断章 『彼女』
「どういうことなんだ?」
「……」
兄さんの部屋を出ると、天川さんが訊ねてくる。
私はそれに返事をせず、居間へと戻る。
それが、着いてくることを示していると気づいてくれた天川さんは、私の後ろを歩く。
居間の扉を閉めて、テーブルの席に着いて、天川さんは私の対面に座る。
そこで私は口を開いた。
「初めてじゃないんですよ、これは」
「なに?」
そう、初めてじゃない。
兄さんが、記憶を失ったのは。
「昔、まだ私たちが七歳とか、そのくらいのことです」
今でも覚えている。
あのときの光景を。
たぶん、私は一生その光景を忘れることはできない。
「兄さんは、事故に遭ったんです」
「事故?」
「はい」
頷いて肯定を示す。
「と言っても、兄さん自身が事故に遭ったわけではありません」
兄さんは傷ひとつない状態だった。
だけどそれは、外見だけだった。
あのとき、兄さんは確かに、壊れた。
「事故に遭ったのは、私たちと同い年の女の子でした。兄さんはその女の子と出かけていて、私は二人を追って、家を出ました」
そして、見つけた。
二人の姿を。
「血まみれの女の子を抱きかかえる兄さんが、そこにはいました。泣くわけでもなく、喚くわけでもなく。ただ、茫然と女の子を抱きかかえるだけでした」
でも、本当はそれだけじゃなかった。
兄さんは、確かに傷を負っていた。
「女の子は、助かりませんでした。救急車に運ばれたときにはもう、絶命していて。そして、兄さんはその場で意識を失って、倒れて、病院に運ばれました」
そして、と。
「目が覚めた兄さんは、覚えていませんでした。その日、なにがあったのかだけではなく、事故で亡くなった女の子のことも、すべて忘れていました」
「それは……精神的なものなのか?」
「お医者様の話では、事故のショックだろう、ということでした」
今回のことも、きっとそれが関係している。
だって、あのときと似たような状況にあるのだから。
『あの女の子』が亡くなって、兄さんは一度壊れた。
『アリーシアさん』に対する不安を覚えて、兄さんは壊れかけている。
そこに共通するのはただひとつ。
――兄さんが、『彼女』を愛しているということ――




