26 王子様と看病
白鷺さんと過ごした、あの『買い物デート』のような一日から数日。
俺は母さんの実家がある浜松への帰省を終え、東京へ戻る新幹線の車中にいた。
浜松駅で乗り込んだ新幹線の網棚には、みんなへのお土産が並んでいる。
窓の外を流れる景色を眺めながら、俺の心はまだ、あの日に買った青いマグカップのことに囚われていた。
(……あのカップ、もう使ってくれたかな)
そんな他愛もないことを考えながら、隣でスマホの動画を見ていた千代と笑い合っていた、その時だった。
母さんのスマホが、静かな車内に不釣り合いな音を立てて鳴り響いた。
「ごめん、2人とも。電話だわ、少し外してくるわね」
母さんは急いだ様子で席を立ち、デッキの方へと走っていった。
浜松を出てからまだ間もない。
旅行中に仕事の電話を長く受けるような人ではないはずだ。
「ママ、お電話だって。なんだろうね?」
イヤホンを片方外した千代が、不思議そうに俺の顔を覗き込んできた。俺は彼女の小さな頭を優しく撫で、不安を隠すように答える。
「うーん、なんだろうね。お仕事の用事かもしれないから、少し待ってようか」
数分後、戻ってきた母さんの顔は、先ほどまでの穏やかさが嘘のように険しく強張っていた。
「……母さん、何かあったの?」
思わず尋ねると、母さんは躊躇うように一度唇を噛み、声を潜めて話し始めた。
「幼稚園から……白鷺さんが、倒れちゃったんですって」
「えっ……!?」
耳を疑った。
学校では無遅刻無欠席。
常に凛としていて、弱さなんて微塵も見せないあの白鷺さんが、倒れた?
「熱がかなり高いみたいで……。たくま君のお迎えに行けなくなっちゃったそうなのよ」
「……そんな」
「大地。あなたは駅に着いたらそのまま白鷺さんのお見舞いに行ってあげなさい。たくま君のお迎えは、私と千代で行くから」
急いで向かった白鷺先輩の家は、俺のマンションから徒歩5分ほどの距離にある団地の一室だった。
エレベーターで6階まで上がり、『白鷺』と書かれた名札を確認してインターホンを押す。
ドタドタと慌ただしい足音が響いた後、ゆっくりと開いたドアの向こうには、今にも消えてしまいそうなほど顔色の悪い彼女が立っていた。
「白鷺さん、体調大丈夫ですか」
「上原君……? きてくれたの……?」
俺の姿を認めた瞬間、張り詰めていた糸が切れたのだろう。彼女は安心したように瞳を揺らすと、そのまま力なく膝から崩れ落ちそうになった。
「おっと、危ない!」
咄嗟に手を伸ばし、彼女の細い肩を抱き寄せる。
制服越しでも伝わってくるその熱さは、尋常ではなかった。
俺は腕を彼女の肩に回して支え、そのまま寝室のベッドまで慎重に運び入れた。
「いつから体調が悪かったんですか?」
「昨日から、少し喉が痛くて……今日は体がだるいの……」
彼女は途切れ途切れに、時折咳き込みながら答えた。
普段の凛々しさは影を潜め、布団にくるまる姿はひどく小さく見える。
俺は「失礼します」と断りを入れてから、彼女の熱いおでこにそっと手を伸ばした。
(……熱い。自分の体温より明らかに高いな)
「先輩、無理に起きようとしないで寝ていてください。キッチン、借りてもいいですか?」
「いいけれど、悪いわよ……。私が、自分でやるから……」
「そんな状況の先輩に任せられるわけないじゃないですか。こういう時くらい、俺に甘えてください」
そう強く告げると、彼女は驚いたように目を見開いた後、恥ずかしそうに布団で口元を隠して「……わかったわ」と小さく呟いた。
台所に立ち、喉に優しいお粥を作り始める。
食器を洗っていると、静かな部屋にスマホの着信音が響いた。母さんからだった。
「お兄ちゃん! お姉ちゃんがっ……!」
「たくま君か。大丈夫だよ、今お姉ちゃんのところでお粥を作ってるからね」
電話の向こうではたくま君が泣きそうな声を上げていたが、俺がそばにいると知って安心したようだ。
その後、電話を代わった母さんから「白鷺さんの体調が戻るまで、たくま君はうちに泊まらせる」という提案を受けた。
最初は申し訳ないと断っていた白鷺先輩だったが、母さんの粘り強い説得に最後は折れ、たくま君を預けることを承諾した。
「……ごめんなさい、上原君。あなたのご家族にまで、迷惑をかけてしまって」
「誰も迷惑なんて思ってませんよ。さて、お粥ができました。少しだけでも食べられそうですか?」
俺がトレイを運んでいくと、白鷺先輩はゆっくりと体を起こした。
食事の邪魔にならないよう少し視線を外していた。
(……なんて、殺風景な部屋なんだ)
正直、部屋に入った時、そんな印象を抱いた。
そこにあるのは、生活に必要な最低限の家具と実用的な品々だけ。彼女が小さく呟いた。
「……何もないわよね、この部屋」
「い、いや、そんなことは……」
「いいのよ、わかっているから」
先輩は俯き、お粥を一口ずつ、噛みしめるように飲み込んでいく。
「正直……あなたの家にお邪魔した時、羨ましかったわ。家族との写真や、温かい思い出に溢れていて」
彼女はうちに来たとき、寂しそうな顔をしていたのだ。
「……うちは、両親がいないのよ」
予感はしていた。
けれど、直接本人から告げられる言葉はあまりに重い。
部屋の様子から察するに、死別ではなく――もっと残酷な理由なのだと直感した。
「――父親は不倫をして、他の女と出て行ったわ。母は……残された私たちに父親の面影を感じるのが嫌になって、私たちを捨てたの」
「そ、そんな……っ」
お粥を数口だけ口に運んだ後、白鷺先輩は力なく枕に頭を沈めた。
熱に浮かされた瞳が、天井のどこか遠くを見つめている。
「……私にとって、たくまは唯一の家族なの。だから、私がたくまを守らなきゃいけないの。あの子が他の子と比べて、寂しい思いをしたり……不自由な思いをしたりしないように……っ」
言い終わる前に、彼女の端正な顔が歪んだ。瞳から大粒の涙が溢れ出し、シーツに点々と染みを作っていく。
「ごめんなさい……。同情してほしくて、こんな話を……したわけじゃ……っ」
弱り切った体で、それでもなお気丈に振る舞おうとするその姿勢に、俺の胸は締め付けられるような痛みを覚えた。
俺は言葉を探した。
けれど、どんな慰めも今の彼女には軽すぎる気がした。
だから、今はただ、彼女が握りしめていた布団の上に、そっと自分の手を重ねた。
「先輩。同情なんてしてません。……これからは、俺がいます。俺にできることなら、なんだってしますよ」
彼女が驚いたように、濡れた睫毛を揺らして顔を上げた。
「いつだって俺に甘えてください。迷惑じゃありません。」
「先輩の好きなハンバーグだって何回も作ってあげます。」
「なにかして欲しいことがあったら気軽に頼んでください、できる範囲のことはやりますから」
「うちにくれば千代も母さんもいるんでいつでも来ていいです」
「何か愚痴があればこうやって聞きますし」
「ですから先輩は――『悪い』なんて言わないでください。あなたは誰よりもう十分に頑張っているじゃないですか」
彼女の瞳がさらに大きく潤んだ。
「……私、頑張ってる……?」
「勿論です。生徒会の仕事も、たくま君のことも、俺はずっと見てきました。先輩がどれだけ一生懸命か、知っています」
「私……誰かに、甘えてもいいのかな……?」
消え入りそうな声で、彼女は問いかけてくる。
「当たり前です。俺や母さんだっているんです。とことん甘えてください」
「……上原君……。私……あなたが生徒会に入ってきた時、あんなに冷たくしたのに……。どうして、そんなに優しくしてくれるの……?」
「それは……放っておけなかったからです」
「私のこと……迷惑じゃない?嫌じゃない?」
「迷惑でも嫌でもないです。白鷺さんに頼られるなんて嬉しいですよ」
今度は拒むことなく、俺が重ねた手の上に彼女自身の指をそっと絡めてきた。熱のせいだけではない、確かな温もりがそこにはあった。
「ありがとう大地」
初めて名前で呼ばれた衝撃が、心臓を跳ねさせる。
彼女はそのまま、安心したようにゆっくりと瞳を閉じた。
寝息が聞こえ始めるまで、俺はその熱い手を、決して離さなかった。
いつも凛として、皆の憧れを背負っていた『王子様』の正体。
それは、誰にも頼れず、たった一人で幼い弟を守り、空っぽの部屋で震えていた一人の少女だった。




