21 王子様への料理教室
夏休みに入っても、俺のやることは正直なところあまり変わらない。
妹の千代を連れて近所の公園へ遊びに行ったり、母さんに頼まれた買い出しを済ませたりといった、賑やかな日常が続いていた。
ただ一つ、明確な変化があった。
それは、白鷺さんとのチャットの頻度が劇的に増えたことだ。
内容は、今日の夕飯の献立や、たくま君が幼稚園で描いた絵の報告、あるいは「どこどこの公園が涼しかった」といった、本当に他愛もないことばかり。
あのファミレスの夜以来、彼女は自分の中にあった「お喋り」な部分を、少しずつ俺にだけ見せてくれるようになっていた。
そんなある日、スマホの通知がいつもとは少し違う響きを帯びた。
『料理を教えてもらいたいと思っているのだけれど、いつなら空いているかしら?』
そういえば一度料理を教えるといった気がする。
俺は少し驚きつつも、どこか嬉しさを感じながら返信を打った。
「いつでもいいですよ。……今日とかでも」
半分は冗談のつもりだった。だが、既読はすぐに付き、間を置かずに返信が返ってくる。
『わかったわ。なら、今からあなたの家へ行くわね』
お昼前には玄関のチャイムが鳴った。
ドアを開けると、そこにはスーパーの大きなポリ袋を両手に携えた白鷺さんが立っていた。
何度か家に来ているせいか、彼女の立ち姿からは以前のような緊張感は消え、どこか馴染んだ様子さえ伺える。
それにしても、だ。
学校であの「王子様」と崇められている人が、スーパーの特売品が詰まった袋を抱えてうちの玄関に立っている。
そのギャップには、いまだに脳が追いつかない。
「……白鷺さん、早かったですね。たくま君は?」
「今日は幼稚園にお願いしているわ。……少し、急ぎすぎたかしら」
「いえ、大丈夫ですよ。うちも幼稚園ですし、ゆっくりできます」
夏休み中、共働きの家庭のために幼稚園が行っている預かり保育。
母さんがいないのも、保育士としてその現場に出向いているからだ。
千代もたくま君達がいるからと今日は幼稚園にいっていた。
白鷺さんをキッチンへ招き入れる。
彼女が買ってきた袋の中を覗くと、豚の塊肉や卵、パン粉といった食材が丁寧に詰められていた。
「それじゃあ、始めましょうか」
白鷺さんは用意してきた、少し控えめなフリルのついたエプロンを身に纏った。
俺も自分のエプロンを締め、彼女の隣に並んだ。
「それで……今日は何から作りたいんですか?」
「……とんかつの作り方を、教えてほしいの」
「とんかつ、ですか? なかなか難易度が高いですね。どうしてまた」
「たくまの好物なのよ。……もうすぐあの子の誕生日だから、その時に、私の手で作ったものを振る舞ってあげたいの」
少し照れくさそうに、けれど決意を秘めた目で彼女は言った。
調理工程そのものはシンプルだが、火加減や衣の付け方など、初心者が揚げ物に挑戦するのは決して容易ではない。
けれど、「たくま君のために」という彼女の切実な思いを知り、俺の中に「教える」以上の使命感が芽生えた。
「わかりました。……たくま君がびっくりするくらい美味しいとんかつ、作れるよう練習しましょう」
俺が言うと、白鷺さんは安心したように、けれどどこか嬉しそうに「ええ、よろしく頼むわ」と微笑んだ。
「まずは、お肉の下処理から始めましょうか。筋を切っておかないと、揚げた時に反り返っちゃうんです」
俺が手本を見せると、白鷺さんは食い入るようにその手元を見つめていた。
「……こうかしら?」
彼女は慣れない手つきで包丁を握り、慎重に刃を入れていく。
その指先が少し震えているのがわかった。
「そうです、上手いですよ。次は叩いて伸ばします。……あ、白鷺さん、そんなに力任せに叩かなくても大丈夫です」
「……ごめんなさい。つい、気合が入りすぎてしまったわ」
彼女は少しだけ頬を赤らめ、肉叩きを置いた。
工程は進み、いよいよ衣付けの段階に入る。
小麦粉、卵、パン粉。
その順番を間違えないよう、彼女は一つひとつの動作を確認しながら進めていく。
「上原君、次は……揚げるのね」
パチパチと音を立て始める油を前に、白鷺さんがゴクリと喉を鳴らした。
「火加減が大事です。170度くらい……箸を先に入れた時に、細かい泡が上がってくるくらいが目安ですね」
「……やってみるわ」
彼女が慎重に肉を投入する。
じゅわっという威勢のいい音とともに、香ばしい匂いが一気にキッチンに広がった。
キツネ色に揚がったとんかつを網に上げる。
サクッ、という心地よい音がキッチンに響いた。
「よし、一つ試食してみましょうか」
俺が一口サイズに切り分けると、白鷺さんは期待と不安が混ざったような顔でそれを口に運んだ。
咀嚼し、飲み込む。その間、俺はなぜか自分の料理を評価される時以上に緊張していた。
「……美味しい」
ぽつりと、彼女の口から感嘆の声が漏れた。
「よかった。これならたくま君もきっと喜びますよ」
「……そうかしら。喜んでくれるかしら」
「当たり前ですよ。たくま君も、一生懸命作ってくれたこと、ちゃんとわかってくれますよ」
俺がそう言うと、白鷺さんは少しだけ目尻を下げ、本当に嬉しそうに微笑んだ。
そうしてテーブルにつき少し遅めの昼飯を2人で囲った。
「そういえばたくま君の誕生日はいつなんですか?」
「8月28日よ。……もしよかったら千代ちゃんやお母様と一緒に来てくれないかしら?」
「いいんですか是非お祝いさせてください!」
「ありがとう。いつも誕生日は2人での、静かなお祝いだったから……。たくまも、きっと喜ぶと思うわ」
そう言った彼女の横顔には、喜びの中に、どこか隠しきれない寂しさが混じっているように見えた。
「「ごちそうさまでした」」
二人分の空いた皿を片付け、一息つく。
「白鷺さん、食後のデザートにケーキを買ってきたんです。一緒に食べましょう」
「え……? わざわざ買ってきてくれたの?」
「たくま君と千代には内緒です。2人だけでこっそり食べましょう。今準備しますね」
彼女をダイニングチェアに促し、俺はキッチンへと戻る。
ティーポットにお湯を注ぎ、茶葉がゆっくりと開くのを待つ。
カップと、皿に切り分けたベイクドチーズケーキを盆に乗せて、彼女の前に置いた。
「どうぞ。お口に合うといいんですが」
「……」
白鷺さんは、目の前のチーズケーキと俺の顔を交互に二度見して、そのまま固まってしまった。何か失礼なことでもしただろうか。
「……白鷺さん?」
「上原君。1つ、聞いてもいいかしら」
「はい、なんですか?」
「私、チーズケーキと紅茶が好きなんて、あなたに一度も言ったことはなかったと思うのだけれど……。いつ、教えたっけ?」
言われてみればそうだ。
彼女の口から直接好みを詳しく聞いた記憶はない。
「?この前のファミレスでメニューを見ていた時、チーズケーキのページで少しだけ視線が止まっていた気がしたので。あと、生徒会室でもよく紅茶を飲まれているのを目にしていたので、きっと好きなんだろうな、と」
「……視線が、止まっていた?」
「はい。違いましたか?」
俺が首を傾げると、白鷺さんは呆然とした様子で、そのままゆっくりと両手で顔を覆い、テーブルに突っ伏してしまった。
「……白鷺さん!? 大丈夫ですか、どこか具合でも——」
こもった声が、彼女の指の隙間から漏れる。
「相変わらずね、あなたは……。あなたといると調子が狂うわ」
「え!? 俺、何か変なことしちゃいました……?」
慌てて聞き返す俺に、彼女は少しだけ視線を逸らし、困ったように眉を下げた。
「……人を甘やかすのも、大概になさい」
「甘やかす? ただ、先輩の好きそうなものを選んだだけで」
「それが『甘やかしている』と言っているのよ。……無自覚なのが一番たちが悪いわね」
彼女はそれ以上何も言わず、差し出された紅茶を一口飲み、小さく息をついた。
温かな湯気が、彼女の少し上気した頬を優しく包み込む。
そのまま少しだけ沈黙が流れたが、それは決して気まずいものではなく、どこか心地よい余韻のようなものだった。
「……そうだ上原君、今週の予定は空いているかしら?」
カップを置いた彼女が、ふと思い出したように俺を見た。
「今週、ですか? 水曜日と土曜日は少し用事が入っていますけど、それ以外なら空いてますよ」
水曜日は練習、そして土曜日はついに本番。例のストバス大会に向けて、後輩の桐原たちと汗を流す約束をしていた。
「なら、日曜日……。一緒に買い物に付き合ってくれないかしら。たくまのプレゼントを選びたいのだけれど、あの子が何を喜ぶか、相談したくて」
「買い物、ですか。いいですよ、ぜひ。あ、それなら日曜日も母さんが家にいますし、たくま君をうちに預けていけば、ゆっくり選べると思います。土曜日も俺は不在ですけど、千代と遊ぶためにたくま君が来る予定になってますし」
「……そう。それなら、たくまのこと、お母様にお願いしてもいいかしら」
「はい、もちろんです」
彼女が素直に「お願い」と口にしたことに、俺は小さく驚き、それから温かいものが胸に広がった。
今、こうして俺や母さんに頼り、弱みや悩みを分かち合おうとしてくれている。
それは、彼女が俺を、単なる後輩以上の「信頼できる相手」として認めてくれた証拠のように思えて、たまらなく嬉しかった。




