第18.5話 お嬢様の特別な場所(マリー視点
アドラー侯爵家に仕える侍女マリーは、この三ヶ月で主人の生活が大きく変わったことを、誰よりも近くで見ていた。
お嬢様——リリアーナの変化が始まったのは、十歳の誕生日のことだった。
王宮の地下で『シード』という一人の下級文官と出会って以来、お嬢様は以前にも増して、さまざまなことを学ぶようになった。会計や財政、お茶の知識。始まりはいつだって、「シード様のお仕事をもっと知りたい」「少しでもお役に立ちたい」というものだった。
そして同時に始まったのが、彼への至れり尽くせりの支援である。クッキーやお茶から始まり、特注のワークチェア、魔導万年筆、目に優しい魔導ランプ。
理由は、毎回同じだ。
「シード様のお仕事が、少しでも楽になればと思いまして」
そして今日もまた、である。
「マリー、職人様から届いたものは、こちらで間違いないかしら? シード様、いつも書類を平らに置いて覗き込んでいらっしゃいますから、首や背中をお痛めでしょう? 姿勢を崩さずに書類を読み込めるよう、角度を細かく変えられる特製の書見台を作っていただいたのですの」
木箱の蓋を開けたお嬢様は、角度を変えるための金具を動かし、書見台が注文通りに仕上がっていることを一つずつ確かめていく。確認を終えると、今度は隣に用意されたハーブティーの包みへ目を向け、満足そうに頷いた。
(またですか、お嬢様……。職人にそんな特殊な仕掛けの台まで作らせるなんて……)
マリーは心の中でそっと息を吐いた。
我がアドラー侯爵家の一人娘は、注ぐ情熱のほとんどを、あの若い文官へ向けている。
彼への差し入れを準備する際のお嬢様は、実に生き生きとしていて愛らしい。本人は至って真面目に「尊敬する方への応援」をしているつもりなのだが、マリーから見れば、シードのこととなると少々張り切りすぎているようにも思えた。
「さあ、できましたわ。マリー、参りましょう」
「はい、お嬢様」
マリーが近くの使用人へ声をかけると、木箱とバスケットはすぐに馬車へと運ばれていった。リリアーナはそれを見届けてから、ご機嫌な足取りで玄関へ向かう。
屋敷の前では、すでにトーマスが御者台で手綱を握って待っていた。マリーがお嬢様に続いて乗り込むと、侯爵家の馬車は王宮へ向けて走り出した。
♢
王宮へ到着すると、マリーは書見台の入った木箱を抱え、リリアーナはハーブティーの入ったバスケットを大切そうに両手で持った。二人はそのまま、いつもの地下執務室へと向かった。
『第三文官執務室』の前に到着し、マリーが静かに扉を開ける。
室内には、今日も先客がいた。
奥のデスクにいるシードのそばに、見慣れ始めた金髪の少年が立っている。
最近、お嬢様がここを訪れると、こうして顔を合わせることが増えていた。
お嬢様には『ルイ』と名乗っている少年。けれど、その正体をマリーは知っている。
(今日もいらっしゃいますのね、ルイス殿下……)
初めて正体に気づいた日は肝が冷えたものだが、今では驚いて声を上げるようなこともない。もちろん、お嬢様の前で本当の身分を口にするつもりもなかった。
ルイス殿下は扉が開くとすっと視線を向け、人差し指を立ててそっと自分の唇に添えた。マリーは何食わぬ顔で姿勢を正し、静かに深く一礼する。
その合図の意味を知る由もないお嬢様が、ぱっと表情を輝かせて声をあげた。
「まあ、ルイ様! 今日もいらしていたのですね!」
お嬢様は足早に少年の元へ向かった。ルイス殿下は一瞬だけ驚いたように目を丸くしたが、お嬢様の笑顔を見ると、すっと肩の力を抜いて微かに口元を緩めた。
「……ああ。きみが来る前に、少し父の仕事の見学をさせてもらっていたんだ」
「まあ、ルイ様は本当にお勉強熱心で、感心いたしますわ。今日もお会いできて嬉しいですの」
何事もないように「ルイ様」と呼んで隣に並ぶお嬢様。
そのすぐ近くでは、事情を知るシードがいつもよりわずかに背筋を固くし、黙って二人の様子を見守っている。
(まあ……シード様も大変ですこと)
マリーは胸の内だけで、そっと同情した。
お嬢様は本来の目的を思い出したように、抱えていたバスケットを置いた。
「マリー、こちらをシード様の机へお願い」
「かしこまりました」
マリーが木箱をデスクへ置くと、お嬢様は待ちきれない様子でその蓋を開いた。
「……リリアーナ様。今度は、何をお持ちになったのですか」
「長時間の作業でも首や腰が痛くならない、特注の角度調整付き書見台ですわ! さあ、試してみてくださいな!」
胸を張って嬉しそうに勧めるお嬢様。
シードは書見台をデスクへ置き、試すように一枚の書類を載せた。角度を調整すると、それまで自然と落ちていた視線が上がる。背筋を伸ばしたまま数行を追い、そのまま万年筆を走らせた。
「……これは、とても使いやすいです」
小さく漏れた一言に、お嬢様の顔がぱっと輝いた。
その様子を横から眺めていたルイス殿下が、ふと小さく口を開いた。
「……また、彼のためのものかい?」
「ええ、もちろんですわ!」
迷いのない即答。お嬢様はニコッと微笑むと、当然のように続けた。
「だってシード様は、毎日ここでたくさんのお仕事を頑張っていらっしゃるのですもの。応援したくなってしまうのは当然ですわ!」
「……そうか」
ルイス殿下はそれ以上何も言わなかった。ただ、書見台へ向き直ったシードではなく、その姿を嬉しそうに見つめるリリアーナの横顔を見ている。
「室長様、皆様もどうぞ。今日は皆様の分もお持ちしましたの」
「あ、ありがとうございます、リリアーナ様! いつもお気遣い感謝いたします……!」
お嬢様のお言葉を受けてマリーが手早くお茶を淹れて配ると、緊張で強張っていた室長や文官たちにすっと生気が戻っていく。一口味わうと、文官たちは手元のカップへ目を落とし、張り詰めていた頬を小さく緩ませていた。
全員の手元にカップが行き渡ったのを確かめると、お嬢様は満足そうに頷き、丁寧にお辞儀をした。
「それでは、私はそろそろ失礼いたしますわ。これ以上いては、皆様のお仕事のお邪魔になってしまいますもの」
「あ、はい! 本日もお気遣いいただき、誠にありがとうございました!」
室長は深々と頭を下げた。お嬢様が訪れるたび、最初こそ胃薬の瓶へ手を伸ばしていた室長も、最近では見送りの表情がずいぶん柔らかくなっている。お嬢様が差し入れを届けても、仕事の邪魔になる前に必ず帰る。それを室長も理解し始めたのだろう。
お嬢様はすっとルイス殿下の方へ向き直った。
「ルイ様は、どうされますの?」
ルイス殿下は室内を見回した。室長は書類へ目を落としているものの、その背筋は先ほどから不自然なほど伸びたままだ。
「……僕も、もう帰るよ」
「もうよろしいのですか?」
「ああ。見たかったものは見られたからね」
そう答えながら、ルイス殿下の視線が一度だけシードの手元へ向かう。
書見台に載せられた書類の上を、万年筆が迷いなく走っていた。数字を確かめるために前の行へ戻ることもなく、正確に処理されていく。
「それに、これ以上いたら僕も仕事の邪魔になりそうだ」
「まあ。では、ご一緒いたしましょう!」
「……ああ」
お嬢様が嬉しそうに笑うと、ルイス殿下は一瞬だけ目を丸くしてから、その隣へ並んだ。
♢
廊下へ出ると、お嬢様は来た時よりも軽い足取りで歩き始めた。
「シード様、気に入ってくださいましたわ!」
弾んだ声に、隣を歩くルイス殿下がちらりと横を見る。
「……嬉しそうだね」
「もちろんですわ! シード様のお仕事が少しでも楽になるなら、それが一番ですもの」
マリーは二人の少し後ろを歩きながら、リリアーナの横顔を見つめていた。
(ここはもう、お嬢様にとって、特別な場所なのですね)
マリーは空になったバスケットを抱え直し、並んで歩く二人の後を追った。




