王子だと知らない場所。
頭を下げられることもなく、顔色を窺われることもない。
そこで自分がどう扱われるのか。
想像してみると、嫌だという気持ちは出てこなかった。
「分かりました」
「嫌ではないのか?」
「父上が必要だと判断したのでしょう?」
「それだけか?」
ルイスは窓の外へ視線を向けた。
二年後。
まだ随分と先の話だ。
それでも。
「……少し、面白そうです」
「そうか」
父は満足したように笑って立ち上がった。
そのまま扉へ向かい、取っ手へ手をかけたところで振り返る。
「ルイス」
「はい」
「王子でなくなったとき、自分に何が残るのか。それも考えてみるといい」
扉が閉まった。
ルイスはしばらく、その扉を眺めていた。
王子でなくなったとき、自分に何が残るのか。
「……僕は僕だろ」
当たり前のことを言っている気がする。
けれど、父がわざわざ言ったのだから、それだけではないのだろう。
考えても答えは出なかった。
「二年も先なんだから、そのうち分かるか」
ルイスは椅子から立ち上がった。
今はそれより、剣術の稽古へ遅れる方が問題だった。
♢
その夜、ルイスは夢を見た。
そこは王立学園の中庭だった。
一度も通ったことなどないはずなのに、夢の中ではなぜかそれが当たり前のこととして受け入れられている。
周囲には同じ制服を着た生徒たちがいて、それぞれ好きな相手と話していた。
誰もルイスへ頭を下げない。
誰も「殿下」と呼ばない。
それなのに、不思議と居心地は悪くなかった。
「ルイ」
聞き覚えのある声に振り返る。
そこにいたのはリリアーナだった。
「……リリアーナ嬢?」
今より少しだけ背が伸びている。いつものドレスではなく、周囲の生徒たちと同じ制服を着ていた。
「何をぼんやりしていらっしゃるの?」
「いや……」
「次、私たちですわよ」
「次?」
「もう。忘れましたの?」
リリアーナが呆れたように笑った。
その瞬間には、もう場所が変わっていた。
明るいホールに音楽が流れ、大勢の生徒たちが二人一組になって踊っている。
どうやらダンスの授業らしい。
「参りましょう」
リリアーナが当然のように手を差し出した。
「僕と?」
「他に誰がおりますの?」
「それもそうか」
ルイスも手を差し出す。
指先が触れた。
「……」
「ルイ?」
「何でもない」
「私、まだ何も聞いておりませんけれど」
「……そうだったね」
リリアーナが不思議そうに首を傾げる。
なぜ先に答えてしまったのか、自分でも分からなかった。
音楽に合わせて踊り始める。
一歩、二歩。
ダンスそのものは何度も習っている。教師と踊ったこともあるし、王宮の催しで貴族令嬢を相手にしたこともあった。
それなのに今日は、いつもより足元が気になる。
「ルイ」
「何?」
「やっぱり変ですわ」
「そう?」
「先ほどから私の顔を見たり、目を逸らしたり」
言われて、今度は意識してリリアーナを見る。
目が合った。
また逸らした。
「ほら」
「……うるさいな」
「まあ」
リリアーナが笑う。
怒ってはいない。
そのまま何度かステップを踏んだところで、昼間の父との会話が頭に浮かんだ。
「……リリアーナ嬢」
「はい?」
「もし僕が……」
続きが出てこない。
リリアーナが待っている。
「もし?」
「君が思っているような人間じゃなかったら、どうする?」
自分でも変な質問だと思った。
けれどリリアーナは笑わなかった。
少しだけ考えるようにルイスを見てから、きょとんとした顔になる。
「14歳にもなって何を仰っていますの?」
「え?」
「ルイはルイでしょう?」
今度はルイスが黙る番だった。
「何に悩んでいるのかは分かりませんけれど、困ったことがあったら私を頼ってくださいませ」
「君を?」
「もちろんですわ」
「どうして?」
リリアーナは当たり前のことを聞かれたような顔をした。
そして笑う。
「だって、私たち……」
どくん、と胸が鳴った。
「私たち?」
その続きを聞こうと、思わずリリアーナへ顔を近づける。
♢
目が開いた。
「…………」
見慣れた天井がある。
カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいた。
しばらく天井を見つめてから、ルイスはゆっくり身体を起こした。
「……夢か」
当たり前だ。
学園へ入るのは二年も先だし、リリアーナと同じ制服を着たこともなければ、学園で一緒に踊ったこともない。
それなのに、はっきり覚えている。ルイスは自分の右手を見た。夢なのだから、リリアーナの手の感触など残っているはずがない。
それでも指を一度握って、開く。
『ルイはルイでしょう?』
『困ったことがあったら私を頼ってくださいませ』
そして。
『だって、私たち……』
「…………」
そこで終わった。
「何なんだ、その続きは……」
自分の夢なのに分からない。
もう一度眠れば続きが見られるだろうか。
そんなことを考えてから、ルイスは首を振った。
「いや、何を考えてるんだ僕は」
そもそも問題はそこではない。昨日、父と話したのは学園のことだ。だから学園の夢を見た。
身分を隠す話をしたから、王子ではない自分が夢に出てきた。
そこまでは分かる。
「……なぜリリアーナ嬢なんだ?」
分からない。
しかも、なぜ二人でダンスを踊っている。
考えているうちに侍従が起こしに来て、結局答えが出ないまま朝の支度が始まった。
♢
朝食の席についても、まだ頭に残っていた。
焼きたてのパンをちぎり、口へ運ぶ。
『だって、私たち……』
「…………」
何だったのだろう。
友人だから?
知り合いだから?
それとも。
「殿下?」
侍従に声をかけられ、ルイスは顔を上げた。
「何?」
「いえ。先ほどからパンをお持ちになったまま、止まっておられましたので」
手を見る。
確かに、ちぎったパンを持ったままだった。
「……何でもない」
「左様でございますか。お茶のおかわりはいかがなさいますか?」
「いらない」
「かしこまりました」
侍従が離れていく。
ルイスはパンを口へ入れた。
考えても仕方がないことだ、たかが夢だ。そのうち忘れる。そう思ったところで、ふと今日の予定を考えた。
午前中は帝王学。そのあと剣術。
午後は特に急ぎの予定はなかったはずだ。
「……今日、地下へ行こうかな」
口に出してから、ルイスは止まった。
地下にある第三文官執務室。
以前も行ったことがあるのだから、おかしくはない。
「…………」
ただし、今日リリアーナが第三文官執務室へ来る予定なのか、ルイスは知らない。
そこまで考えて、なぜ自分がそんなことを気にしたのか分からなくなった。
「……やっぱり変な夢だったな」
残っていたパンを口へ運ぶ。
その直後、頭の中でまたリリアーナが笑った。
『だって、私たち……』
ルイスはパンを噛みながら眉を寄せた。
やっぱり、続きだけは気になった。
次の更新は12時頃に投稿予定ですので、そちらもよろしくお願いします(⋆ᴗ͈ˬᴗ͈)”




