第2話 初めての推し活(物理)と、小さなやる気スイッチ
「よーし、完璧ね!」
十歳の誕生日の誓いから翌日。私、リリアーナはアドラー侯爵邸の広大な庭で、職人が総出で馬車へ運び込む「あるもの」を見つめて満足げに頷いていた。
昨日約束した、魔導クッション付きの極上ワークチェア。
職人には「お父様の執務用よ」と嘘をついて、座るだけで腰痛が消え、精神安定の効果を持つ最高級の魔石をこれでもかと仕込ませた特注品である。
「お嬢様、本当に本日も王宮へ行かれるのですか? 旦那様は本日、地方領主との会談で不在ですが……」
「問題ないわ、トーマス。お父様の代理として、文官の方々に『激励の差し入れ』を行うだけですから」
御者のトーマスに極上の侯爵令嬢スマイルを向ける。
そう、大貴族の権力とはこういう時に使うものよ! 誰もあのブラック部署のモブ文官(私の最推し)へ届く荷物を、侯爵家の馬車から降ろせるはずがないのだから。
♢
一方その頃、王宮の最果てにある
『第三文官執務室』
「おい、キャメロン! 昨日のお前の予算書、なんだあの完璧な仕上がりは! おかげで魔導師団の予算がすんなり通ったぞ!」
「……それは良かったです、室長」
上司である肥満体の室長が、シードの手柄を我が物顔で触れ回っている。シードは長めの前髪の奥で、感情の消えた瞳を机に向けていた。
いつものことだ。平民上がりの下級文官がどれだけ完璧な仕事をこなそうと、手柄など与えられない。
目立てば他の面倒な雑務を押し付けられるだけだから、これまでは「言われた最低限のこと」だけを無感情にこなしていた。
ただ――昨日までは、それで良かったはずだった。
(……天才、ですか)
シードは昨日、あの小さな侯爵令嬢が置いていった
『魔力回復クッキー』を一枚かじった。
途端、三日三晩の徹夜で泥のようだった脳内が、恐ろしいほどの速度で冴え渡った。魔力の循環が劇的に改善され、身体の疲労が完全に消失したのだ。
あんな価値あるものを、下級文官である自分に、彼女は「当然の報酬」であるかのように手渡した。
『あなたを全力でサポートしますわ!』
耳の奥で、鈴を転がすような少女の声がリフレインする。
その時、ガタゴトと、この薄汚い執務室にはおよそ似合わない、重厚な駆動音が廊下から響いてきた。
「ひぇっ!? な、なんだぁ!?」
室長が飛び上がる。
立て付けの悪い扉が勢いよく開かれ、入ってきたのは、仕立ての良い制服を着たアドラー侯爵家の屈強な使用人たち。そして彼らが恭しく運び込んできたのは――金色の刺繍が施され、座面から微かに心地よい魔力の波動を放つ、最高級の革張りワークチェアだった。
「……え?」
シードが呆然とする中、使用人たちの間から、昨日の小さな太陽がトコトコと歩み出てきた。
「ご機嫌よう、シード様! 約束通り、特注の極上チェアをお持ちいたしましたわ!」
リリアーナ(10)は、満面の笑みで胸を張った。
(き、きたああああ! 今日のシード様も前髪の隙間から覗くクマが最高にセクシー! 煤けた文官服と最高級椅子のギャップ、尊すぎてもぉ最高ですわ〜……!)
脳内で限界オタクの雄叫びをあげるリリアーナをよそに、部屋の中はパニックに陥っていた。
「ア、アドラー侯爵家のお嬢様……!? なぜこのような場所に……というか、その椅子は……!?」
室長が汗をダラダラと流しながら擦り寄ってくるが、リリアーナはそれを一瞥すらしない。推し以外は背景透過である。
「シード様、さあ、早くその安物の椅子は捨てて、こちらにお座りになって?」
「アドラー令嬢、流石にこれは受け取れません。私はただの――」
「駄目ですわ!」
リリアーナはシードの前に一歩踏み出し、その細い手首をきゅっと掴んだ。
「あなたの頭脳は、この国の宝です。それをこんな環境で腐らせるなんて、私が許しません。……ねぇ、シード様。私は本気であなたの『パトロン』になりたいのです。私の個人的なワガママだと思って、甘えてはくださらない?」
真っ直ぐに見つめてくる、アメジストの瞳。
そこにはやはり、打算も、哀れみもない。ただ熱狂的なまでの「あなた全肯定」の光だけがある。
「…………」
シードの喉が、小さく鳴った。
平民として生まれ、どれだけ努力しても「都合の良い道具」としてしか扱われていなかった人生。その乾ききった心に、この幼い少女は、恐ろしいほどの物量と熱量で「肯定」を注ぎ込んでくる。
(ああ、なるほど……)
シードは静かに目を伏せた。
このお嬢様は、本気だ。理由は分からない。
だが、彼女は俺自身もわからない俺の価値を誰よりも正確に見抜いているのだろう。
だったら――その期待に、全力で応えるのが筋というものだ。
「……分かりました。リリアーナ様がそこまで仰るのなら」
シードは静かに、その最高級の椅子へと腰を下ろした。
「リリアーナ様、一つ、お聞きしても? 私のような者にここまで尽くして、あなたは何を望まれるのですか?」
普通なら、大貴族が下級文官を囲うのは「派閥の手駒」にするためだ。何か大きな見返りを求められるに違いない。
しかし、リリアーナの返答は、シードの予想の斜め上を音速で突き抜けた。
「望むこと? そんなの、シード様が健康で、誰にも邪魔されずに、世界一幸せに書類を捌く姿を特等席で眺めることに決まっているじゃない!」
(そうよ! 推しが快適に仕事してニコニコしてくれているだけで、私は今日も元気に生きられるのよ!!
課金しても実質無料みたいなものだわ!!)
満面の笑みで言い切る10歳児。
「……え?」
シードは三度、絶句した。
見返りを求めない。ただ、俺が幸せに働く姿を見たい、だと?
そんな奇妙で、温かい願い、生まれて初めてぶつけられた。
シードの胸の奥で、カチリ、と小さなスイッチが入る音がした。それはまだ「黒幕の野心」ではない。ただの、純粋で強烈な『やる気』だ。
(……この方を失望させたくない)
シードは机の下で、拳を強く握りしめた。
彼女がまたここに来た時、もっと驚くような、完璧以上の仕事の成果を見せてあげよう。
「リリアーナ様。あなたのその『願い』……必ず、最高の形でお見せすると約束します」
「きゃあ! 嬉しいわ! じゃあまた明日きますわ!」
リリアーナは「推しのモチベーションが上がったー!」と赤くなって大喜びで帰っていった。彼女の「初回物理課金(環境改善)」は大成功である。
♢
残された執務室で、シードは手元に残った魔力回復クッキーを口に放り込んだ。
頭が冴え渡る。
体は軽い。
椅子は最高。
シードは静かに眼鏡をクイと上げ、ペンを握った。
目の前にあるのは、先ほど室長から押し付けられた、今日のノルマである十枚の予算書類だ。
――サラサラサラ……。
静かな部屋に、ペンが紙を滑る音だけが規則正しく響く。
「おい、キャメロン。さっき渡した十枚の予算書類、今日の定時までに仕上げておけよ」
部屋の隅でお茶を淹れていた室長が、湯気の立つカップを手にデスクへ戻ってくる。
シードはペンを置き、静かに書類の束を差し出した。
「終わりました」
「……は? いや、キャメロンよ、書類を渡してからお茶を淹れてる間の時間だけだぞ?」
室長は怪訝な顔で、差し出された書類を受け取って見返した。
いつもなら平民の新人が書く書類など、誤字脱字や計算ミスだらけで突っ返されるのがオチだ。だが、この一瞬で仕上げられた書類には、それらが一切ない。完璧なフォーマット、流れるような美しい文字。修正する箇所が、どこにも見当たらなかった。
「お前……これ、本当に今やったのか?」
「はい」
「じゃあ……これもやってみろ」
室長は困惑しながら、追加で五枚の書類を机に置いた。
シードはすぐさまペンを走らせる。
――サラサラサラ……。
「終わりました」
「…………」
室長は手元の書類を見つめたまま、今度こそ絶句した。
文字通り、目を離した隙の出来事だ。誤字もない。計算ミスもない。
シードは前髪の隙間から、静かに室長を見上げた。安物眼鏡の奥の瞳には、これまであった「諦め」の感情は綺麗さっぱり消え失せている。
「室長」
「は、はい?」
思わず、上司であるはずの室長の声が裏返った。少年から発せられる、静かで冷徹な圧に気圧されたのだ。
「……次を」
「え?」
「…………」
室長は室内の温度が数度下がったような錯覚に囚われながら、ガタゴトと震える手で、自分のデスクに残っていた書類の束をシードの机へと差し出した。
シードは何も言わなかった。
静かな執務室に、ペンが紙を滑る音だけが、途切れることなく響いていた。
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次回、椅子の余波と、とばっちりの室長 ですわ!




