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86 もう……なんで録っておかなかったのよ



扉の向こうで、ハルコは両手でカートを支えていた。


ティーポットから、お茶の湯気が立ちのぼっていた。ピザは、箱の中でまだ温かかった。七十五階の廊下で聞こえるのは、遠くの照明のかすかな音と、いつもより少し速い自分の呼吸だけだった。


ハルコは、木に彫られた龍たちを見つめた。鱗のあいだには、シンボルが刻まれていた。この龍たちは、いつも自分を見ているような気がしていた。


ハルコは、つばを飲みこんだ。


「あ、あなたね」


中から、サリコの声が聞こえた。


「うん、入って」


ハルコは扉を開け、カートを押しながら中へ入った。


中では、午後の光が机の上に落ち、浮遊する球体が、磁石で生まれた電気のような、あの妙な低い音を立て続けていた。ハルコは、みんなを見た。それから、机の上に散らばった書類を見た。


その瞬間、何かを邪魔してしまった気がした。


(あれ、なんだかタイミングが悪かったみたい)


ハルコは思った。


(どうして、みんな必要以上にわたしを見てる気がするんだろう?)


「こんにちは、ハルコ。元気?」


カートを押してくるハルコを見ながら、サリコが言った。


いつもと同じ明るさで話しかけてくれるサリコの声を聞いて、ハルコは少し気が楽になった。


「元気だよ、サリコさん。聞いてくれてありがとう。何か邪魔しちゃってたら、ごめんね」


ハルコは、軽く頭を下げた。


「さっき、下で急いで通り過ぎるのを見かけたから、お茶が飲みたいかなと思って。それに、陛下はきっと何も召し上がってないだろうから、ピザを持ってきたの」


キアロコは、箱を見た。箱には、トミー・ピザと書いてあった。窓のほうを見て、ごまかそうとした。


(くそ……野菜とマッシュルームのピザじゃないか)


キアロコは思った。


(しかも、ピザはひとつだけ。まあ、よく見たら……八切れあるけど)


「ありがとう、ハルコ」


勇作が言った。


「実を言うと、何も食べていなかったんだ。君の言うとおりだよ。ピザを持ってきてくれて、本当にうれしい」


勇作のその言葉を聞きながら、ハルコはもう別世界にいた。


「忙しすぎて、食べ物を頼む暇さえなかったんだ」


勇作は続けた。


「君が来てくれて、どれだけうれしいか。しかも、私の大好きなピザ屋のピザだ」


ハルコは真っ赤になっていた。うれしさでとろけそうになり、額から汗が流れ落ちていた。サリコは少し不思議そうにハルコを見ていたが、何も言わなかった。


「なあ、ハルコ。君は最高だ」


勇作が言った。


「ひとつ借りができたな」


それが、とどめの一撃だった。


ハルコは、うれしさのあまり気を失い、横向きに床へ倒れた。


「本当に……わたしに、あんなこと言ってくれたの……?」


床に倒れたまま、ハルコはつぶやいた。


「もう……なんで録っておかなかったのよ」


「ねえ、大丈夫、ハルコ?」


カートの後ろからのぞきこんで、サリコが言った。


ハルコは、勢いよく起き上がった。


「うん、もちろん! 全然平気。今までで最高に元気!」


ハルコはカップにお茶を注ぎ、砂糖を入れはじめた。最初に勇作へ、次にサリコへ、カップを渡した。


それから、キアロコを見て、彼にもカップを渡した。だが、何も言わなかった。ただ、見ていた。キアロコも、同じように彼女を見ていた。


(あれ、もう二度と会わないと思ってた)


ハルコは思った。


(しばらく来てなかったのに。何があって、ここにいるんだろう?)


「ありがとう、ハルコ」


サリコが言った。


「このお茶、本当においしい。すごく感謝してる」


「もちろん。ほかに何かあったら、遠慮なく言ってね」


ハルコは、机の上の書類にちらりと目をやった。


「ちょっと話したいことがあったんだけど、また今度にするね。今日は、すごく忙しそうだし」


「うん、ちょっと、いろいろ立てこんでてね」


微笑みながら、サリコが言った。


「でも、そんなに忙しくなかったら、今夜話そうよ。どう?」


「もちろん! 気にしないで。下で待ってるね」


「なあ、勇作」


キアロコが言った。


「で、あの男について何がわかってる? それに、トミー・インダストリーって何なんだ?」


ハルコは、キアロコをじっと見つめた。まるで普通の友だちに話すみたいに、勇作に話しかけている。


(いったい、どうして陛下にあんな口のきき方ができるの? まるで、そのへんの人みたいに)


ハルコは思った。


そのとき突然、大きな窓から、風がどっと吹きこんだ。


書類が舞い上がり、床に落ちた。ハルコは、しゃがんでそれを拾い集めた。


そのとき、ビルが大きく揺れた。


サリコの手からカップが滑り落ち、大理石の床で粉々に砕けた。お茶が、床に広がった。


警報が鳴りだした。


画面のひとつに、誰かが映った。


「安全な場所にとどまってください。迎えに行きます」


勇作が、キアロコを見た。


「あの男だと思うか?」


「いや。正直、これをやってるのが、あいつだとは思わない」


そう言っているあいだに、キアロコの影が、床から立ちのぼりはじめた。


「時間だ」


キアロコが言った。


ハルコは、立ち上がろうとした。


そして、気づいた。


キアロコが、もういない。


サリコも。


かろうじて見えたのは、椅子に静かに座っている勇作の姿だけだった。ハルコは、まだ床にいた。震えながら。怯えながら。何が起きているのかも、わからないまま。

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