65 王子様と喧嘩
公園で遠藤と別れた後、俺は重い足取りで華との待ち合わせ場所であるカフェへ向かった。
「好きだからこそ、別れを選んだ」という遠藤の言葉が、耳の奥で何度も頭に流れてくる。
冬の冷たい風が、余計に胸のざわつきを煽っていた。
◇ ◇ ◇
「改めて今日は、一緒に帰れなくてごめん。遠藤に付き合ってたんだ」
席に着くなり、俺がそう切り出すと、華は少し心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
「遠藤くん、大丈夫だったの? 1週間も休んでたし……」
「いや……遠藤たち、別れることになったらしい」
俺の言葉に、華は言葉を失ったように目を見開いた。
2人の破局は、彼女にとっても他人事ではなかったのだろう。
「理由……聞いてもいいのかしら?」
「お互い冷めちゃったんだって。学校が離れて、なかなか会うこともできなくなって……。あいつ、バスケばっかりだから」
「……そうなのね」
テーブルの上に、重苦しい沈黙が広がる。先ほど公園で感じたあの冷たい感覚が、カフェの暖房の中でも消えない。
「難しいよね、環境が変わるって。所詮は高校生の恋愛、なんて言われればそれまでなのかもしれないし……」
「そうかもね。でも……私たちは大丈夫よ。これからも、ずっと一緒にいましょう?」
幸せそうに、祈るように微笑む華。
だが、その純粋な笑顔が、今の卑屈になっている俺には痛すぎた。
あと2か月もしないうちに、俺たちは「大学生」と「高校生」という、決定的な壁に直面する。
金銭面、時間、これから生まれるであろう「差」が、黒い霧のように俺の視界を覆う。
俺が受験勉強に追われて余裕をなくしている間、彼女を1人にしてしまう。
それならば、彼女の隣にいるのが俺である必要はないんじゃないか。
遠藤の喪失感に当てられた俺の思考は、最悪な形で口から溢れ出た。
「……でも、華。大学に行ったら、俺なんかよりずっといい人と出会うかもしれないよ?」
言ってしまった。一度放たれた言葉は、もう二度と飲み込むことはできない。
「は?」
その一瞬で、世界から音が消えたような感覚になった。
華の顔から一切の温度が消え、射抜くような冷徹な視線が俺を縫い止める。
「……どういうこと? ちゃんと説明して、大地」
「いや、その……。華は大学生になって、バイトとかサークルを始めたりするだろ? そこで、もっと世界が広がると思うんだ。俺みたいな『高校生のお遊びの付き合い』じゃなくて、もっと大人な、ちゃんとした付き合いができる人が現れるはずだ。だから、もしそうなったら――」
「別れてもいい、ってこと?」
「……っ」
声が出ない。
俺の沈黙を最悪の答えとして受け取ったのか、華の瞳に絶望が混じり、肩が激しく震え始める。
「そうなのね……。私だけが、こんなに必死だったのね。私だけが1人で、勝手に運命だなんて思い込んで……。お遊びの付き合い……。私は、結婚とか、将来のことまで本気で考えて……馬鹿みたいね」
「違うんだ、華。俺はただ、華に幸せになってほしくて……!」
「私の幸せは、大地が隣にいてくれることなのよ! なぜそれを、あなたが否定するの!?」
華の叫びが、静まり返ったカフェに突き刺さる。
「……もういいわ」
溢れそうになる涙を堪え、華は乱暴にバッグを掴んで立ち上がった。
すぐに追いかけなければならない。そう頭では分かっているのに、足が床に張り付いたように動かない。
自分の情けなさに縛られて、俺は彼女の背中を見送ることしかできなかった。
これでいいはずがない。だが、今の俺には、彼女を繋ぎ止めるための正解がわからなかった。
俺がようやく席を立ったのは、華が出て行ってから1時間ほど経った後だった。
お店を出るとちょうどよく、スマホに電話の着信があった。
ディスプレイには『青葉』の文字。
嫌な予感がしながらも、俺は通話ボタンを押した。
「……もしもし」
「大地先輩! 何やったんですか!!!」
受話器の向こうから、耳をつんざくような怒号が響いた。
普段は明るく、怒りとは無縁そうな青葉が、聞いたこともないような険しい声を上げている。
「え、なに?」
「白鷺さんが泣きながら歩いてるって、今、学年のチャットで話題になってますよ! みんな心配して大騒ぎです!」
「あ……そ、そうなんだ」
「まさか、遠藤先輩の件にダメな方で感化されて、別れ話でもしたんですか!?」
「……」
図星を突かれ、何も言えずに固まってしまう。
「は!? なんでですか! あんなにラブラブで、どこでもいちゃついていたのに!」
「別れ話ではないけど……怒らせちゃって」
「なんですぐに追いかけなかったんですか! すぐに謝れば済んだかもしれないのに――」
「……俺にはできないよ。本当は、自信がないんだ」
「え?」
「俺も遠藤みたいに不安なんだよ。華は大学に行くのに、俺はそのための勉強期間になる。その間に、俺よりいい人と出会うかもしれない。そう思ったら……怖くなったんだ」
遠藤の話を聞いて改めて実感したのもそうだが、予感は前からずっとあった。
修学旅行の時、クリスマス……
ふとした瞬間に、俺の心には小さな棘が刺さっていた。
大人になれば1、2歳差の年齢差なんて関係ないものかもしれない。
だが、今の俺たちにとっての「1年」はあまりにも大きい。
彼女がサークルや合コン、新しい友人関係という未知の世界へ飛び込んでいく。
その間俺は1人で暗い部屋に籠もり、参考書と格闘する日々を送ることになる。
――その「差」に耐えられるほど、俺は強くない。
「そんな理由で、あの白鷺さんが他の男にフラフラ付いていくと思っているんですか? 失礼ですよ。先輩を信じて隣に居続けてくれた彼女にも……それを軽い言葉で片付けようとした自分自身にも」
「……わかってる。わかってるんだよ、そんなこと」
「わかってないから、白鷺さんはあんなに泣いてるんです! ……もういいです」
ブツリ、と一方的に通話が切れた。
言ってしまったことに後悔はあるし、申し訳ない気持ちもある。
取り返しのつかないことをしたという恐怖で、指先が冷たく震えている。
それでも、この卑屈な思いを抱えたまま、これまで通りに笑い合っていけるとも思えなかった。
華と出会ってこの一年で変われたと思う。
自分のやりたいこと、したいことにも気づけた気がする。
でも俺はまた同じ過ちを繰り返し、幸せを手放そうとしてしまった。
和香と付き合ってた時のように――
ふと、カバンの中に手を入れると、指先に分厚い紙の感触が触れた。
数時間前、華と一緒に笑いながら眺めていた、箱根のカタログギフト。
3月の卒業旅行。2月6日の誕生日。
彼女が懸命に紡ごうとしていた未来を、俺はこの手で粉々に砕いてしまった。
俺はただ、逃げるように暗い夜道へと消えていった。




