第19話 第三文官執務室の小さな変化
王宮の地下、薄暗い廊下の突き当たりに位置する
『第三文官執務室』
以前であれば、扉を開けた瞬間に感じるのは、長時間働き続けた文官たちの疲労と、紙やインクの匂いだった。
机には処理を待つ書類が積み上がり、誰かがため息をついても、それに反応する者はいない。朝から晩まで紙と数字に追われ、気づけば一日が終わっている。そんな毎日が当たり前の場所だった。
けれど、この数ヶ月で、その光景も少しずつ変わっている。
仕事量が減ったわけではなく、今日も机の上には相変わらず書類の山があり、部屋の奥では室長が帳簿を前に眉間へ皺を寄せている。
「……合わん」
室長が呟いた。
もう一度帳簿をめくる。
「やっぱり合わん……」
「室長、それ朝から三回目ですよ」
近くの文官から声が飛んだ。
「分かっている、だから困っているんだ。……代わりにやってくれるか?」
「俺もいっぱいいっぱいですよ、胃薬、飲みます?」
「まだいい。今日はまだ戦える」
その返事に、何人かが小さく笑った。
以前なら、こんなやり取りもほとんどなかった。
少し離れた机では、別の文官が仕事の手を止めて茶を淹れている。リリアーナが差し入れた茶葉を皆が気に入ったらしく、今では誰かが湯を沸かすと、自分の分だけではなく近くの者の分まで淹れるようになっていた。
「ほら」
「ん、ありがと」
隣の机へ置かれたカップを受け取った文官が、一口飲んで息をつく。
「……生き返る」
「大げさだな」
「朝から数字しか見てないんだぞ。これくらい言わせろ」
そんな声を聞きながらも、周囲の手は動いている。
書類の束を抱えた者が通れば、邪魔にならないよう誰かが椅子を引く。インクが切れて困っていれば、隣から予備の瓶が差し出される。
どれも大したことではない。
けれど、以前は自分の机に積まれた仕事を片づけるだけで精一杯だったこの部屋に、少しだけ周りを見る余裕が生まれていた。
その中でも、ここ数ヶ月で一番変わった場所を挙げろと言われれば、おそらく誰もが同じ机を見る。
部屋の一角にある、シード・キャメロンの席だった。
リリアーナから贈られた特注のワークチェアに、目に優しい魔導ランプ。使い込まれているが綺麗な万年筆。そして、新しく仲間入りしたばかりの木製書見台。
最初は必要最低限の物しかなかった机が、今では第三文官執務室で一番仕事のしやすそうな場所になっている。
「キャメロン。また増えたな」
通りかかった文官が、書見台を見て声をかけた。
シードは手元の書類から顔を上げる。
「えぇ、とても仕事が捗りますよ」
「だろうな、最初は羨ましいと思ったが、俺にはリリアーナ嬢の期待に応えられそうにないな」
「俺もまだまだですよ。できる限り頑張りますけど」
シードは自分にここまでしてくれるリリアーナに、感謝をしつつ書類に目を通す。
「今度は何なんだ、それ?」
「書類を置くための台だそうです。角度も変えられます」
シードが横の留め具を動かしてみせると、文官は感心したように書見台を覗き込んだ。
「へえ。便利そうだな」
文官は笑いながら自分の席へ戻っていった。
リリアーナから贈られた物は、どれもきちんと使っている。
最初の頃こそ、侯爵令嬢から次々と贈り物を渡されることに戸惑っていた。自分のような下級文官が受け取っていい物なのかと悩んだことも、一度や二度ではない。
それでも、使ってみればどれも仕事がしやすくなる物ばかりだった。
ワークチェアに初めて座った日は、仕事を終えて立ち上がったとき、いつもの腰の重さがないことに驚いた。
魔導ランプを使い始めてからは、夕方になっても目の奥が痛くなりにくい。
万年筆も、今ではすっかり手に馴染んでいる。
使い終われば元の場所へ戻し、インクがつけば布で拭く。ランプも毎朝軽く埃を払ってから仕事を始める。
以前、そんなシードを見ていた文官が「なんだかんだ全部気に入ってるよな」と笑ったことがある。
そのときシードは少し考えてから、
「……仕事には、とても便利です」
第三文官執務室ではすっかり見慣れた光景になっている。
「キャメロン」
奥から室長の声が飛んできた。
「はい」
「今日は各部署から回ってきた消耗品の経費精算を頼む」
「承知しました」
シードは立ち上がり、室長から書類の束を受け取った。
自分の席へ戻る途中、隣の机に積まれていた書類が崩れかけているのが目に入り、空いている手で端を押さえる。
「あ、悪い。助かった」
「いえ」
「あとで茶いるか?」
「いただきます」
「いつも仕事に夢中で忘れるくせに」
そう言われて、シードは少しだけ考える。
「今日は忘れないようにします」
「そうしてくれ。お嬢様に知られたら、俺たちまで怒られそうだ」
近くから笑い声が上がった。
「リリアーナ様は怒らないと思いますが……」
「お前にはな」
それにはどう答えていいのか分からず、シードは書類を抱えたまま黙った。
また笑われる。
けれど、嫌な感じはしなかった。
数ヶ月前まで、平民上がりの若い文官として距離を置かれていた頃とはずいぶん違う。
頼まれた仕事をきちんと終わらせ、誰かが困っていれば手を貸す。それを毎日繰り返しているうちに、少しずつ話しかけられることが増えた。
今では、第三文官執務室でシードを悪く言う者はいない。
シードは自分の席へ戻ると、受け取った書類をリリアーナから贈られた書見台へ載せた。
木製の台に手を添え、角度を少し上げてみる。
「……このくらいか」
椅子に腰を下ろし、背もたれへ身体を預ける。
ちょうどいい高さに書類が収まった。
シードは一度瞬きをした。
「……思っていたより、凄くいいな」
これまでは書類を見るたびに首を下げ、長時間の作業を終える頃には首筋から腰にかけて重さが残っていた。
けれど書見台に載せれば、背筋を伸ばしたまま文字を追える。
試しに横へ帳簿を置いてみると、こちらも見やすい。机へ直接書類を広げていた頃より視線を動かす範囲が狭く、複数の資料を見比べる作業にも使えそうだった。
リリアーナが得意そうな顔で使い方を説明していた姿を思い出す。
『これなら、ずっと下を向いていなくてもいいでしょう?』
あのときは、そこまで変わるものだろうかと思っていた。
どうやら自分が間違っていたらしい。
シードは書見台の端を指先で一度撫でた。
今日リリアーナが来たら、きちんと礼を言おう。
そう決めてから、いつもの万年筆を手に取った。




