第18話 緊張感が漂う第三文官執務室
『第三文官執務室』
ドアが開くと、リリアーナは丁寧にお辞儀をした。
「皆様、ご機嫌よう。本日は温かいアップルパイをお持ちしましたわ」
「「「リリアーナ様、本日も——」」」
室長をはじめとする文官たちが一斉に笑顔で迎えようとした、その瞬間。
リリアーナのすぐ隣で、腕を組み、凛とした佇まいで立つ金髪の少年の姿が視界に入った。
迎えの声が、途中で途切れた。
ガタッと大きな音が響く。室長が手にしていた大量の重要書類を、そのまま床にぶちまけた音だった。顔色がみるみる蒼白になり、膝をガクガクと震わせる室長。
ルイスはすっと人差し指を唇に当てて見せた。
室長が無言で口をピタリと閉じる。
立ち上がりかけた隣の文官が、引きつった顔のまま静かに腰を下ろした。
文官室全体に、声のないパニックが広がる。だが、その異様な静寂にリリアーナだけが全く気づいていない。
「まあ、室長様、書類を落とされて……お疲れなのですわね。ルイ様、こちらが国のお仕事を支えていらっしゃる皆様ですのよ」
「……ああ。皆、熱心に励んでいるようだね」
ルイスが声のトーンを抑えて合わせると、文官たちは声を出せないまま深く頭を下げた。
一人で納得したリリアーナは、奥のデスクで幽霊のように固まっているシードの元へと歩み寄った。
「シード様、ご機嫌よう。本日は新しい見学のお客様もお連れしましたの」
シードの額から、静かに冷や汗が垂れ落ちた。
「こちら、ルイ様ですの。お父様のお仕事見学にいらしたそうですわ。ルイ様、こちらが私が一番尊敬しているシード様ですの」
なぜか紹介するリリアーナの方が、少しだけ誇らしげに胸を張っている。
シードは困ったように目を伏せたが、リリアーナは気づかない。
「シード様のお仕事は本当にすごいのですよ。どれだけ書類の山があっても、あっという間に片付けてしまわれるのです。周りの文官様たちもみんなシード様を頼りにしていらっしゃって、本当に素晴らしい方なんですの!」
自分のことでもないのに、話しているうちにどんどん表情を輝かせていくリリアーナ。
「そうなのか。ちょっと見せていただいてもいいかな」
ルイスはその様子を不思議そうに見つめながら、シードのデスクへ歩み寄った。そして、完成された書類の山から一番上の1枚を静かに手にとった。
(……複雑な徴税計算だな)
ルイスは無言で2枚目の書類を繰った。
(……こちらの計算も、端数の処理まで正確に思える)
さらに3枚目。
(修正した痕すらない……)
ルイスの指先が止まる。
あの子があれほど誇らしげに自慢するから確かめてみれば、ただ手が早いだけではない。少なくとも、下級文官が当たり前にできる仕事ではなかった。
ルイスは書類から視線を上げ、初めて正面からシードを見た。
シードは青ざめた顔のまま、胃を押さえるようにして軽く頭を下げている。
「シード様、お疲れでしょう? 温かいアップルパイを召し上がってくださいな」
リリアーナは嬉しそうにバスケットからパイを取り出すと、シードのデスクへ置いた。さらに、隣にいるルイスにも微笑みかける。
「ルイ様も、召し上がります?」
「え……」
室長が目を見開いたまま、必死に首を横へ振っている。シードも同じだった。
だが、誰一人口を開けない。ここで止めれば、ルイスの正体を自分たちから明かすことになる。
必死すぎる視線と、場に漂う極度の緊張感を、ルイスは静かに察した。そして、何も知らずにパイを差し出してくるリリアーナを見た。
「……ありがとう。だが、僕は今お腹がすいていないんだ。気持ちだけ受け取っておくよ」
「まあ、そうですの? では、お好きな時に召し上がってくださいね」
リリアーナは気にした風もなく微笑むと、「皆様にもお茶を配ってまいりますわね」とトレイを持って部屋の奥へ向かっていった。
「室長様、温かいお茶をどうぞ」
「あ、ありがとうございます、リリアーナ様……」
「まあ、この前より少しお顔の色がよくなっていらっしゃいますわね。安心いたしました」
「……お気づきでしたか」
ふふ、と嬉しそうに頷いて次のデスクへ向かっていくリリアーナを見送り、室長は手元のカップへ目を落とし、張り詰めていた頬をわずかに緩めた。
残されたデスクで、ルイスはその光景を静かに眺めていた。
文官たちにお茶を配りながら楽しそうに言葉を交わすリリアーナと、その向こうで、いまだに顔色が戻らないシード。
ルイスと目が合ったシードが、緊張したまま小さく頭を下げる。
ルイスも、それにだけは軽く頷いて返した。
それから静かな足取りでドアへと向かい、去り際にふと、一度だけ後ろを振り返る。
リリアーナはシードの机のそばへ戻り、再び動き始めたペン先を満足そうに眺めていた。
(……また来てもいいかもしれないな)
ルイスは音もなくドアを閉め、静かな回廊へと戻っていくのだった。




