第1話 推しの文官を見つけましたわ!
数日後、私は父の王宮訪問へ同行する機会を手に入れた。王宮で働く人々の仕事を見て勉強したいと頼んだところ、お父様は驚きながらも許してくれた。
もちろん、勉強する気はある。
ただし目的地だけは、最初から決まっていた。
ゲームの記憶を頼りに文官たちが働く区画までやってきて、『第三文官執務室』と書かれた札を見つけた瞬間、危うく駆け出しそうになる。
(ここ……ここですわ! シード様が働いていた場所!)
扉一枚の向こうに推しがいるかもしれない。そう思っただけで胸が苦しいほど高鳴り、取っ手へ伸ばした手まで震えてくる。
(落ち着くのよ、リリアーナ。わたくしは侯爵令嬢。推しを見つけても叫ばない、走らない、抱きつかない。完璧ですわ)
何も完璧ではない気もするけれど、最低限の自制は必要だ。一緒に来ていた侍女のマリーには扉の前で待っていてほしいと頼み、私は一度だけ息を整えてから中へ入った。
最初に目へ飛び込んできたのは、大量の書類だった。
いくつもの机に紙束が積まれ、文官たちが忙しそうにペンを走らせている。ゲームでは背景としてしか見ていなかった場所が目の前に広がっていることに感動しながら室内を見渡していると、奥の机から低い声が聞こえてきた。
「……この予算書、合計額が合いませんね。第三項目を確認していただけますか?」
その瞬間、私は動けなくなった。
聞き間違えるはずがない。
前世で音量を最大にして、何度も何度も聞き直した声だった。
(この声……!!)
ゆっくりと顔を向ける。
少し癖のある黒髪。目元まで掛かった長めの前髪。その奥にある丸眼鏡。まだ少年らしさの残る横顔は手元の書類へ向けられ、細い指が数字を追っている。
「ここです。前の頁では同じ費目がこの金額になっていますから、転記の際に数字を入れ違えたのだと思います」
「ああ、本当だ。助かった、キャメロン」
「いえ。こちらで直しておきます」
また喋った。しかも今度は、一言で終わらない。
(喋ってる……本物のシード様が喋ってる! しかも目の前でお仕事していらっしゃる!!)
前世の私に見せてあげたい。
あなたが何十回も聞き直した声の主は、本当にここにいる。紙をめくって、ペンを走らせて、他の文官から渡された書類まで確認している。
しかも、仕事をしている姿が想像していた以上に格好いい!
シード様は修正した書類を返すと、すぐ自分の仕事へ戻った。別の紙束を手元へ寄せ、数字を確認しながら迷いなくペンを走らせていく。
一枚、また一枚。
ただ速いわけではない。数字を見比べ、間違いがあれば手を止め、前の書類まで戻って確かめている。それでも周囲より明らかに紙の流れが速かった。
ゲームの設定では、彼は「見たことをすべて完璧に理解し、覚え、再現・改良できる」という頭脳を持っているが、出世欲が皆無なため、手柄をすべて上司に譲ってここで働いている設定だったはずだ。
(何これ……最高じゃない。ゲームはどうしてこの人を攻略対象にしなかったの!?)
気づけば、私はシード様の机の近くまで来ていた。
「あの、失礼いたします!」
シード様が顔を上げる。
「……はい?」
前髪の隙間から、黒色の瞳がこちらを見た。
近い。
ゲーム画面では、どれだけ拡大してもぼやけていた顔が、今ははっきり見える。
(ちょっと待って。眼鏡の奥、思っていたよりずっと格好いいんですけれど!? 十五歳でこれなら将来どうなるの!?)
危ない。本来の目的を忘れそうになった。
私は慌てて背筋を伸ばし、侯爵令嬢らしい笑顔を作る。
「突然申し訳ございません。わたくし、リリアーナ・ヴァン・アドラーと申します」
「アドラー……侯爵家の?」
「はい。シード様にお会いしたくて参りました!」
「……私に?」
しまった。いきなり本音が出た。
シード様が困惑するのも当然だ。侯爵家の令嬢が突然仕事場へ現れ、自分に会いに来たと言っている。
「どこかでお会いしたことがありましたか?」
「いいえ。今日が初めてですわ」
「では、なぜ私の名前を……?」
(そこを聞かれますわよね!)
前世であなたを見つけてからずっと推していました、なんて説明できるはずもない。
私は必死に頭を回した。
「シード様のお仕事に興味がありまして!」
嘘ではない。むしろ興味しかない。
シード様はまだ不思議そうにしていたけれど、私は先ほど見ていた書類へ視線を向ける。
「先ほどのお仕事も拝見していました。あの予算書の間違い、すぐに見つけていらっしゃいましたわね」
「それは仕事ですから」
「それでもすごいですわ。別の書類まで確認して、すぐに間違っている場所を見つけていましたもの。それにご自分のお仕事へ戻ってからも、ずっと手が止まっていませんでした」
シード様が驚いた顔をした。
ちゃんと見ていたから分かる。適当に流しているわけではない。一枚ずつ目を通し、数字を確かめ、それでも次々と処理していたことを。
「文字もとても綺麗でしたし、書類を扱っている姿も素敵でした。シード様は、本当にお仕事がお上手なのですね!」
「…………」
今度こそ、シード様が固まった。
(あれ? 変なこと言いました? でも本当のことしか言ってませんわよね?)
「わたくし、感動しました。できることなら、ずっと見ていたいくらいです!」
「ずっと……ですか?」
「あっ」
また本音が漏れた。
「……失礼いたしました。少し興奮してしまって」
少しどころではない。
それでもシード様は怒るどころか、何を言えばいいのか分からないように視線を泳がせていた。前髪に隠れて分かりにくいけれど、耳の付け根がほんのり赤い。
(照れていらっしゃる……可愛い!!)
これ以上は私の心臓がもたない。
私は今日のために用意してきた包みを取り出し、シード様の前へ差し出した。
「こちらをどうぞ。お仕事の合間に召し上がってくださいませ」
「これは?」
「魔力回復クッキーです。机でも食べやすいよう、小さめに作っていただきましたの」
仕事で消耗した魔力を少し補える素材を使ったクッキーで、もちろん味にも妥協していない。
シード様は包みと私を交互に見た。
「……私がいただいてもよろしいのですか?」
「もちろんです。そのために持ってきましたもの」
「ですが、侯爵家のご令嬢からこのようなものをいただく理由が……」
「お仕事を頑張っているシード様への差し入れですわ。疲れたときに食べていただけたら、わたくしが嬉しいのです」
そう伝えると、シード様は少し迷ってから両手で包みを受け取った。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして!」
(受け取ってくださった!!)
推しに差し入れを渡した。
しかも、目の前で受け取ってもらった。
前世では絶対にできなかったことを、転生して数日で達成してしまった。
もう今日は記念日にしてもいい。
そんなことを考えていると、包みを机へ置くシード様の手元で、別のものが目に入った。
椅子だ。古い木製の椅子で、背もたれも座面も硬そうに見える。
さっきからずっと座って仕事をしていた。
おそらく毎日、この椅子で何時間も。
(…………これは駄目ですわ)
見つけてしまった、推し活案件を。
「シード様。その椅子、一日にどれくらい座っていらっしゃいます?」
「椅子、ですか? 日によりますが、仕事中はほとんど座っていますね」
「腰や背中は痛くなりませんの?」
「毎日疲れますが……文官なら普通だと思います」
普通。本人にとってはそうなのだろう。
でも私は、目の前の硬そうな椅子を見ながら考える。
(シード様が一日の大半をここで過ごすなら、もっと快適にできるはずよね。座面を柔らかくして、背中をきちんと支えられるようにして……魔導具も使えるんじゃない?)
考え始めたら止まらなかった。
「分かりました。椅子を作りましょう!」
「……はい?」
「シード様専用の、長く座っても疲れにくい椅子ですわ。座面はもっと身体に負担が掛からないものにして、背もたれも変えましょう。せっかくなら魔導具も組み込んで……」
「お、お待ちください、アドラー令嬢」
さすがにシード様が慌てて止めた。
「クッキーだけでも十分です。そこまでしていただく理由がありません」
もっともな疑問だ。
今日初めて会った侯爵令嬢が、突然差し入れを持ってきたと思ったら、今度は自分専用の椅子を作ると言い出している。
普通に考えれば意味が分からないんだと思う。
でも、私にとって理由なんて一つしかない。
「わたくしが、シード様に快適にお仕事をしていただきたいからですわ」
「……私に?」
「はい。先ほどお仕事をしているところを見て、もっと見ていたいと思いましたもの。ですからシード様には、元気に、快適に、いつまでも素敵に書類を捌いていていただきたいのですわ!」
これ以上ないほど正直な気持ちだった。
なのに、なぜかシード様は完全に固まっている。
「ずっと見ていたいですわ!」
シード様の耳が、さっきより赤くなった。
(ああもう、やっぱり推してよかった……!)
今日会ったばかりなのに、確信している。
前世で画面の端にいた彼を見つけた自分を、全力で褒めてあげたい。
「では、今日はこれで失礼いたします。椅子が完成したら、また持って参りますわね!」
「本当に作るおつもりなのですか?」
「もちろんです!」
止められる前に笑顔で頭を下げ、私は第三文官執務室を出た。
扉が閉まったところで、待っていた侍女のマリーのもとへ向かいながら胸の前で両手を握る。
(会えた! 喋れた! 差し入れまで受け取ってもらえた! しかも本物のシード様、想像していたより何倍も素敵だったんですけれど!!)
転生して悪役令嬢になったと知ったときは、どうなることかと思った。
でも今は一つだけ言える。
この世界に来られて、本当によかった。
破滅回避もしなければならない。それは忘れていないし、家族を巻き込まないためにも絶対に何とかする。
でも今は、それより先に椅子だ。
(待っていてくださいませ、シード様。長時間座っても疲れず、最高の状態でお仕事ができる椅子を作ってみせますわ!)
こうして私の推し活は、早くも次の段階へ進むことになった。
♢
リリアーナが去ったあと、シードは机の上に置かれた包みを見つめていた。
突然現れた侯爵令嬢は、自分の仕事を見ていたと言った。予算書の間違いを見つけたことも、他の文官から頼まれた書類を確認したことも、文字まで見ていた。
そして何度も褒めたかと思えば、最後には自分専用の椅子を作ると言い残して帰ってしまった。
彼女の瞳に「侮蔑」も「からかい」も一切なかったと思う。そこにあったのは、純粋で、狂気すら感じるほどの熱い『好意』と『賛辞』
正直、ほとんど理解できない。
「……ずっと見ていたい、ですか」
あの言葉を思い出し、シードは眼鏡の位置を直した。
仕事を終えれば次の書類が来る。間違いなく処理できればそれでいいし、わざわざ一つ一つを褒められるようなものだと思ったこともなかった。
けれど、あの少女は違った。
自分が書類を処理している姿そのものを、本当に楽しそうに見ていた。
シードは包みを開き、小さなクッキーを一つ手に取った。一口食べると優しい甘さが広がり、仕事で消耗していた身体へ少しずつ力が戻ってくる。
「……これ、普通のクッキーではありませんね」
侯爵令嬢にとっては、これもただの差し入れなのだろうか。
分からない。
今日会った少女については、分からないことばかりだった。それでもシードは次の書類を手に取る前に、一度だけ閉じた扉へ目を向けた。
『椅子が完成したら、また持って参りますわね!』
本当に、また来るのだろうか。
「……リリアーナ・ヴァン・アドラー」
確かめるようにその名前を口にしてから、シードは仕事へ戻った。




