第24話 予想を超える平民文官
監査室から回されてきた施設修繕費の請求書は、シードの木製書見台に置かれている。
普段なら次々と紙を送りながら万年筆を走らせているシードが、まだ一文字も書いていない。数枚ある請求書と添付資料を順番にめくり、上から下まで目を通している。
その様子を、室長は少し離れた自分の机から何度も窺っていた。
一度見ては手元の書類へ戻り、しばらくするとまた顔を上げる。
三度目に目が合いそうになり、室長は慌てて視線を落とした。
(……遅くないか?)
監査室から直接、しかもキャメロンを名指しして届いた書類だ。
昨日までなら考えられなかった。
四パーセントの件で何人かの役人が消えたばかりだというのに、今度はその監査室から「気になるところがないか見てほしい」ときた。
何もなければいい。
本当に、何もなければそれでいい。
室長がそう願っている間にも、シードは最後の一枚をめくった。
やがて万年筆を手に取り、小さな紙へ数行を書きつける。
その瞬間、室長が立ち上がった。
「キャ、キャメロン!」
「はい?」
「今、何を書いた?」
シードが顔を上げる。
「確認結果ですが」
「結果……」
室長の頬がわずかに引きつった。
「何かあったのか?」
「いえ」
シードは書き終えたメモを請求書へ添えた。
「問題ありません」
「……問題ない?」
「はい。記載内容、単価、計算のいずれにも不備はありませんでした」
「そうか……」
室長の肩が目に見えて下がる。
「そうか。ないのか。うん。それならいい」
誰に言い聞かせているのか分からないまま二度頷き、室長は書類を受け取った。
その様子を見ていたリリアーナが、口元を押さえる。
「室長様、とても安心なさっていますわね。監査室からのお仕事というのは、それほど大変なものなのですか?」
「今回のものは目を通してほしいという依頼でしたので、普段の仕事とそれほど変わりません」
シードにとっては本当にそうなのだろう。すでに次の伝票を手に取っている。
リリアーナは、その横顔と、たった今室長が持っていった書類を交互に見た。
「でも、何か書いていらっしゃいましたわよね?」
シードの手が止まる。
「はい」
「不備はなかったのでしょう?」
「ありませんでした。ただ、前年より資材単価が上がっていましたので」
「それは……問題ではありませんの?」
「いえ。先週処理した鉱山管理課の報告では、北部の鉱山で採掘量が制限されています。財務局の資料でも、その後に石材価格が上昇していました」
そこまで言って、シードは次の伝票を開いた。
「今回の上昇幅とも一致しています。ですので、問題ありません」
「……」
リリアーナは瞬きをした。
監査室から届いたのは、今しがたシードが読んでいた書類だけだ。
それなのに、先週の書類まで頭の中に残っているらしい。しかも本人は、それを特別なこととして話していない。
「シード様」
「はい」
「先週の書類の数字を、覚えていらっしゃったのですか?」
「そうですね、一度目を通したので覚えていました」
リリアーナはしばらく黙っていた。
やがてハーブティーへ手を伸ばしたものの、口をつける直前でもう一度シードを見る。
(やっぱり、すごい方ですわ)
口に出したら、きっとまた「普通のことです」と返される。
今日は胸の中だけにしまっておくことにした。それでも頬が緩むのまでは、どうにも止められなかった。
♢
王宮会計監査室へ書類が戻ってきたのは、それからしばらく経ってからだった。
「戻ってきたぞ」
中堅の監査官が運搬籠から請求書を取り出す。
向かいの席にいた同僚が、待っていたとばかりに顔を上げた。
「どうだった?」
「今見る」
「また四パーセントみたいなのが出てきたら笑えないぞ」
「縁起でもないことを言うな」
監査官は請求書を机へ置き、添えられていた小さな紙を開いた。
最初の一行を読む。
「不備なし」
「ほらな」
同僚が鼻で笑った。
「だから言っただろ。考えすぎなんだよ。数字も合ってたんだから、そのまま通せばよかったんだ」
「待て」
「なんだ?」
監査官はメモの続きを読んでいた。
『申請金額および内訳に不備なし。前年同期の同規模工事と比較し、資材単価は八%上昇』
ここまでは分かる。
監査官自身も、去年より高いことには気づいていた。
問題は、その次だった。
『鉱山管理課「北部採掘制限に関する報告書」、財務局「資材市況推移表」に記載された石材価格の変動範囲内。金額は妥当と判断』
「……なんでこいつ、これを知ってる?」
同僚が椅子を寄せてくる。
「何が?」
「北部の採掘制限だ」
「それがどうした」
「この請求書には書いてない」
監査官が指で明細を叩いた。修繕箇所、必要な資材、その数量と単価。
何度見ても、それだけだ。
同僚もメモと請求書を見比べ、眉間に皺を寄せた。
「……別の資料も一緒に送ったんじゃないのか?」
「送ってない。これだけだ」
「じゃあ、なんで」
二人とも黙った。
やがて監査官が椅子へ深く座り直す。
「……そういえば先週、鉱山管理課の報告が第3文官執務室まで回っていたな」
「ああ」
「財務局の市況表もだ」
同僚がもう一度メモを見る。
「覚えてたってことか?」
「そうなるな」
監査官は去年の修繕記録が収められている棚へ目を向けた。
自分で確認するなら、まずあそこから前年の記録を探す。そのあと財務局の資料を取り寄せて、価格の推移を調べる。
別に難しい仕事ではない。ただ、面倒なのだ。
そして今、その面倒な作業の答えが、数行のメモになって目の前に置かれている。
監査官はしばらくそれを眺めたあと、決裁印を取った。
「通す」
「いいのか?」
「いいも何も、問題がない理由まで揃ってる」
決裁印が紙へ落ちる。乾いた音が一つ、机の上に響いた。同僚は自分の席へ戻りながら、肩越しにメモを見た。
「便利な奴がいたもんだな」
「……便利、か」
監査官は返事をしながら、その小さな紙を請求書から目を外さなかった。
♢
「シード様、今日はこれで失礼いたしますわ」
帰り支度を整えたリリアーナが声をかけると、シードが万年筆を止めて顔を上げた。
「はい。本日も美味しいお茶とお菓子、ありがとうございました」
「こちらこそ。今日もお仕事を拝見できましたもの」
リリアーナは満足そうに笑い、数歩進んだところで振り返った。
「やっぱりシード様は凄いですわ!」
「えっ?」
「シード様を見たときから、ずっと思っておりましたの。ですので、自信を持ってください。きっといつか、シード様の凄さが皆様にわかってもらえると、わたくし、信じておりますわ」
リリアーナは優雅に一礼すると、部屋をあとにした。
廊下へ出ると、待っていたマリーが静かに隣へ並ぶ。
「お嬢様。ご機嫌ですね」
「分かります?」
「はい。とても」
リリアーナは恥ずかしくなって、前を向いた。
「だって、シード様が今日も素晴らしかったですもの」
「左様でございますか」
「ええ。それはもう」
マリーが小さく笑う。
二人の足音が廊下の向こうへ遠ざかっていった。
「……リリアーナ様」
シードは手元へ視線を落とした。彼女から贈られた万年筆を見つめ、先ほどの言葉を思い返す。
『ですので、自信を持ってください』
シードはしばらく黙っていたが、やがて万年筆を握り直した。
「……やってみるか」
その小さな呟きを、リリアーナが知ることはなかった。
♢
一方、監査室。
帰り支度を始めた監査官は、机の端に置いていたシードのメモをもう一度手に取った。
数秒眺めてから、今日処理した請求書と一緒にとじる。
「……次も」
口に出しかけて、やめた。
まだ一度だ。四パーセントの件を合わせても、たった二度。それでも、書類棚へ向かいかけた足を止め、監査官はもう一度メモを見た。
「……まあ、確認に手間がかかりそうなのが出たら、また見せてみるか」
誰に聞かせるでもなく呟いて、今度こそ机の引き出しを閉めるのであった。
この作品が、誰かにとって「今日も続きを読もう」と思えるような、日々の楽しみのひとつになれたら嬉しいです。ブクマや☆で応援よろしくお願いします(⋆ᴗ͈ˬᴗ͈)”
次回《夢の中の少女》ですわ!




