閑話 夏の日 リリアーナと侍女マリー
朝から王都には容赦のない陽射しが降り注いでいた。
屋敷の窓は大きく開け放たれているのに、入ってくる風まで温かい。庭の木々もどこか元気がなく、いつもなら忙しく飛び回っている小鳥たちまで、今日は日陰から出てこなかった。
リリアーナは冷やした果実茶を飲みながら、窓の外を眺めていた。
「……マリー」
「はい」
「何か、涼しくなることはない?」
朝の勉強はきちんと終わらせたし、昼食も食べた。午後に急ぎの予定もない。
つまり、侯爵令嬢としての務めを放り出しているわけではない。
そんな言い訳を頭の中で用意していたリリアーナだったが、マリーは特に咎めることなく考え込んだ。
「でしたら、水浴びでもなさいますか?」
「水浴び?」
初めて聞く言葉ではない。けれど、侯爵家の令嬢として生活するようになってから、自分でする機会はなかった。
「中庭の奥に水場があります。夏の間だけ水を張っているんです」
「入ってもいいの?」
「もちろんです。お嬢様のお屋敷ですよ」
リリアーナは残っていた果実茶を飲み干し、勢いよく立ち上がる。
「マリー、今すぐ行きましょう!」
「今からですか?」
「思い立ったら即行動ですわ!」
急かすリリアーナを見て、マリーは「では着替えをご用意しますね」と笑った。
♢
中庭の奥にある水場は、想像していたよりずっと綺麗だった。
白い石で囲まれた浅い水場には澄んだ水が張られ、木々の間から落ちる陽射しが水面をきらきらと輝かせている。
部屋で薄手の服に着替えてきたリリアーナは、さっそく靴を脱ぎ、石の縁に腰を下ろして片足を水へ入れた。
「わっ……」
思った以上に冷たかった。
思わず足を引っ込めそうになったものの、なんとか堪える。もう片方の足も入れてしばらく待っていると、冷たさはすぐに心地よさへ変わった。
「気持ちいい……」
身体の中に溜まっていた熱が、足先からゆっくりと抜けていく。
リリアーナはしばらく足だけを揺らしていたが、それでは物足りなくなった。裾を濡らさないように持ち上げ、水の中へ立つ。
足を動かすたび、透明な水が白い石の上を流れていく。
それだけで楽しかった。
「マリーも入りましょう」
「私はお嬢様を見ていますから」
「せっかくなのに?」
振り返ると、マリーは水辺に立ったままだった。
「一人より二人の方が楽しいわ」
マリーは一度、自分の侍女服を見下ろした。
「……少々お待ちください」
マリーが屋敷へ戻っていく。
リリアーナは水場の縁へ座り直し、足先で水面に小さな波を作りながら待った。
やがて足音が聞こえ、振り返ったリリアーナは、そのままじっと見つめてしまった。
「お待たせいたしました」
「……マリー?」
「はい」
声はいつものマリーだが、見慣れない格好だった。
いつもの長い侍女服から、水に入れる軽装へ着替えている。髪も濡れて構わないよう、普段より高い位置でまとめられていた。
侍女服に隠れていた手足は思っていたより長く、腰の位置も高い。すらりとした身体に姿勢の良さまで加わると、いつも以上に大人びて見えた。
リリアーナは自分の身体を見下ろし、次にマリーを見て、もう一度自分を見た。
「……どうされました?」
「マリーって、スタイルがよかったのね」
マリーが目を瞬いた。
(知っていたけれど! 私の侍女が綺麗なのは知っていたけれど!)
「突然ですね」
「だって知らなかったもの。いつも全部隠れているでしょう?」
「侍女服ですから」
マリーは苦笑しながら水辺まで来たが、リリアーナはまだ見ている。
「足も長いし」
「お嬢様」
「腰も高いわ」
「そんなに観察しないでください」
いつも余裕のあるマリーが、珍しく困っている。
それがおかしくて、リリアーナはもう少し言いたくなった。
「綺麗なのに」
「……ありがとうございます」
今度は素直に受け取った。
その言い方が照れているように聞こえて、リリアーナはますます嬉しくなる。
「私も大きくなったら、マリーみたいになれる?」
今度はマリーがリリアーナを見た。
少し驚いた顔をして、それから柔らかく笑う。
「お嬢様はまだ十歳ですよ」
「分かっているわ」
「でしたら、今から心配しなくても大丈夫です。きっとお綺麗になりますよ」
「本当?」
「もちろんです」
迷わず返ってきた。
リリアーナは嬉しくなったものの、それをそのまま顔に出すのも恥ずかしい。
「……そう」
それだけ言って水面へ視線を戻す。足先で水を動かしていると、隣から小さな笑い声が聞こえた。
「何?」
「いいえ」
「今、笑ったでしょう」
「嬉しそうでしたので」
「別に普通よ」
そう答えたのに、頬が緩むのを止められない。
マリーはそれ以上何も言わなかった。それがリリアーナにはありがたかった。
しばらくして、マリーも水へ入った。
「……冷たいですね」
「でしょう?」
今度はリリアーナが笑う番だった。
マリーは慎重に歩いている。いつもなら屋敷の中を迷いなく歩く彼女が、水の中では歩幅を小さくしているのがなんだか珍しい。
リリアーナはマリーの隣まで近づいた。
「楽しい?」
「まだ入ったばかりですよ」
「私は楽しいわ」
「それなら、連れてきた甲斐がありました」
その笑い方が、いつも屋敷で見るものと少し違っていた。
(うひゃ〜、どうですか、この人が私の侍女ですのよ!綺麗でしょう!!仕事もできるんですよ!)
誰に聞かせるでもない自慢が、頭の中で勝手に始まっていた。
「お嬢様?」
隣にいつもと違うマリーがいる。それが嬉しくて、リリアーナは足先で水を軽く蹴る。
ぱしゃり、と小さな水飛沫が上がり、その一部がマリーの足にかかった。
「あ、ごめんなさい」
「このくらいなら大丈夫ですよ」
マリーは気にする様子もなく笑った。
だから、もう一度だけ。
今度はもう一段強く蹴ってみる。
ぱしゃっ。
さっきより多く飛んだ水飛沫を見て、マリーがこちらへ視線を向ける。リリアーナは何もしていない顔を作った。
「……お嬢様?」
「なぁに?」
「今のは?」
「水が跳ねたの」
「勝手に?」
「ええ。不思議ね」
マリーがじっとこちらを見る。まずかったかもしれない。
そう思った直後、足元から水が飛んできた。
「きゃっ!」
今度はリリアーナの服にかかった。顔を上げると、マリーは涼しい顔をしている。
「水が跳ねました」
「……勝手に?」
「ええ。不思議ですね」
数秒、見つめ合った。
先に笑ったのはリリアーナだった。
「マリーのくせに」
「どういう意味ですか?」
「こういうこともするのね」
「今日はお休みみたいなものですから」
「じゃあ、もう一回」
「お嬢様?」
リリアーナが水を蹴ると、マリーも負けずに返してくる。
最初は小さかった水飛沫がだんだんと大きくなっていき、二人の笑い声が中庭に響いた。リリアーナは笑いながら逃げ、それでもマリーの隙を見つけると、また水を蹴ってやり返す。
そんな二人の姿を、中庭へ続く回廊から眺めている女性がいた。
リリアーナの母、アドラー侯爵夫人だ。
本当はマリーに確認しておきたいことがあり、侍女から中庭にいると聞いて足を運んだのだが、どうやら今は声をかけるべきではなさそうだった。
「マリー、今度はこっちよ!」
「お嬢様、逃げるのはずるいですよ」
「逃げてないわ。場所を変えただけよ」
「それを逃げたと言うんです」
楽しそうな声が、ここまで聞こえてくる。
侯爵夫人は思わず口元を緩めた。
屋敷の中ではいつもリリアーナの一歩後ろを歩き、身の回りの世話をしているマリーが、今は娘と一緒になって水浸しになっている。
それ以上に、娘があんなふうに笑っている姿を見るのが嬉しかった。
(あの子ったら、本当にマリーが好きなのね)
もちろん知ってはいた。
何かあれば真っ先にマリーを頼り、嬉しいことがあればマリーへ話す。最近では自分の侍女がどれほど優秀なのか、聞いてもいないのに母親へ話してくることまである。
そしてマリーの方も、リリアーナをとても大切にしてくれている。
(いい人に側にいてもらえたわね、リリアーナ)
「奥様、マリーをお呼びいたしましょうか?」
後ろに控えていた侍女が小声で尋ねた。
侯爵夫人はもう一度、水場へ目を向ける。
ちょうどリリアーナが水をかけられ、「マリー!」と楽しそうな声を上げていた。
「いいわ。急ぎではないもの」
「よろしいのですか?」
「ええ。あとで聞くことにするわ」
今ここでマリーを呼べば、娘はきっと残念そうな顔をするだろう。
それなら、もう少しくらい二人きりにしておいてあげたい。
侯爵夫人は踵を返した。
数歩進んだところで、背後からまた娘の笑い声が聞こえてくる。
(それにしても……マリーもあんな顔で笑うのね。
もっと早く二人に気がついていれば、記録に残せたのに、残念だわ)
「夕食までには戻るようにだけ伝えておいて」
「かしこまりました」
今度こそ、侯爵夫人は中庭をあとにした。
水場にいる二人は最後まで、そんな母親が近くまで来ていたことには気づかなかった。
♢
しばらく遊んだあと、二人は並んで水場の縁へ腰を下ろした。服の裾も髪も濡れている。けれど、不思議と気にならない。
「楽しかったわ」
「それは何よりです」
マリーが濡れたリリアーナの髪を指で整えてくれる。
水浴びをしていても、こういうところはいつものマリーだ。
「マリー」
「はい」
「またやりましょうね」
リリアーナの言葉に、髪を整えていたマリーの手が止まった。けれど、それもほんの一瞬で、すぐにいつもの優しい手つきに戻る。
「ええ。夏の間に、また」
「約束よ」
「はい。約束です」
リリアーナは満足して、水の中で足を揺らした。
次はもう少し大きく水をかけても、マリーなら許してくれるだろうか。
ちらりと隣を見る。
「お嬢様」
「……何も考えてないわ」
「まだ何も聞いておりませんよ」
マリーが笑う。
どうやら次も、先に仕掛けるのは難しそうだった。
マリーとリリアーナの仲の良さが少しでも伝われば☆やブクマで応援お願いします(⋆ᴗ͈ˬᴗ͈)”
次の話は12時に投稿予定です、絶対、見てください、ですわ!




