第13話 退屈な王子、興味を持つ
王宮の二階、陽の差し込む静かな廊下。
ルイス・フォン・グランヴェールは、帝王学の家庭教師から解放されたばかりの身体を静かに揺らしながら歩いていた。
「……ルイス殿下、本日の講義はいかがでしたか?」
背後に控える若き侍従が、恐る恐る声をかけてくる。
「別に。いつも通りだ」
ルイスは前を向いたまま短く答えた。
第一王子として生まれ、幼い頃からあらゆる英才教育を施されてきた。歴史、軍事、領地経営、外交——どれも一度教われば理解できるものばかりで、教師たちが「十歳とは思えぬ神童」と称える声すら、今のルイスには退屈な雑音にしか聞こえなかった。
ルイスが真にうんざりしていたのは、知識の難しさではなく、周囲の大人の「目」だった。
王宮で出会う貴族や臣下たちは、誰もがルイスへおもねり、顔色を窺い、計算された微笑みを向けてくる。
己の利益のために媚びを売る大人たちの本音透けて見える世界に、ルイスは密かな冷めていた。
(どいつもこいつも、僕の『立場』しか見ていない……)
だからこそ、彼は父王に頼み込み、身分を隠して王宮内を自由に「職場見学」する許可を得ていた。
胸元には王族の紋章章ではなく、名もなき下級貴族風の簡素なブローチを刺している。
「殿下、本日はどちらへ?」
「……ただの散歩だ」
ルイスは吹き抜けの回廊に歩み寄り、手すりに手をかけた。
吹き抜けからは、王宮の一階、そしてその奥にある「地下へと続く階段」が見下ろせる。
王宮の地下——そこは日が当たらず、大量の文書整理や計算作業に追われる文官たちが詰める、泥臭い執務空間だ。
華やかな貴族たちからは嫌気され、誰も好んで近づこうとはしない場所。
だが、ルイスの鋭い青い瞳は、その階段を優雅に降りていく一人の少女の姿を捉えた。
「……あれは、どこの令嬢だ?」
「は……? ああ、あの方ですか。アドラー侯爵家の令嬢、リリアーナ様でございます。最近、頻繁に地下の執務室へお越しになっているとか」
侍従の言葉に、ルイスは微かに眉をひそめた。
(アドラー侯爵家の令嬢……僕と同い年のはずだ)
アドラー侯爵家といえば、王国でも屈指の名門。
その令嬢が、なぜわざわざ暗い地下へ出入りしているのか。
興味を惹かれたルイスは、足音を忍ばせ、吹き抜けの陰から地下執務室の開かれたドアの奥をじっと観察することにした。
重い木製ドアの先、第三文官執務室。
そこには、青ざめた顔で書類の山と格闘する文官たちの姿があった。
中でも奥のデスクに座る一人の青年——シード・ヴァルカの手元は圧巻だった。
ペン先が紙の上を滑るように動き、一切の無駄なく書類を処理していく。
(……あの男、見事な手際だ)
ルイスが心の中で評価を下した、その時だった。
「皆様、ご機嫌よう」
可憐な鈴の鳴るような声とともに、リリアーナが部屋へ足を踏み入れた。
侍女が抱えていた木箱が開かれる。
中には丁寧に梱包された焼き菓子が並んでいた。
「本日もお仕事、お疲れ様ですわ。どうぞ皆様でお使いくださいね」
リリアーナは、文官たち一人ひとりの目を真っ直ぐに見つめ、柔らかな笑顔で言葉をかけていく。
暗く殺風景だった執務室の空気は、彼女が微笑むたびに、まるで春の陽光が差し込んだかのように温かく、柔らかく変わっていった。
文官たちの疲弊しきった顔に、見る見るうちに安らぎと活気が戻っていく。
ルイスはその光景から、一時も目を離すことができなかった。
(……取り入ろうとする打算が、欠片もないように見えるが)
王宮で出会う大人たちの笑顔には、必ず何らかの計算があった。
だが、あの同い年の令嬢の笑顔にあるのは、純粋な敬意と、頑張る者への真摯な労いだけだ。
暗い地下で泥臭く働く文官たちを「尊い労働者」として心から慈しんでいる。
(地下を敬い、自ら足を運ぶ令嬢……。そんな人間、今まで一度も見たことがない)
最後に、彼女がシード・キャメロンの元へ歩み寄り、とびきり華やかな笑みを咲かせたのを見て、ルイスはすっと青い瞳を細めた。
(ふん……あの文官には、特に嬉しそうな顔をするんだな)
恐縮している優秀な文官と、心底楽しそうに言葉を交わす可憐な令嬢。
「……不思議な人だ」
ぽつりと漏れた小さな呟きは、誰の耳にも届くことなく回廊の風に消えた。
(アドラー侯爵令嬢、リリアーナ)
冷め切っていたルイスの胸の中に、小さな、けれど確かな好奇心の火が灯る。
(どんな人なのか……一度、直接話してみたい)
身分を隠した幼き第一王子は、静かにその場を後にした。
数日後、彼女に「迷子」と勘違いされて声をかけられることになるとは、まだ知る由もなく。




