第11話 指先、ひとそれぞれ
その夜、アドラー侯爵邸の自室で、リリアーナはベッドの上で悶々と枕を抱きしめていた。
「……シード様の、あの指先……」
目を閉じれば、先日訪れた王宮での光景が鮮明に蘇る。
『第三文官執務室』で、無表情に、しかし見事な手際で書類をめくっていたシード・キャメロン。
スッ……スッ……という静かな音。無駄のないしなやかな指の動き。
(シード様は右手で紙を挟み、左手でそっと押さえていらっしゃったわ……。何十枚……いいえ、一日に何百枚もの紙にあの指先が触れているの!?)
ふと、自分の手元を見る。
先日、本のページを急いでめくった時に作った、親指の小さな切創。ほんの小さな傷だが、地味に痛く、数日はペンを握るのも億劫だった。
リリアーナは跳ね起きた。
(もし……もしもシード様が、あの宝石より美しいお指を紙で切ってしまわれたらどうするの!? 痛い思いをされるのも嫌だし、お仕事に支障が出たらシード様がご自身を責めてしまわれるわ!!)
想像しただけで胸が押し潰されそうになる。
心配で夜も眠れなくなったリリアーナは、翌朝、朝食が終わるやいなや家庭教師のマダム・ヴァレンティノのもとへ突撃したのだった。
「マダム! 王宮で使われている紙って、どこで手に入りますの!?」
「……はい? 王宮の紙、でございますか?」
マダムはティーカップを浮かせたまま目を丸くした。髪を少し乱した令嬢が、息を切らせて迫ってきたからだ。
「ええ! シード様……いえ、文官の方々が触れている紙と同じものを触ってみたいのです! あの指先が切れてしまわないか心配で……!」
「お、落ち着きなさい、お嬢様。王宮の公文書は 侯爵邸といえど簡単には手に入りませんよ」
絶望的な顔をするリリアーナに、マダムは溜め息をつき、部屋の隅にある古い資料箱を漁り始めた。
「古い資料用紙なら、数枚残っています。仕様はほぼ同じはずですが……」
「マダム! 好き!!」
「まあまあ……」
差し出された黄ばんだ紙を、リリアーナは両手で恭しく受け取った。
机の上に紙を広げると、リリアーナはしゃがみ込み、じっと紙を見つめた。
まずは、おずおずと人差し指の腹で紙の端をなでる。
さらりとした触感。
「むむ……」
今度は親指と人差し指で紙を挟み、シードのめくり方を再現しようとした。
すり、と滑らせる。だが、うまく引っかからず、カサッと頼りない音がしただけだった。
「……もう一度」
角度を変える。押し付ける力を少し強くする。
スッ。
小さく良い音が鳴った。
「マダム! 痛くありませんわ! 強く擦っても指が切れません!」
「それはようございましたね」
マダムは困惑しながらも頷く。
リリアーナは手持ちの数枚の紙を重ね、シードが見せていたあの洗練された手際を再現しようと、素早く連続でめくり始めた。
スススッ——バサッ。
勢い余って紙が手から滑り落ち、床に散らばる。
「あ……」
「お嬢様、お怪我はありませんか?」
「……大丈夫ですわ! もう一回!」
リリアーナは床に這いつくばり、紙を拾い集めた。
今度は一枚一枚の端を慎重に指で確かめる。擦り傷ひとつできていない。
「……よかった」
床に座り込んだまま、散らばった紙を見つめて胸を撫でおろす。
「これなら……」
シードの指が無事であること。ただそれだけのために、リリアーナの顔にほっとした笑みが広がった。
「お嬢様、散らかった紙をお片付けいたしますね」
そこへ、トレイを持った侍女のマリーが歩み寄り、膝をついて紙を拾い集め始めた。
「あ、ありがとうマリー」
リリアーナは手伝おうとして——ふと、紙を拾うマリーの「右手」に目が留まった。
指先が少し赤く、皮が硬くなっている。
毎日、冷たい水で雑巾を絞り、屋敷中を磨き上げている手だ。
「……マリー」
「はい、お嬢様?」
「その手……痛くないの?」
「えっ……?」
マリーは驚いたように瞬きをし、それから苦笑した。
「侍女の手など、みんなこのようなものですから」
そう言うと、マリーは手元を隠すようにエプロンの後ろへ引き、散らばった紙を綺麗に揃えて机に置いた。
そして丁寧にお辞儀をして、静かに部屋を出て行った。
パタン。
扉が閉まる。
リリアーナは、手元にある滑らかで指を傷つけない紙に視線を落とした。
「……」
リリアーナは何も言わず、そのまま紙を丁寧に箱へしまった。
♢
一方、王宮『第三文官執務室』。
カリカリ……カリカリ……。
シード・キャメロンは、淡々と手元の書類に万年筆を滑らせていた。
……ふと。
作業の合間、シードの視線がそっとデスクの端へ向いた。
そこには昨夜、たった一滴のインクだけを落としてしまった便箋が置かれている。
書こうとして、結局何も書けなかった一枚。
ほんの一瞬だけ、万年筆を走らせる手が止まる。
「……キャメロン?」
隣のデスクの室長が、書類の山の上から顔を上げた。
「何か気になるものでもあるのか?」
「……いえ。何もありません」
シードは表情ひとつ変えずに答え、再び手元の用紙にペン先を落とした。
カリカリ……。
スッ……。
カリカリ……。
「……変なやつだ」
室長は小さく呟き、そのまま自分の書類へ視線を戻した。




